74.江戸での出会い
さくら達一行が江戸に到着したのは九月初旬のことである。一年半ぶりの帰郷だ。上洛時は半月もかけて中山道を地道に歩いたが、早駕籠と
勇は一緒に来ていた武田たちを引き連れて、早速方々を回り始めた。近く、朝敵となった長州藩に幕府として打って出る計画が持ち上がっている。会津藩としては、それには将軍上洛が必要不可欠だという考えであった。勇たちは幕臣、老中の屋敷を訪ね、会津の考えに賛同を得るべく奔走した。
一方でさくらと新八は地道に江戸府内の道場を回っては新選組に入らないかと声をかけていった。
しかし江戸では上洛前にさくらが他流試合で竹刀を交えた人物もちらほらとおり、「女に頼まれてなんかやるものか」とあえなく断られることも続いた。
そもそも、さくらは江戸への道中で勇と新八が険悪にならないよう間を取り持つという役割を期待されて急遽東下の要員に選ばれただけであって、江戸に着いてからどうするかということが抜け落ちていた。そこでさくらは、日野方面に行って天然理心流門下の人間に声をかける役目を引き受けた。
出発を前に、さくらは周斎の住む家に顔を出しにいった。
「おおー、さくら、久しぶりだな」
一年半ぶりに見る父親は、以前よりも痩せて、元気がないように見えた。七十を過ぎているのだ。口には出せないが、いつお迎えがきたっておかしくない。それでも、「久しぶりだな」という声は少し弾んでいるようで、穏やかな笑顔に、さくらの胸は懐かしさでいっぱいになった。
「父上。少しの上洛のつもりがここまで長くなってしまって申し訳ありません。……と、謝っておきながらこんなことを申すのも忍びないのですが、ひと月ほどのうちに京へ戻ります。新選組は、これからが正念場。平助が当たっている道場の方々も、興味を示されていると聞いております」
「そうかそうか。……ははっ、京に”戻る”か。すっかりあっちの生活が板についたようだな。池田屋だっけ?すげえ活躍だったらしいじゃねえか。惣兵衛のやつが様子見にいくってそっちに行ったが、一緒じゃないのか」
「惣兵衛さんは京に残られています。もう少し町の様子を見聞したいと」
「見聞ねえ。物見遊山の間違いじゃねえか」
「さあ……どうでしょう」
さくらは出発前の惣兵衛の様子を思い出した。例の建白書騒動のことを聞きつけた惣兵衛は「そういうことなら俺が行けばよかったなあ。なんでそんな面白いことに呼んでくれなかったんだよ」と笑っていた。
「惣兵衛さん、なんだか少し人が変わったというか、
「婚家でいろいろあったんだ。
「はあ……そうですか」
歯切れの悪い返事をすると、さくらは意を決したように話題を変えた。
「父上。私、もうひとつ謝らなければならないことがございます」
「なんだ」
さくらは、横に置いていた刀をすらりと抜いた。あちこち刃こぼれしており、ところどころに鈍い錆もついている。
「京では、この刀で……侍の端くれとして、たくさんの人を斬りました。その結果が、ご覧の通りです」
周斎はさくらから刀を受け取ると、隅から隅まで顔を近づけて刀の状態を確かめた。
「父上からいただいた大切な刀です。一度は砥ぎましたが、これ以上砥いだり損傷が激しくなれば、折れてしまうでしょう。そうなる前に、これは父上にお返ししたいと思います」
「ばかやろう。刀なんてのはな、本来消耗品だ。使ってなんぼ。ボロッちくなるのが嫌でこんなところに置いてかれたって、刀も浮かばれねえよ」
「父上……」
「まだまだ使えるだろ。どうしようもなく使いもんにならなくなったら、その時新しいのを買えばいい」
周斎は、満足げに微笑んだ。さくらもふっと笑みを漏らす。
「承知しました。それでは、再びこの刀と共に京でお役目果たしてみせます」
それからは、この一年半の出来事をさくらは話して聞かせた。会津藩の預かりになり、新選組として京の治安維持を任されたこと、母の敵を討ってくれた恩人・芹沢をやむを得ず手にかけたこと、池田屋の顛末……。
話は尽きず、日が暮れるまで
***
さくらが日野へ旅立ってから数日後、勇と平助は近藤家の客間でひとりの男を迎えていた。平助が声をかけていた伊東道場の主・
伊東は水戸出身の文武に秀でた人物だというが、さすがに道場主本人を京に呼ぶわけにはいかないからと、師範代級の人間を何人か引き抜ければ御の字だと平助は勇たちに説明していた。ところが、禁門の変での長州の行いに思うところがあるのだとして、自らも新選組に加入したいと申し出てきたのだ。
