ミッドローグ
『売られた子供。お前はこの命令をこなさなければ死ぬだろう……』
咳き込みながら、少年は廊下を駆けていた。
少年は浅黒い肌をしていた。そう、メラン族である。しかし今、少年が駆けている場所は水の国、ウェードウェザー国の王宮内だ。
この王宮は、通称「人魚」しか入れないよう、周辺をぐるりと滝で囲んでいる。入るために10分は水中にいる必要があり、そのために王宮内は、長時間水の中にいても問題がない、人魚の血の濃い者ばかりだ。
メラン族の少年が、入れるわけがない。
しかし少年は入れている。
なぜなら少年は、「人魚」の片肺を人工移植しているからだ。
移植が上手くいった者は、移植を実行した数の数パーセント。幸か不幸か少年の手術は成功したのだ。
親に売られ、人体実験で生き残ってしまった彼は、死なないために必死に廊下を走っている。
「王家の長女を殺す」命令をこなすために。
非常に横幅のある廊下だ。床には厚い絨毯が引かれ、蹌踉めきながら走る少年の足音は一切しない。
左右には、少年が20歩程走った間隔ずつ、重厚なドアがある。間には蝋燭が煌めき、ガス灯と合わさってかなり明るく廊下を照らしている。
『繊細な花の彫刻がされたドア』
少年はそこに行かなければいけなかった。
そこに行き、ウェードウェザー国の王家、フルクティクルス家の長女を殺さなければならなかった。
左右を見渡し、時に咳き込み軋む肺を抑えながら走り続ける。邪魔そうに頭を振れば、少年の髪からは水が滴り落ちた。よく見れば彼の簡易的な服はびしょ濡れで、絨毯には微かに足跡が残っている。
鷲の彫刻を通り過ぎた次のドア、ようやく少年は足を止めた。
まるでバラに花束がそこに埋まっているかのような、幾つもの花。彫りは非常に細かく、花びらの皺ひとつでさえ表現されている。
ここだ。
待ち望んでいた場所についた割に、少年の顔は疲れ切ったものだった。褐色の瞳は光を落とし、唇は軽く震えている。いくら片肺の人工移植を受けたところで、身体の大部分はメラン族のものだ。水が苦手であることには変わりない。
それでも彼は思いを捨てるように頭を強く振ると、重量感のあるそのドアをゆっくりと開けた。
部屋の中に滑り込む。部屋に飾られた蝋燭で照らされる、物の少ない部屋のその奥。
ひとりの少女がそこにいた。
一瞬少年は見惚れる。
光で淡くオレンジに輝く、真っさらな白い長髪。こちらを虚を突かれたように見つめる瞳はアクアマリンのように透き通った淡青色だ。肌は陶器のように白くて、こちらも灯りで輝いていた。
見惚れて、そして少年は彼女こそがターゲットだと気が付く。
少し彼は迷った。こんな人間に、これから行う行為は許されるのか。
けれど、そんなことを考えてもしょうがない。
彼は行為を進めなければ、決して許されない立ち位置にいるのだから。
──背に隠していたナイフを抜き、咆哮を上げながら彼は少女に走り寄った。
……が。
素早い動きで腕を取られ、足を払われる。床に倒れ込んだ少年の上に、少女が飛び乗った。
「あなた、なに?」
少年は焦る。殺さないと、自分が死ぬのだから。しかしナイフは部屋の隅に飛んでいき、他に武器は持っていなかった。
「浅黒い肌。どうしてここに入れたの?」
「……」
「私を殺そうとしたのは、どうして?」
「……」
「予想はつく。クーデタでしょ」
少年がきょとんと少女を見る。まるで初めてその言葉を聞いたような反応だ。少女も、え、と驚いた。
「違うの?」
「……知らない」
「目的も知らないで私を殺そうとしたの?」
「……ああ」
「ひどい話」
と、その時。
「お嬢様! たった今侵入者がいるとの情報が!」
ドアが勢いよく開く。入ってきた警備員が少女と少年を見て、眉を潜めた。
「お嬢様、侵入者はそいつですか。危険ですから上からお退きください」
「退いたらどうするつもり」
「排除します」
「殺すってこと?」
「……排除します」
少女は退かない。むしろ少年に抱き着くように近づいた。
「この人は、きっと誰かに命令されてここに来たんです。この人は悪くないんです」
「お嬢様!」
警備員が鋭い声を出す。しかし少女は退かない。
しかし少年が身じろぎする。少年は見えていた。
警備員の背後から、少年に指導を行っていた大人が、武器を持って近づいていることを。
――このままでは、全員死ぬ。
少年の身じろぎに、少女が少し身体を起こす。少年はそのまま立ち上がり、少女の手を握った。
「このままじゃ、全員死ぬ」
「え?」
そこで少女も、警備員の後ろの男に気が付いたようだ。あ、と言おうとした瞬間、警備員が倒れる。
ナイフを持った男と、少年少女の目が合う。
「逃げるぞ!」
少年は少女の手をひき、窓へ駆け寄り飛び降りる。そこは2階だ。飛び降りた先も湖の中で、叩きつけられることはなかった。
そのまま少年と少女は、逃げることになる。自分の生まれた場所へは、それ以来一度も戻っていない……。
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