78.最期のつとめ、恋のおわり(前編)




 さくら、歳三、源三郎、総司、新八、左之助の六人が、勇の部屋に集められた。試衛館生え抜きの面々だけが呼ばれたことに、皆異様なものを感じ取っていた。

「山南さんが、昨日から戻っていない」勇が眉間に皺を寄せて言った。

「それって、どういう……」総司の顔が俄かに青ざめた。

「あ、明里さんのところじゃないか?泊ってるのかも」さくらが閃いた、とばかりに声を弾ませた。

「外泊の届けは出ていない」歳三が淡々と否定する。

「そんなもん、ちょっと忘れちまったとか、泊まらずに帰ってくるつもりが盛り上がってそのまま、とかあるだろうよ」左之助が援護した。

「まさか近藤さん……山南さんが……脱走したと?」新八が驚きの眼差しを向けた。

 勇はうーん、と唸ったかと思うと、言いにくそうに口を開いた。

「その可能性も、あると思う」

「そんな……では山南さんは……?」源三郎がおずおずと訊いた。

「切腹。に、なるだろうな」

 歳三の一言で、ただでさえ重苦しかったその場の空気が、よりずしりと落ち込むようであった。

「わ、私、島原に行ってくる!明里さんのところにいるかもしれないし!」

「あ、おいさくら!」

 勇が呼び止めるのも聞かず、さくらは部屋を飛び出していった。


 ――脱走なんて……嘘ですよね?山南さん……!無断外泊したのは褒められることではないし、謹慎くらいにはなるかもしれないが……!お願い、明里さんのところにいますように……!

 さくらはぜいぜいと息を切らせて木津屋の前に立ち尽くした。それから一瞬だけ冷静になって、そういえば男の姿でここに現れたらまずいのではないか、と思い至った。何しろ女中として潜入していた時に顔なじみになった人間がうようよいるのだから。

 すると、馬の蹄が地を踏む音が聞こえてきた。何事かと見やると、竜丸に乗った源三郎が現れた。

「まったく、一人で突っ走って」

「す、すまぬ……」

「私が取り継ぐから、そこの茶屋で待っていなさい」

 さくらは言われた通りに近くの茶屋に入り、申し訳程度に茶を一杯頼むと、祈るような気持ちで源三郎が現れるのを待った。気持ちとしては一刻(二時間)ほど経ってしまったのではないかと思える程待った後、源三郎がやってきた。なんと、簡素な装いの明里も一緒である。さくらは、嫌な予感がした。

「サク、山南さんは、明里さんのところにも来ていないそうだ」

「お初はん、ほんまなんどすか?昨日の今日やないの。山南はんは、どこへ……?」

「それは、わかりません……ただ、明里さんのところにもいないとなると……」

「脱走……」

 ぽつりと呟いた源三郎を、睨むように明里は見た。

「脱走したらどないなるんどす」

「隊規に照らし、切腹になります」

 さくらの言葉に、明里はふらりと倒れそうになった。源三郎が支えてやると、明里は体勢を立て直し、さくらの肩をぐっと掴んだ。

「お願いどす。山南はんを、助けとおくれやす。後生どす、お初はん……」

 さくらは黙って頷き、明里の手を握った。


 さくらと源三郎が屯所に戻ると、再び朝方と同じ面々が勇の部屋に顔を揃え、今後の策を話し合った。

 歳三たちが山南の部屋を検めた結果、行李の中身がごっそりなくなっており、置手紙が見つかったそうだ。一言だけ、「江戸へ帰ります。お世話になりました」と書いてあったという。

 もはや、山南が脱走したという事実は疑いようのないものになってしまった。

「おい、本当にサンナンさん切腹させんのかよ?」左之助が言った。

「法度でそう決まっている。ここでサンナンさんを助けたら、去年の葛山のことはどうなると言われるだろ。ただでさえ烏合の衆だった新選組が、新入隊士も増えてこの先ますます統制が取りにくくなるんだ。そんな時、古参の幹部は助けます、それ以外は切腹させます、じゃ示しがつかねえ」

「トシの言うことはもっともだ。すぐに追っ手を出して山南さんを連れ戻そう」

 勇は他の六人をじっと見つめた。そして真剣な面持ちで言い渡した。

「源さん、総司、二人で行ってきてください。馬で行けば追いつける」

 えっ、と皆が拍子抜けしたような顔をした。

「ただし。……草津を越えれば、東海道で行くのか中山道で行くのかわからなくなる。草津まで行って見つからなければ、戻ってきてくれ。見つからないものは仕方がないからな」

