77.明里の頼み
澄んだ青空の広がる天気のよい日だった。
山南が何やら香ばしい香りに誘われて縁側に出ると、勇が火鉢で餅を焼いていた。
「ああ、山南さん。体調はどうですか」
「おかげさまで。最近は調子がいいみたいです。近藤さん、なぜこんなところで餅なんか」
「割った鏡餅がまだ余ってたから、もらってきたんですよ。総司なんかは餡子がないとなんて言いますけど、おれはただ焼いたものを焼きたてで食べるのが好きで。山南さんもおひとつどうです」
「ありがとうございます。それではお言葉に甘えて」
山南は柔らかな笑みを浮かべ、勇の隣に腰を下ろした。
「今日は午前中に一番隊が不逞の浪士を見つけましてね、二人捕縛したんです」
勇は世間話のような調子でそんなことを話し始めた。
「小隊の面子を固定したのは今のところ功を奏していますよ。統制が取りやすいし、結束も深まるから力を発揮しやすい。死番も平等に回りますし」
「死番……ですか」
「これは失礼。土方君から山南さんに伝えておくと言っていたのですが。各隊の中で、先陣を切って怪しい場所に飛び込む役目を当番制にしたんです。不意打ちで斬られる可能性が一番高いですが、その分覚悟を持って戦いに挑める」
「土方君の考えそうなことですね」
「実は、池田屋の時に木内君や、死んだ奥沢君が各隊で先鋒として旅籠や商家を改めてくれたのに着想を得たんです」
「なるほど……」
合理的だ、と思った。洋式調練の象徴にも思える小隊制も、合理的だ。それはわかっている。
「近藤さん。これから日本は、どうなると思いますか。長州との戦はなくなった。しかし、彼らがこのまま素直に幕府に恭順するとも思えない。やはり、早く攘夷を成し遂げなければ彼らはまたひと悶着起こすような気もするのです」
「ええ。ですから、引き続き公坊様のご上洛は訴えていくつもりです」
――それで本当に、攘夷は成し遂げられるのだろうか。
ふと、伊東の言葉が頭に浮かんだ。新選組は、少し佐幕に傾きすぎていると。将軍さえ来れば万事解決、などと勇は思っていやしないだろうか。幕府をそこまで信じ切っていて、いいのだろうか。
むろん、そんなことは口が裂けても勇には言えまい。
勇は「ですがね」と言いながら餅をひっくり返した。
「早急な攘夷、というのも必ずしも正解ではないと思うようになりまして。それまではなぜ
「地球儀?」
「昔、山南さんが世界地図というのを見せてくれたじゃないですか。実はこの世界は玉状になっていて、あの地図はそれを平面に伸ばしたものだったんです。ご存知でしたか?」
「ええ、まあ……」
「あの時期、胃の腑の調子が悪かったので、御典医の松本良順先生のところを紹介してもらったんです。松本先生は蘭方医ですから、蘭学にも詳しくて。その時に聞いたんです。今すぐに『攘夷』をすることは難しい、と」
山南は耳を疑った。攘夷が難しい、とはどういうことなのか。それでは、今まで自分たちが信じてきたものは何だったのか。
「むしろ、今は外国と交易をして、異国の文物を取り入れて、それでもって異国を、異国人を打ち払う。少し遠回りですが、そういう『攘夷』の形もあるのだと、おれは松本先生の話を聞いて気づかされました。そう考えると、幕府がなかなか『攘夷』に踏み切らなかったのもうなずけます」
「しかし……帝のことはどうなるのです?帝は、異国がお嫌いだ」
「そこは、なんとかして帝にご理解いただくしかないと思います。幸い、容保公は帝の覚えも良いと聞きます。我々は、そんな容保公をお支えするまで」
山南の表情の変化に、勇は気づいていないようだった。おっ、いい感じに餅が焼けましたよ、と勇は皿に餅を乗せて山南に差し出した。山南は礼を言うと、餅を口に近づけた。
「熱っ……」
「あはは、気をつけてくださいよ」
楽しそうに笑う勇を見て、山南は苦笑いを返すしかなかった。
――私は、何のために
***
誰もいない時を見計らって、さくらは八木邸敷地内の道場でひとり稽古をしていた。
