偽りのヴィーナス

yuki

序章 神隠し

真夏の夜

その神社は祭りを楽しむ人であふれていた。それは日本の各地に存在する神社にとってごくありふれた光景。

もともと神社というものは神様をお招きし、その場所にお鎮まりいただいた神様へのご奉仕をする場所。

つまり、この神様へのご奉仕こそが「お祭り」と呼ばれるもので、日本では何百年と続いている神聖な立派な儀式である。


陽の光が東から西へと沈み、無数の星たちが頭上に現れ始めている。

境内へと続く階段には、風も絶えた夏の夜の闇が提灯の灯火をぼんやりと浮かばせ、重く蒸し暑く垂れ込めている。

屋台に垂れ下がる電球が、階段へとつながる道を歩く人々の群をオレンジ色で包み込んでいる。

通路を行き交う年齢は様々だ。家族連れ、若者同士、カップルや年配。

彼等は無邪気に騒ぎ、笑いながら祭りを楽しんでいた。たわいも無い会話でその場を繋ぎ語り合う。

退屈をしのぎ無言をなくす為、自分にとって何の有益でもなく興味も無い話題。

例えそれが単なる噂話や迷信の類いだったとしても。


賑わいを見せる表通りから少し離れた静かな参道で男は真剣な表情で語り始めた。

ー神隠しって知ってるか?

その言葉は日本人なら一度は必ず聞いた事のある話。


人間がある日を境に忽然と消える


その男は相手の興味を自分に振り向かせたいのであろう。隣にいた女が退屈そうな顔をする

ーそれが、どうしたの?

古来から日本では神域である山や森で行方不明になったり街や里からなんの前触れも無く失踪することを、神の仕業としてとらえられていた。

だが、科学技術や情報網が発達した現代ではそのほとんどが、単なる迷子や自らの失踪、夜逃げ、誘拐や拉致監禁、殺害や事故等の理由で片付けられるものばかりであった。

冷めた目で男を見る女。

ーいや、だから…。

男はそれ以降、語る事はしなかった。これ以上は何を話しても無駄だろうと悟る。それは目の前にいる女の顔を見れば一目瞭然だった。

空に流れる雲が風に流されてに満月の明かりを消したりつけたりしている。

ー…別れましょう。

女の言葉にさほど驚いた表情もせず、男は黙っていた。この場に来る前から予想はしていた。だから何も言い出す事はしなかった。

しばらく二人の間には静寂が訪れていた。

それでも、これで最後なのだから何か言わないと終わらないだろう。その最後の言葉を男が真剣に考えていると背後から少女の小さな悲鳴が上がる。

「ごめんなさい」

男の背中にぶつかってきた少女。

暗闇の中、顔の表情までは見えなかったが透きとおった少女の声からは何故だか少しだけ怯えや焦りが混じっているようにも聞こえる。

心配になった男は少女に声をかけようとするがよほど急いでいるのか、少女は男に謝るとすぐに走り去ってしまった。

その男の行動を冷めた目で見ていた女が言う。

ーへぇ〜、あんた年下に興味あったんだ。それじゃあ、私はもう家に帰るから。あなたも一人で帰ってね。バイバイ。

ぶつかってきた少女の行動にはさほど気にも触れる様子もなく女は男と歩いてきた参道を一人で戻っていく。

夏の夜虫が鳴き続ける森の中、男はしばらくその場に立ち止まり女の姿が見えなくなるのを確認して歩みを始めていた。


満月の夜

男にぶつかった少女は、神社の拝殿前へと続く道を走っていた。

少女は水色の朝顔の刺繍が施された清楚な浴衣を着ていたが、その花には泥がいたるところに付着していた。よく見ると下駄などの履き物も履いていない。

年齢は十六、七歳というあたり。高校生であることは間違いないだろう。

まだ少し幼さも残っているが、美人で綺麗な顔立ちをしている。

後ろに束ねている髪の毛はまるで馬の尻尾のように艶々となびき、細く華奢な体はしてはいるが柔らかそうな印象はない。むしろ研ぎ澄まされた刃のような鋭さを感じさせる少女。ただそんな風に思えるのは、力強く閉ざされた唇と、彼女の今おかれている状況のせいなのかもしれないが。