 その場にいる全員が、勇の意図をくみ取った。だが、誰ひとりそれを口にはしなかった。

「局長指示だ。総司、源さん、頼めるな。他のやつらには念のため市中や西側、大坂方面を探させよう」

 歳三に言われ総司と源三郎が承知、と返事をしたが早いか、「待ってくれ」とさくらが割って入った。

「私も行く。局長、副長。この通り。頼みます」

 深々と頭を下げるさくらに、「しかしな……」と歳三が苦々し気な声を浴びせた。そして訪れた沈黙を破ったのは、源三郎だった。

「馬は二頭しかいない。さくら。総司と二人で行って来い」

「源兄ぃ……」さくらは驚いて顔を上げ、源三郎を見た。

「近藤先生。勝手に申し訳ありません。しかし、今日はなんだか”妹のわがまま”を聞いてやりたいなと思いまして」

 勇はやれやれ、といったような笑みを零した。

「源さんに言われたら仕方ないですね……わかりました。それじゃあ、さくら、総司。頼んだぞ」

「承知」


 さくらは虎丸に、総司は竜丸に乗って東に進み、まずは大津の宿場町を目指した。二頭の馬はぽっくりぽっくりと足音を立てながらのんびり歩いている。

 ――山南さんに、会いたい。話を聞きたい。けれど。会ったら最後だ。だから……会わずに済みますように。

「島崎先生、そこの茶屋でお団子でも食べていきませんか」

 京の町はずれまでやってくると、総司が少し遠くの茶屋を指し示して提案した。屯所を出てからまだ半時(一時間)経ったか経たないかといった頃合いである。あえて先を急ぎたくない気持ちは総司も同じなのだろう、とさくらは思った。

「構わぬぞ。急ぐ旅ではないしな」

 さくらと総司はそれぞれの馬から降りて手綱を近くの木に結び付けると、どっかりと茶屋の縁台に腰を下ろした。適当に団子とお茶を注文すると、ほどなくして運ばれてきた。さくらはお茶を一口飲み、ふうと息を吐いて空を見上げた。

「このまま、一刻ほどここにいようか」さくらがぽつりと呟いた。

「そうですね。お天気もいいし、お団子もおいしいし、ずっといられます」

「……まあ、さすがに店の人に迷惑だがな」

 さくらは団子をひとつ頬張った。ほのかな餡子の甘味に、ほっとする。本当に今自分たちは脱走隊士――しかも、結成以来の幹部・副長――を追っている身なのだろうか、と信じられなくなるような気さえする。

「山南さん、今頃どこにいるんでしょうねえ。どうして。脱走なんか」

「総司は、心当たりあるか?」

「全然。それがまた、なんともむなしいんですよね」

 さくらも同じ気持ちだった。

 脱走するということは、何か理由があるはずだ。その理由は、山南のことをもっとよく見ていれば、もっと話を聞いていれば、察することができたのではないか。

「ああ。情けない話だよ」

 さくらはそれだけ言うと、二本目の団子を頬張った。みたらしだ。塩気のあるこちらの方が、今の気分に合っている気がした。


 結局小半時ほど茶屋に滞在した後、さくらと総司は再びだらだらと歩を進めた。そして日が傾きかけた頃、大津の宿場町に到着した。

 ひとまず今日の宿を探そうと、二人は適当な旅籠を何件か回り、空きがあるかどうかと、念のため山南の目撃情報がないかを確かめていった。情報がないことに安堵している自分に気づきつつ、さくらと総司は手ごろな宿を見つけてそこに落ち着こうとした。

「島崎さん、沖田君。二人だけですか」

 背後からかけられた声に、二人はバッと振り返った。

 山南が立っていた。ふわりとした、さくらの大好きな笑みを浮かべていた。

「やっ、山南さん……?」

 名を呼ぶのが精一杯だった。今、一番会いたくて、会いたくない人。その人が、目の前にいる。

「宿はもう決めてしまいましたか?」

「えっと、ちょうど今決めかかったところで……」

 さくらがおそるおそる振り返ると、宿帳を手にした女中が不服そうな顔をしていた。無理もない。客を逃してなるものかという気持ちもわかる。しかし、そんなことは気にも留めない様子で、山南は言った。

「でしたら、私の泊まっている宿に一緒に来ませんか。どうやら隣の部屋が空いているようで」

 さくらと総司は目を見合わせた。脱走者と、それを追ってきた者とは思えぬ、なごやかな空気が漂っている。ひとまず、さくらは女中に「御免」と断って、山南を連れて路地裏へと駆けた。総司も後から追ってきた。

「山南さん、どうしてまだこのようなところにいるのですか……!もうとっくに草津まで行って、東海道でも中山道でも行けたでしょう」

 山南は、ふっと微笑んだ。

「自分でも、こんなに体力が落ちていると思いませんでしたよ。情けない。とにかく、宿へ行きましょう」

 山南が泊っている旅籠には、確かに空き部屋があった。さくらと総司はなすがままに荷を解いていった。そして三人は、近くの小料理屋で夕食を取った。旅人で賑わっている大衆的な店で、新選組とか、切腹とか、物騒なことを話せる雰囲気ではなかった。こんな状況で何を話したらいいのかわからず、さくらも総司もほとんど無言で料理をつついた。味は、ほとんどわからなかった。