というのも、ここ最近「正体がバレてはいけない」と気を張るあまりさくらは全体での稽古に顔を出せないでいたのだ。もっとも、さくらの不在を気にする者はほとんどいなかった。古参隊士は事情をわかっているし、新入隊士の間では目論見通り島崎朔太郎の存在感は非常に薄かった。
だからといって、稽古を怠けるわけにもいかない。
――これからますます新選組は大きくなる。剣術の腕だけは、誰にも遅れを取るまい。
そんな思いを胸に、さくらは木刀を振り続けた。
稽古を終えて道場を出ると一番会いたくない人物に出くわしてしまった。
「おや、島崎さん」
伊東だった。さくらは努めて平静を装い、「どうも」と応じた。
「稽古ですか。精が出ますね」
「ええ。最近稽古が足りていないと思いましてね」
「なるほど。いや素晴らしい。その姿勢を皆にも見習ってほしいものですね」
「はあ、ありがとうございます」
「あっ、島崎先生、こんなところに!」
声をかけて走り寄って来たのは、これまた新入り隊士の一人だった。さくらは何の用だろう、と思うと同時に面倒なことになりませんようにと祈った。
「ちょうどよかった。今から文をお届けしようと思っていたのです」
そう言って差し出された手紙には、表に「島崎朔太郎様」とあり、裏返してみると「明里」と書いてあった。
――明里さんが?私に文?どういうことだ……?そうだ。
さくらがありがとう、と礼を言うと隊士は足早に去っていった。
「お恥ずかしい。馴染みの
伊東に有無を言わせず、さくらはそそくさとその場を立ち去った。わざとらしかっただろうか。しかし、遊女から手紙をもらった、という事実は自分を男だと印象付ける出来事になるのではないかと思ったのだ。
――明里さん、恩に着ます!
手紙の内容は、話したいことがあるから会えないか、というものだった。
正直、もう明里と関わる機会はないだろうと思っていたのでさくらは少し困惑した。明里のことが嫌いなわけではないが、一応恋敵(しかも、勝ち目なしの)である。むろん、向こうはそんなことつゆ知らぬのだが。
とは言えわざわざ自分に手紙を寄越してくるということは何かあるのだろう。さくらは、誘いに応じることにした。
翌日。さくらは明里と会うのに、タミの髪結処の二階を借りた。この場所の選定は正解だった。明里は普通の町娘の格好をしていても何か町娘らしからぬ雰囲気を醸しており、”島崎朔太郎”のままのさくらと茶屋にでもいたら目立ってしまって仕方なかっただろう。
「驚いたわあ。お初はん、ほんまに殿方のカッコして新選組におるんやなあ」
「はは、まあちょうど最近はこっちの格好で活動することが多いんで。長州の動きは封じたはずなのに、意外とまだまだ過激な不逞浪士が多いんですよ……って、すみません、明里さんにこんな話しても仕方ないか」
明里が可笑しそうに「ふふっ」と笑うので、さくらは不思議そうな顔をして明里を見た。
「山南はんもよく、さんざん難しい話しといてから最後に謝っておりましたえ。なんやそれ思い出しましてん」
さくらは、心の臓がざわざわと音を立てるような感覚に捕らわれた。明里の口から、山南の名前を聞いたのは初めてだ。思っていた以上に、くる。
「なあ、山南はん、最近どないな感じ?」
「え、どうって……そうですね、秋くらいから体調崩したり回復したりで波があるみたいですけど」
「……山南はんな。うちのこと、身請けしてくれはる言うてるの」
「えっ?」
さくらは、平静を装うことに全神経を集中させた。明里は、こんな話をしに、わざわざ自分を呼び出したというのか。
――落ち着け。……私は、武士だ。新選組の、幹部隊士だ。だから……
「せやけど、そう言うたきり、一度も会いにきてくれへんの。身請けいうても山南はんは屯所に住んどるし、うちはどうしたらええのかとか、そういうことお話したいのに」
明里は伏し目がちになってため息をついた。さくらは不覚にも、その仕草が色っぽいと思ってしまった。もとから勝負にさえなっていないのに、「敗北感」の三文字をひしひしと感じながら、何か言わねばとさくらは明里の嘆きに応えた。
「それじゃあ、今から一緒に屯所行きます?たぶん山南さんいますから」