そんな自分の乱れた姿などに構うことなく少女は暗い夜道を走り息を切らせたどり着いた。

拝殿前には少女の他に誰もおらず遠くの方から祭り囃子だけがかすかに聞こえる静かな空間が広がっている。

少女は着崩れていた浴衣を着なおし泥を手で払いのける。そしてーー


「神様、お願いします。私を助けてくださ

い。」

か細い声で神様に懇願する少女。唇を噛み締め、合わせた両手は小刻みに震えていた。

不安や焦燥が入り乱れた少女は諦めず、神に懇願をする。

「お願いします。どうか、どうか、私を助け

て」

闇の中、少女の声だけが虚しくこだまするだけだった。

ー……。

それでもしばらくの間は神様から返答が返ってくるのではと待ち続けた彼女は賽銭箱の前で力無く座ると涙を流し始めた。


ー…やっぱり神様なんかいない。


走り、泣き疲れて途方にくれる少女は賽銭箱にもたれぼんやりと夜空を眺める。

数分前まで分厚く夜空に広がっていた雲がなくなり、大きな満月が彼女を照らし始めたていた。


「あなたを助けてあげましょう。」


少女が満月の光で目が眩みそうになっていると女の声が社殿の奥から聞こえてきたような気がした…。


「あなたの願いを叶えてあげましょう。」


聞き間違いではなかった。今度ははっきりと少女の耳に聞こえた。

拝殿奥の向こう側、今は閉ざされ誰もいないはずの本殿からその声は聞こえてくる。

宮司や巫女ではないのかと周りを見渡したが人の気配はない。

もともと、この神社はそれ程大きくなく社務所はおろか昼間でも参拝する人はほとんどいない。少女も幼かった頃に一度だけ両親に連れられて参拝しただけだった。


ーいい、この神社には絶対に一人では来ちゃダメよ


子供の頃、幾度となく少女が聞いていた言葉。

拝殿へ勝手に侵入した少女は本殿への扉に手をかけ開こうとして母の記憶を思いだし、一瞬ためらう。

…だが今は、そんな母親の忠告など聞いている余裕などはなく、彼女は本殿につながる扉をゆっくりと開けた。


扉の向こう側、本殿の中に誰かがいる気配がする。

眩しく輝く月明かりも、拝殿内を照らすことはできても奥にある本殿には届いていなかった。

そんな状況の中、少女は相手の存在を確かめようとしていた。


「わたしはここよ。さくらあいり」

少女より早く暗闇の中から声が聞こえた。

口調は柔らかさがあるが、優しさは感じない。想像した以上に若い声だった。声だけ聞くとあいりと呼ばれた少女より幼く聞こえる。

「どうして、私が桜愛梨だって知ってるんで

すか?」

突然の事で一瞬遅れた少女は答えた。恐怖でかすかに声が震えた。相手が誰なのかわからないのに自分の名前を知っている。

だが、女は構わず話しを続ける。

「そんなに怯えなくていいわよ。私は何でも知ってるから。あなたの歳は、十六歳。近かくの赤城高校に通う高校生。学力は普通よりかなり下、スポーツは万能で得意、美人で明るく、優しい、そして男女問わず友達が多い」