 宿に戻ると、さくら、総司、山南は隣り合った部屋の広い方で膝を突き合わせていた。総司が、待ってましたとばかりに山南に詰め寄った。

「なぜ、隊を抜けたのです」

「沖田君。それは、聞かないでくれるか」

「では、なぜ、まだこんなところにいるのですか」

「それはさっきも言っただろう。疲れてしまったから、ここで少し休んでいたんだ。そうしたら、君たち二人を見つけた。……覚えてるかい?沖田君とさくらさんは、私が試衛館で初めて勝負した二人だ。最後に少し顔を見たいと思ってね」

「覚えているに決まっているじゃないですか」

 と、総司が発した声は震えている。怒っているような、今にも泣きだしそうな、そんな顔をして山南を見つめていた。

「山南さん。なぜ私たちが二人だけで来たのか、わからないわけじゃないですよね。近藤先生も土方さんも、私も島崎先生も、考えていることは同じです。今日、私たちは会わなかった。このまま明日には山南さんを探しに草津に発って、そして見つけられませんでした、と屯所に戻ります。それだけです。多少謹慎か何かの罰は受けるでしょうが、安いものです」

「沖田君。君が私のために罰を受けるなんてことがあってはならない。私は、隊規に背いて脱走した。そして、追っ手である君たちに見つかった。これは紛れもない事実だ。明日には三人で壬生へ戻ろう」

「駄目です」

 総司は、懇願するような視線を今度はさくらに向けてきた。その目は「加勢してくれ」と言っていた。しかし、さくらは何も言えなかった。何を言えば、山南は心を変えてくれるのか。

「山南さん……私」

「さあ、風呂にでも入ってきなさい。ここは湯殿が広くてゆっくり浸かれるのが売りらしい」

 さくらが言いかけたのを、山南は遮った。取り付く島もない、といった様相で、総司もそれ以上何も言葉を発せられないようだった。総司はもう一度ちらりとさくらと見やると、何かを思い出したような顔をして、すっと立ち上がった。

「それでは、お言葉に甘えて。私が風呂から帰ってきたら、島崎先生しかいなかった。そう思うことにします」 


 さくらは、ぽかんとして総司が出ていった方向を見つめていた。総司は本当にこの場を離れてしまった。こんな時に、こんなところで、山南と二人きりになってしまった。

 しかし、もはや何を言えばいいのかと躊躇している場合ではないとさくらは腹を決めた。総司が言ったことの繰り返しになったとしても、とにかく説得し続けるしかない。

「山南さん。私からもお願いです。今日、私たちは会わなかったことにしてください」

「聞いていたでしょう。それはできません」

 ならばとばかりに、さくらは続けた。

「明里さんは、どうなるんですか」

 なりふり構っている場合ではない。明里のためでもいい。逃げて、生きて欲しい。

「身請けしたんでしょう。明里さんからも、頼まれているんです。必ず助けてくれって」

「明里には、すでに文を出しておきました。彼女は天涯孤独で売られてきたというわけじゃないんです。ご家族が故郷でご健在だそうで。ですから、故郷でのんびり過ごしてくれればそれで私は幸せだと」

「そんなの、明里さんが納得するはずありません……!」

「いいや、きっとわかってくれると思います」

 そんなはずがない、と言うのは簡単だったが、これ以上言っても不毛な押し問答になるであろうことも目に見えていた。

 さくらはわずかに膝を進めた。山南との距離は、ほんの四・五寸しかない。

 よく見れば、山南はひどくやつれた顔をしている。それでも、その目は、憑き物の落ちたような、澄み切った目をしていた。

 ――これが、山南さんの選んだ道だというのか……?あんまりだ……。このようなこと、誰も納得せぬ……

「私は……自分が情けなくて、不甲斐ないです……山南さんが脱走する程思い詰めていること……慮ることもできなくて……」

「さくらさんが、自分を責めることはないですよ。私は私の意思で、隊を抜けた。そして、嬉しかった。あなたと沖田君が遣わされてきたことが。本当ですよ?」

「いいえ。私が、気づかなければいけなかった。山南さんのことを、ちゃんと見て、気にかけていなければいけなかった。それが一番できるのは私しかいなかった。だって私は……私は……」

 さくらは、そのまま自らの体を山南の胸に埋めるようにしてしなだれかかった。

「ずっと、山南さんを、お慕い申していたんですから」

 驚いたのだろう、山南が息を飲むのがわかった。そして、その手がぎこちなく自分の背中に触れるのを、さくらは感じた。山南の心の臓は確かに規則正しく音を立てているのがわかる。こんなに近くでその音を感じるのは初めてだ。それなのに、もうすぐ消えてなくなるなんて。やはりさくらには信じられなかった。信じたくなかった。阻止したかった。

「私のために、なんておこがましいことは言いません。けれど。生きてください。山南さんに、死んで欲しい人なんかいません」

「さくらさん……」

 山南の小さな声に応えるように、さくらはゆっくりと体を起こした。山南は穏やかな表情でさくらを見た。

「私を、最期くらいは武士にさせてください」

 さくらは、それ以上何も言えなかった。

 ――総司。明里さん。もう駄目だ。勇、歳三、源兄ぃ、皆……ごめん。










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