――って、我ながらなんて意地の悪い物言いなのだ……。
「そないな野暮なことできしまへん。他に新選組のお知り合いなんてお初はんしかおらんのや。それでわざわざお呼びしたんえ」
「まあ、それもそうでしょうけど……」
「不躾なお願いなのはわかっとります。せやけど、うちは心配なんどす。お初はんは、毎日好きなお人に会えるさかい、わからへんかもしれへんけど」
「はい?」
――まさか、バレてる?だとしたら、なんて挑戦的な……
「ふふ、わかっとりますえ。あの澄ましたお顔の副長はん。土方さんいわはりましたな」
さくらは拍子抜けして、体の力も馬鹿みたいに抜けてしまって、ぷっと笑った。
「明里さんも、意外と安直なことを考えられますね。土方は確かにあの顔で女子にも好かれるようですが、見慣れてしまえばなんてことありませんよ。前に明里さんは、隊内に好いた者がいるでしょう、なんて言ってましたけど、私は生憎普通の女子らしさみたいなものは持ち合わせておらぬのです。
明里はきょとんとしてさくらを見つめるばかりであった。さくらはコホンと咳払いをした。
「……私が少し様子を見て探りを入れてみますよ」
「おおきにお初はん。えろう助かります」
「明里さん。山南さんのこと、よろしくお願いしますね。山南さんには、明里さんのような、心の拠り所が必要ですから……」
明里が顔を赤らめつつ微笑むのを見て、さくらも笑みをこぼした。
さくらは屯所に戻ると、早速山南の部屋に向かったが、不在であった。散歩に出たらしい。その隣の部屋からは、勇と歳三の話し声が聞こえた。
「……境内の北側はほぼ俺たちで使えることになりそうだ。既存の北集会所の建物は平隊士の雑魚寝部屋にして、幹部棟を別に普請する」
「なるほどなあ……山南さん?戻ってこられたのですか?」
さくらの立てた物音を山南の帰営と勘違いしたのだろう、勇が声を張り上げた。さくらは勇の部屋の襖をからりと開けると、「私だ」と顔を覗かせた。
「さくら、どうした」
歳三が怪訝そうな顔をするのに、さくらは「ちょっと山南さんに用があってな」と答えると、そのまま二人の隣によいしょと座った。
「今大事な話してんだよ」
「屯所のことだろう。私に言えぬ話でもあるまい」
「お前はぎゃあぎゃあ口挟みそうで面倒だ」
「よくわかっているではないか。ならば言わせてもらおう。本当に西本願寺で決めるのか?確かにもう今の屯所は手狭だし、八木さんだって半年くらいのつもりだったろうにもう二年も置いてくれている。潮時だと思う。だが、少しは山南さんの意見にも耳を傾けたらどうだ」
「あのな。全員の意見が一致するの待ってたらいつまで経っても移転できねえ。第一よ、サンナンさんだって否定ばかりで対案の一つも出してこねえじゃねえか」
うっ、とさくらは一瞬言葉に詰まったが、「しかし」となんとか続けた。
「山南さんだって、歳三と同じ副長なのだ。局長に次ぐ席にいる山南さんの意見を無視するというのは……」
「さくら、そのことなんだが」
遮ったのは勇だった。
「山南さん、どうだろう。最近は臥せってしまうことも多いし、副長というのは荷が重いのではないかと」
「しかし、山南さんの知識や交渉力は必要だろう」
「うん、刀が使えない分、そういうことで力を発揮してくれてはいたんだが、最近は、ということさ。いっそ、諸士調役とか、そういう、もっと刀なしでもできる仕事に特化してもらうとか、どうかなあと思ってさ」
「どうだかな」
歳三が鼻を鳴らした。
「サンナンさんは、ああ見えて気位が高いところがある。『降格』にハイそうですかと応じるかどうか」
さくらは不覚にも、「一理ある」と思ってしまった。勇も同じことを思っているのか、難しい顔をしてうーんと唸っている。
「まあ、とにかく、その辺はもう少しゆっくり考えよう。山南さん本人にもそれとなく相談してみるよ」
しかし、その日山南は屯所に戻らなかった。
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