「……というわけで、藤堂からもお聞き及びかとは思いますが、我々は会津藩のお預かりという立場で、市中の治安維持、公武合体での攘夷実現に向けて、日々働いております。京だけでなく大坂に出向くこともあります。此度の募集で人数が増えればますますその機会も増えるでしょう」
勇がこれまでの活動を説明し終えると、伊東は「素晴らしい」と声を弾ませた。凛とした、通りのよい声だ。
「藤堂くんが徐々にこちらの道場に通うことが多くなって、近藤さんのお噂は耳にしておりました。僕も養子になって道場を継いだ身ですから、勝手ながらあなたには何か親近感のようなものも感じておりました」
この人も「僕」って言った……!と胸中でどうでもいい突っ込みを入れつつ、勇は話を続けた。
「伊東さんは、確か婿養子になられたんでしたね。試衛館にも先代の娘がいるんですが、彼女は剣術を嗜みますのでいろいろあって私は弟として養子に入ったんです」
「ほう。そのような方がここにもいらしたとは」
「ここにも、とは」
「北辰一刀流の小千葉道場でも、娘御が師範代をしておりましてね。僕は直接立ち会ったことはないのですが、めっぽう強いらしい」
いい流れだ、と勇は思った。”先代の娘”の話題をわざわざ出したのは、探りを入れるためである。勇は祈るような気持ちで伊東の表情に注目した。そこからは「小千葉道場の娘御」への否定的感情は読み取れない。
島崎朔太郎は女子である、というのは新選組隊内ではもはや公然の秘密だが、「なぜ女子の下に付かなければいけないのだ」と不満に思う隊士は一人や二人ではないはずだ。それでも今日まで均衡が保たれてきたのは、最初は芹沢の目があったことが大きく、芹沢亡き後は、さくらへの反発からくる「脱走」やさくらの寝首を掻く「私闘」を法度でもって抑止してきたからだと言えよう。先だっての黒谷での一件でお咎めなしで帰ってきたことも追い風となった。
だが、今回はそれに胡座をかくわけにはいかない。
伊東が早々にさくらの正体を知ってしまった場合、「やっぱりやめます」という方向に転ぶことも十分予想できた。しかし、伊東やその門下生らの入隊は、今回の隊士募集の目玉人事でもある。さくらは、伊東が試衛館に来ることが決まるやいなや、勇と平助に提案をした。
「伊東さんが、”女隊士”を許容できる人かどうか探りを入れて欲しい。私ひとりのせいで平助の努力が水の泡になるのは耐えられぬ」と。
さくらが全体の利を重んじてそう言っているのがわかったから、勇は申し出を受けた。ここで、伊東の胸中を探るだけでなく上手いこと「女隊士容認」の方向に持っていければと思っている。
「手前味噌ですが、私の姉もなかなかの使い手でして。私が養子になぞならなくても、十分道場を継げたのではないかと思う程で」
「左様ですか。しかし、こればかりはどうにもなりませんからな。女子がどれだけ剣術の腕を磨いたところで、それ以上を望むのは土台無理な話ですから」
「えっ、ええ、まあ。本当は新選組にも加わりたいと本人は申していましたが、今は門人の多い日野で師範代を続けております」
「そうでしょうとも。新選組のお仕事は、道場剣術とは違いますからね。そこに女子の入る余地はない」
――早速、トシに文を出さねばな……。
勇は苦笑いを漏らさないよう、歳三の苦労に思いを馳せた。文には、こう書かねばならない。
「今一度、島崎朔太郎について『天然理心流門人』以外の出自を口にすること罷りならぬ、と全隊士に周知すべし」。
それから勇はあえてさくらの話題を逸らし、細かい実務や入隊までの段取りといった話に舵を切った。伊東はさくらの話を世間話のひとつと捉えたようで、特段気に留めている様子はなかった。
***
それから約半月後。
日野での出稽古と隊士募集に奔走した後、さくら江戸に戻り勇らと合流した。
「どうだ、首尾は」
つい二年前まではそうしていたように、試衛館道場で稽古をしたさくらは、汗を拭いながら尋ねた。縁側に座れば、気持ちのよい秋風が通り抜ける。勇も隣に腰を下ろし、手ぬぐいを無造作に首にかけた。
「伊東さんと、そのお仲間がまとめて入ってくるのはほぼ決定事項だ。だが、文で伝えた通り、さくらには肩身の狭い思いをさせてしまうことになる」