桜愛梨の紹介。女のその紹介に一つだけ訂正したい箇所があった。声の震えもなくなった愛梨は見えない女に向かってもうしわけなさそうに訊ねる。

「あのー」

「なんですか愛梨?私はまだ話しの途中です

が」

「そうなんですか、すいません。でも学力の

ところがとても気になったかなぁ…なん

て。」

「これでも優しく言ったつもりよ。そんなは

っきり〇〇なんて言える訳ないでしょ。な

により私の品格がさがっちゃうじゃない

の」

笑いを含んだ女の声は冷ややかだ。

「そうですけど。」

愛梨はため息をついた。その言葉は事実だったけど、あらためて言われると虚しくなる。しかし女はこの事についてはもうなにも言わなかった。代わりに話しを続ける。

「あなたの両親や妹、友人の名前も知っている。 桜愛梨に関する事なら過去の出来事からいま現在の状況まで私は知っているのよ。」

愛梨は黙って聞いていた。話し終えた女は一度区切りをつける為に少し間をおいた。

「じゃあ、本題に入りましょうか」

「はい」

「では聞きます愛梨。あなたは助かりたいで

すか」

「はい」

「それでは質問を変えます。あなたは全てを

忘れ失っても助かりたいですか」

唐突な女の質問に、愛梨は小さく息を呑んだ。

ーー助かりはしたいけど…。

しばし沈黙することになる愛梨。

「父や母、友達にも一生会えないという事で

すか?」

「そうです。一切会う事は出来ません。」

冷静な女の声だけが本殿に響く。

「それは…。」

愛梨が言葉に詰まり、難しい顔をする。それを見た女が落胆し、ため息をする。

「…今の話しをもう少しだけ分かりやすく説明しますね。」

「ありがとうございます。」

「まず愛梨、あなたの記憶は全て消えます。

そしてあなたはこの場所からいなくなります。…これは理解できる?」

「さすがに分かります。」

「次に愛梨が隠したい今日の出来事の画像や 情報、証拠データなどを全て削除及び書き換えをします。本当なら出世から現在のデータを消してしまえばいいんだけどそれだと後の処理が面倒だから。…今、言った事は分かった?」

「うん…なんとなく」

ややこしい古文の問題でも聞かされているかのような仕草で苦悩を見せる愛梨が不安げに言う。

愛梨は子供の頃からインドアではなくアウトドア派。家の中ではなく外でよく遊んでいた。家庭用のゲーム機などは一切持っておらず、遊んだのも小学生の頃、男友達から「面白い」からと誘われて遊んだ一回だけだった。両親にも欲しいなら買ってあげると言われたが愛梨が断った記憶がある。ただ、ゲームが面白いと思わなかったというよりは操作が難しく愛梨には無理だったと言ったほうがいいかもしれない。スマホでさえ使い方が分からず友達によく聞いてるのに、データを削除、書き換えすると言われても愛梨には「なんの事?」だった。

「あの、一応は分かったんだけどね。それだと親や妹、友達には私の記憶が残ったままじゃない」

「あら、よく気づいたわね偉いじゃない。そ うなの、他人の記憶までは私も操作出来な

いから」

大げさにジェスチャーをとりながら、わざとらしく呟いた女。多分そんな感じだろう。まだ暗くてよく見えないけど、

「でもそれぐらいならなんとかなるでしょ。この国には神隠しなんて立派な言葉があるじゃない。それにでもあったと思って忘れて貰えばいいんじゃない。」

「あの、そんなに簡単に言いわれても」

不機嫌な口調で愛梨は訊き返す。女の真意が分からないが、彼女のなげやりな喋りは善意よりも悪意を感じる。

「だったら別にここに残ったらいいじゃないの。私は別に無理強いはしていないのだから。後はあなたが決める事よ。」

「そうですね」

「だけど、ここに残ったにしてもあなたが幸せな人生を送ることは無理でしょうけど」

その言葉は愛梨の表情を曇らせた。女が何気なく口にした意味は、愛梨にも想像がついていた。

今日の出来事が遅かれ早かれ確実に知られるのは間違いない。でも、その後がどうなるのだろうーー

友達だちはずっと友達でいてくれるのだろうか?

自分の両親や妹はどうなるのだろうか?

そして私は。

幾つか想像してみたがどれもハッピーエンドで終わるものはなく、愛梨は首を横に振った。


「分かりました。あなたの条件に従います。」

硬い表情で愛梨は答えた。女に会ったときから質問に対する答えは、既に決まっていた。

ただ、それに対する代償が大きすぎて口に出せなかった。

黙って消えてしまうのは親や妹、友達に心配をかけるのは間違いない。それでも、十年も経てば友達は忘れてくれるだろう。両親や妹にはそうはいかないかもしれないけど、でも残った三人で仲良く幸せに暮らしてほしい。

