第9話
ともかく走って、走って、走って。猫の姿のままだから、夜道でも夜目が効いた。
追っ手は来なかったし、そもそも出る時も気付かれないで済んだ。入口は鍵がかかっていたが、隙間から通ることが出来た。
早く、早く行かないと。
まだ毒が完全に抜けていないのか、偶にふらりと眩暈が襲って倒れ込む。ある時倒れ込んで目が覚めると、いつのまにか日が昇っていた。
急がないと。フユが死ぬ前に、早く……!
疲れた身体に鞭打つ。人間の足で歩いて1時間はかかるところを、猫が走っているのだ。さらに途中途中気を失っている。時間はまだ大丈夫だろうか、間に合うだろうか。
いや、間に合わせないといけない。
ようやくフユ達の部屋近くの市場が見えてくる。
「きゃっ、黒猫!」
「魚盗む気だろう、どっか行きな!」
今、食料なんてどうでもいいんだ。早く、早くレオに伝えないと。
驚く人々の足をすり抜けて、路地を曲がる。あった、やっと見つけた、あそこの3階。
猫のまま駆け上がり、ドアの前ではたと止まる。どうしよう、ここで人間に戻ると人の目に触れる。どうにかして中に入らないと、
「お前、どうした」
はっと後ろを向くと、ちょうどいいところにレオが僕を覗き込んでいた。パンを持っているから市場の帰りの様だ。ちょうどいい、がりがりとドアを掻く。
「なんだ、開けるぞ」
開けた瞬間に転がり込んで、レオが戸を閉めたのを確認して強く念じる。人間に戻れ、戻れ。
しゅうしゅうと音を立てて、鈍く身体が痛む。それが収まって目を開けると、人間の身体に戻っていた。
よし、これでレオに伝えられる。
「れ」
お、と言おうと顔を上げた瞬間、首を掴まれ床に押し倒された。
「がっ……!」
前を向くと、レオが上に乗り、強く腰を締め付けてくる。足が動かない。
褐色の瞳をギラギラと尖らせて、僕を睨んでいた。
「よく帰ってきたな、小僧。フユをどこにやった」
「レオ、フユは」
「誰が気軽にその名を呼んでいいと言った!!!」
がっ、と頬に強い痛みが走る。思わず目を瞑ると、襟首を掴まれ、持ち上げられた。
「返答次第ではどうなるか分かってるよな、おい」
レオの目には、怒りしか感じられなかった。いつもは細い目が見開かれ、がんと僕を見つめている。目線で殺されそうだ。数日暮らしたのに、芽生えた少しの信頼はどこかに吹き消えたようで。
……当たり前か。
それだけのことを、僕はやったんだ。
フユを売ったんだから。
「……ごめんなさい。フユを、フユを助けて」
「どの口が言ってんだよっ、てめぇ」
「お願いだ! 街外れの墓地の下、魔法抜きをしたらフユが食われる!」
また僕を殴ろうとしていた手が止まる。ぴくりと、レオの唇が震えた。
「食われる、だ?」
「……」
「お前、人狼の手下か?」
「違う! さっき僕が変身したとこ見たでしょ、脅されてしょうがなく」
「しょうがなくフユを売った? おい小僧、許されるとでも思ったのか、その答えで!」
次は左頬を殴られる。頬というよりこめかみに近くて、ぐわりと頭が揺れた。
「もう一度言ってみろ、ふざけんなよ、脅されてしょうがなく? しょうがなくてめぇはフユを売ったのか?」
ふらりと、レオが立ち上がる。
「売って、食わせたのか? ああ、人魚の肉だからな、お前は助かったろうよ!」
サイドポケットからナイフを引き抜く。
「そこに寝転んでいろ。すぐさま俺が殺してやる」
ぎらっと瞳が光った。
「ちょちょちょっと待ってって、だからフユはまだ死んでない! 今なら間に合うんだ」
僕の眉間を狙って振り下ろされたナイフが、ぴたりと止まった。思わず汗が垂れる。し、死ぬかと思った。
「……それを早く言え」
「言ったよ」
「なんか言ったか? お前、今、口答えできる状況だと思ってんのか?」
「す、すいません」
レオがナイフを仕舞う。そしてどかどかと出口に向かった。
「お前を殺すのは後だ。取り敢えず場所まで案内しろ」
「わ、分かった」
もう猫になる必要もないだろう、人間のまま、僕はレオの前に立ってドアを開けた。
「まだフユは生きてるのか」
「生きてる。魔法を抜かないと人狼の連中は食べれないから」
「それが終われば食べるつもりだな。時間は」
「えっと、夜中に出たから、あと8時間くらいだと思う」
「急ぐぞ。フユの事だから、多分時間をもっと早める」
「そんなバカな」
「あいつはそういう奴だ」
走りながらの会話で疲れが一気に出たが、そんなこと言えるはずもないし言うつもりもない。疲れを必死に隠しながらレオの後ろをついていく。
昔、何かの訓練をしていたのだろうか。それくらい足が速いし、走り方に無駄が無い。まるで軍隊にでもいたようだ。
沈黙が耐えられなくて、思わず口を開いてしまう。
「……フユとどうやって出会ったの」
「なんでフユを売ったお前に言わないといけない」
「……」
なにも返せない。確かにその通りだ。
黙り込んでいると、息を吐き出して、レオが喋った。
「俺はあいつを、殺そうとした」
「え?」
「でも、止めた。だから傍にいる。永遠に守ると決めたんだ」
話は終わりと言わんばかりに、レオがそれ以上何も言わなくなった。
人種も違うのに、どうやって出会って、殺すまでなったんだろう……?
気になったが聞ける雰囲気でもない。それ以降、ぱったりと会話は途絶えた。
墓地の階下へ向かうドアの前で、思わず大きく息を吐く。レオが細目で僕を見た。
「ここまで来たらもう用済みだから、どっか去れ」
「嫌だ、僕もフユを救うのを手伝いたい」
「てめえが売ったのに?」
「僕が売ったからだ」
売った責任だ、救わないと。
ふん、とレオが顔を背け、そのまま座り込む。
「このドアの下か」
「そうだよ、けど鍵がかかってる」
「鍵がかかってる?」
なんでそこを聞き返す?
そうだよ、と言おうとして、言葉が止まる。
立ち上がったレオが大きく足を振り上げて、
――鍵のかかった鉄格子を蹴り落とした。
ガンッ! ガララララ……
「嘘だろ……」
「入るぞ」
平然と降りていくレオに、唖然とすることしか出来ない。
僕、よく殺されなかったな……。
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