薔薇香る憂鬱

青い向日葵

親切な人

 初夏と言ってもまだ半袖で出歩くのは肌寒い朝でしたが、薄手のカーディガンを羽織り日傘をさして、夏向かなたさんの絵が展示されているという美術館へ電車を乗り継いで行く為に、まだ人影もまばらな駅から一人乗車しました。

 乗り慣れた電車は途中から通勤通学の人々を次々と乗せてゆき、車両はあっという間に満員になりました。

 足が少し不自由な私は、杖を持って優先席に座り、誰も文句を言うことはないけれども杖と杖に付けた赤いヘルプマークと私の普通にしか見えない二本揃った足を交互に見るのを薄らと感じながら、気づかない振りをして大人しく座って居ました。


 杖は、あれば時には助かるけれど、なければ歩けないかというとそうでもなく、どちらかと言えば荷物を持っている時などは邪魔になるのですが、調子にのって無理をしない為にも、まさしく転ばぬ先の杖として持ち歩いているのでした。ほんの少し前までは元気だったのですから、何か自戒のような象徴的な物でも持っていなければ、無意識に負担を掛けてしまうのです。

 そして私の杖には真っ赤な薔薇の花の絵がびっしりとプリントされていて地色の黒は殆ど見えないくらいに華やかなのです。

 これをお店で見つけた時には思わず、わあっと声を上げて喜びました。花柄の杖そのものは珍しくも何ともありませんが、真っ赤な薔薇は初めて見るものでした。迷わず購入し、すぐに使い始めました。


 目に見えない障害や困難に配慮を促すヘルプマークを頂いて杖を使おうと思ったのには、きっかけがありました。

 ある時、私は元気だった昔のように荷物を持って街を歩いていました。

 半年程前には身体の何箇所かにチューブを繋がれ無菌室に入院していました。

 片足のほんの小さな傷から感染し化膿して深いところで細胞が壊死してゆく深刻な炎症に拡大し、臓器を含む全身の機能低下で生命の危機に瀕した数日間、複数の医師達が私の足をどう処置するのか険しい顔で話し合っていました。

 その中には片足切断という選択肢もありました。患部を切開するかどうか保留のまま点滴による薬剤の投与が継続され、奇跡的に持ち直し退院した私は普通の生活に戻りましたが、少し負担がかかると膝が糸の切れた操り人形のように折れてしまい暫しの歩行困難になることがありました。

 今こうして生きていることが一つの奇跡なのだと忘れないで丁寧に暮らそうと思いました。


 その日は大事な用があり急いでいた為に、無理をしました。街中で、何も無い平らな道の真ん中で、突然ばったりと倒れてしまったのです。両膝と肩肘を地面で強打しました。浮いていたほうの手には荷物を持っていたのですが、鞄は蓋がないのにも関わらず中身が出てしまうこともなく無事で、無事でないのは私の身体でした。

 通行の妨げになるので一先ひとま退かなくてはなりません。這うようにして道の脇まで退き鞄を引き寄せ、立てないのでそのままぼんやりと座っていました。どうしたものか。

 ふとその時、通り掛かった男性が親切に声をかけてくれたのです。

「大丈夫ですか。何か出来ることはありませんか」

 神様かと思いました。年齢のわからない人でした。優しそうな柔らかい雰囲気を纏った、やや長髪の茶髪に色のないサングラスのようなお洒落な眼鏡をかけたその人は、カジュアルな服装から所謂いわゆる普通のサラリーマンではなく自由業の人であると思われました。


 だからこそあまり時間に縛られていないのかもしれません。ただ路上に座り込んでいる怪しげな大人に手を差し伸べるとは相当な善意の篤い人であることは間違いなく、申し訳なさで潰れそうでしたが、私は心底困っていたのでお願いしました。

「膝が痛くて立ち上がることが出来ません。すみませんが、手を貸して頂けますか」

 図々しいと思いましたが、いつまでも地べたに這いつくばっているわけにもゆかず私は彼の手を握り引き上げてもらって、ようやく立ち上がりました。

 ふらふらと頼りない足取りでも何とか歩くことは出来ました。自分の足ではないような違和感と膝の痛みがありましたが人に迷惑を掛けてばかりはいられません。

「ありがとうございました。大丈夫です。気をつけて帰ります。本当にありがとうございました」


 何度お礼を言っても足りない気持ちでしたが、一刻も早く消えたい気持ちもありましたので、笑顔を作り立ち去ろうとしました。するとその人はショルダーバッグから何やらチラシのようなプリントを一枚出して私に渡してくれました。

「僕は絵を描いています。展覧会があるので、もしもよかったら来てください」

 そう言って画家の紹介の欄を指して、名前を教えてくれました。

虹野夏向にじの かなた。本名です」

 綺麗な名前だなあと思いました。それから慌てて自分も名前を言いました。

「私は、小枝優音さえぐさ ゆのです。小さい枝に優しい音って書きます」

「優音さん。綺麗な名前ですね」

 夏向さんは、にっこりと笑って言いました。

「あ、必ず伺います。本当にありがとうございました」

 私はチラシを握りしめたまま、お辞儀をして立ち去りました。

 膝は痛みましたが振り向かずに歩いて、遅れてしまった用事を何とか済ませて帰りました。


 家で素足をよく見てみると尋常ではないアザになっていて、肘も酷いものでした。

 薔薇の模様の杖に出会ったのは、その三日後です。

 展覧会の開催は一週間後。運命のようなタイミングでした。私は精一杯の余所よそ行きの服を着て、電車に乗っています。

 もう一度、夏向さんに会えるかもしれません。たとえ会えなくても、彼の絵を見るのが楽しみで仕方がありません。

 こんなに心が騒ぐのは、とても久しぶりのことです。やはり、あの人にもう一度会いたい。もっと知りたい。話したい。私の胸の中は、いつの間にか夏向さんのことで溢れていました。彼のことは名前のほかに何も知らないというのに、抱えきれないくらいに。

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