もし私がここに残る選択を選んだら。

それでは、不幸になる人間が私だけではなくってしまう。

愛梨の頬に一滴の涙が流れる。

ーさよなら、パパ、ママ。

ーさよなら、里奈。お姉ちゃんはいなくなるけどパパとママの面倒は見てあげてね。

ーさよなら、学校のみんな。

…ごめんね

「その言葉、桜愛梨の本心で間違いないですね」

「はい間違いありません」

「了解したわ。」

その言葉とともに、愛梨の目の前だけが急に明るくなる。輝きをます光の中からなにかが現れた。それは一人の少女だった。

肩まで伸びた白銀色の髪が美しく可愛いらしい顔の美少女、あるいは幼女という言葉の方が似合うかもしれない。

愛梨の素直な印象だった。

フランス人形のような黒色のドレスを纏っていた彼女は愛梨が想像していた女性とは違っていた。

ーなぁんだ、私より子供じゃないの

少しだけ緊張がほぐれる。彼女がそんな感想をいだくのには理由があった。

実際のところ愛梨は、残念美少女と影で囁やかれるほど学力以外は全てパーフェクト。一六歳の年齢にしては発育もよかった。

そんな彼女に何もかもが劣っている(顔は除く)少女に怯える必要も無いと判断したのだ。

ほっとする愛梨。

その様子を見ていた少女が、瑠璃色の瞳で愛梨を睨みつける。

「あなた、私に対してとても失礼な事思ってなかった。いま?」

「…いいえ別に、そんな私の方が勝ってるなんて…あっ」

突然、疑問を投げつけてきた少女。彼女の姿を見て安心していた愛梨はつい本音を言ってしまった。

…愛梨は天然でもあった。

「これでも私、あなたと同じ年齢よ」

ムスッとした少女が口を尖らせる。

「私と同じってことは…うそ、十六歳なんだ。とてもそんな体には…。」

そしてまた失礼な事を言ってしまった愛梨は慌てて口を塞ぐ。

「あなたってほんと失礼、…素直なのか馬鹿正直なのか。」

少女は怒りすら忘れ呆れていた。

「ごめんなさい」

「謝らなくていいわよ別に。他の子たちも多分そう思ってるだろうから」

「私以外にもいるんですか?」

「いるわよ何人も。でも詳しい話はここでは言えないわ。だから、はいこれピアス。」

そう言って少女から手渡された豆粒ほどの大きさのピアス。

片方しかなく、デザインも手鏡のような不思議な形をしている、正直あまり可愛くない。

「これは?」

「ピアスよ。さっき言ったじゃないの。」

「そうじゃなくて。どうすればいいの、耳を挟むものもないし針もでてないけど。」

「…あ、そうよね。ごめんなさい。そのピアス、半分にわかれるから。耳たぶに前後ろで挟むの、その後は自動で針がでてきて耳に完全に固定されるわ」

まったくもう。もしかしてこの子も私と同じで天然なんじゃないの。愛梨は教えられた通りにピアスを半分にして耳に挟もうとして思いだした。とても大事な事を。

「あのー…聞いてもいい?」

「なぁに、私も忙しいんだから。やっぱりやめますとかは無しにしてよ」

「名前、聞いてないんだけどあなたの?」

「え?私、名乗ってなかった。」

気の抜けた声でそう言うと、少女は顔を赤くし急に笑い始めた。愛梨はピアスを挟む手をとめ、それを黙って眺めていたが、

「それで、なにがおかしいの?」

「久しぶりかなぁと思ってね。こんなに私が振り回されるのも。そう考えてたら急におかしくなって…。」

「なによ、それ意味わかんないわ。」

まだ笑い続ける彼女は本当に子供のようだった。

屈託のない笑顔を見せる彼女はすごくかわいい。

さきほどまで会話をしていた少女とはまるで違う人物のように。

ほどなくして彼女は静かに語り始めた

「私はテミス。女神なのよ愛梨。」

「……女神?」

「そう。…さあ、あまり時間もないわ。あなたもそのピアスをしなさい。」

この少女が女神?冗談でしょ。驚いた愛梨だったが女神テミスに急かされ耳にピアスを挟んだ。

カチっという音が聞こえ、耳にチクっとする痛みがはしった。ピアスからでた針が貫通して完全に愛梨の耳に固定される。

ピアスが耳に装着されたと同時に頭の中にロボットみたいな女性の声が流れてきた。

ーサクラアイリトノドウキカンリョウ

ーコレヨリモードVノハツドウヲジッコウシマス


「え?なに。え、え…何がどうなってるの?」

困惑する愛梨。テミスは笑顔で眺めている。

すると今度は少女の声が頭の中に流れてくる。愛梨はテミスかと思って彼女を見るが違っていた。

ー初めまして、愛梨。私はフローラよ。よろしく。

ーさっそくだけどあなたの記憶を全て頭の中から消去するから。

「え、……。」

愛梨はそこで気を失う。倒れた愛梨をテミスは抱き耳もとでそっと囁いた。

「驚かなくても、大丈夫よ。あなたも女神なのだから…愛梨。」

眩い光が神社の本殿を包み気を失っている愛梨とテミスの二人はその光の中で忽然と姿を消した。


両親、妹、友達、そして幼稚園、小学校、中学校と今にいたるまでの全ての記憶を消された愛梨。

そんな愛梨に行方不明の届けが出されたのはこれから数時間後…この神社の本殿で彼女の携帯電話が発見されたのは二日後の昼だった。

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偽りのヴィーナス yuki @yukimasa1025

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