勇の言葉を聞いて、さくらは力なく微笑んだ。わかっていたことではあるが、手紙をもらった時から、ほんの少しの憂鬱な気持ちが影のようにぴったり背後についているような、そんな心地でもあった。
「まあ、仕方がないさ。今までが恵まれすぎていたのだ。容保公にさえ女子であることを見過ごしてもらえたのだからな。だが、新選組のこれからのことを考えれば、伊東さんたちの力は必要だと思うし、異論はないさ。それにほら、屯所も分かれるしあまり交流を持たずに過ごすことも可能だろう」
「そうだな。ありがとう、さくら」
この江戸にいる間、勇は少し丸くなった。と、さくらは思った。丸くなったというよりは、昔の勇が顔を出したと言った方が近いかもしれない。何か解放されたような、ほっとしたような表情を時折見せる。やはりそれだけ、この一年半「新選組局長」という名の重圧が多かれ少なかれ双肩にのしかかっていたのだろう。京での勇が「昔と変わってしまった」と新八らに嘆かれてしまうのも今なら少しわかる気がした。
「勇。新選組は、まだまだこれからだ。私や、歳三、源兄ぃや総司でもいい。うまく頼れ。そうやってたまには肩の力を抜きながら、局長として新選組を引っ張っていってほしい」
「おう。もちろんだ。頼りにしてるぞ、島崎朔太郎」
ははっ、とさくらははにかんだ。勇もにっと笑った。
「ところでさ、明日、さくらに一緒に来て欲しいところがあるんだ」
「来て欲しいところ?」
「昔、山南さんが世界地図っていうのを見せてくれたの覚えてるか?」
「ああ。あのでっかい大陸がたくさんあって、日本なんて端っこに小さく書いてあったやつだろう?」
「あれが実は見取り図で、実はこの世界は丸いんだって言ったらどうする?」
「はあ?意味がわからん」
「明日、見せてやるさ」
翌日。勇はさくらを連れだし、ずんずんと歩いていた。どうやら神田方面に行くらしい。
「勇、どこに行くのだ。そんなもったいぶるようなことなのか?」
「ああ、まあ確かに場所くらいは言ってもいいか」
勇はあっけらかんと言うと、「医学所だ」と答えた。
「医学所?私はどこも悪くないぞ」
「おれがさ、最近胃の調子が悪くて実は行ってたんだ。……あっ、確かによく効く薬ももらえて今は心配ないぞ」
そんなに悪いのか、とさくらが不安げな顔をしたのを察してか、勇は笑って後半の言葉を付け加えた。
「で、いろいろ面白いものも見せてもらって、さくらにも見せたいなと思ってさ。松本先生もぜひ連れてくるといい、と」
松本先生とは、その医学所に詰めている奥医師(幕府直属の医師)らしい。奥医師に診てもらえるなんて、勇もいいご身分になったものだ。さくらが「ほう」と相づちを打つと、勇はこっちだ、と角を曲がった。やがて着いたのは、大きな屋敷だった。
勇は勝手知ったる様子で下男に声をかけて中に入っていく。さくらはおずおずとその後を追った。
通された客間の棚には、何やら見たこともないような道具がたくさん並んでいた。中でも目を引いたのは、球体の置物だ。木枠で囲われ、ひときわ存在感を放っている。
やがて、柔和な顔をした丸坊主頭の男が現れた。さくら達より少し年嵩のようだ。
「あなたが島崎さんですか。私は奥医師をしております、
挨拶もそこそこに松本は先ほどさくらが目を留めた丸い物体を持ってきて、目の前に置いた。さくらは意味がわからず勇の方を見やると、勇はおもちゃを手にした子供のように目を輝かせている。
「サク、これはな。前に山南さんが見せてくれた『世界地図』っていうやつを形にしたものだそうだ」
「形にする……?」
「そうです。それは地球儀といいます。この世界は、このような球体だというのが西洋では常識なのです」
松本が説明した。さくらはやはり腑に落ちず、怪訝な顔をして松本を見た。松本は話を続ける。
「私は蘭学を勉強していますが、西洋の技術は、今の日本では考えられないようなものばかりです。医術はもちろん、そのように、世界の全体像を突き止める天文学もそのひとつ」
やはり、世界が丸い、というのが理解できなかったが、さくらは以前世界地図を見せてくれた山南の言葉を思い出した。
「山南さん、言ってたな。西洋人はこんなにすごいものを作ってしまうんだから、攘夷を成し遂げるためには日本がひとつになることが必要だって」
勇が「そうだな」と頷き、松本も「確かにそうですね」と同意したが、「しかし、それだけではいけません」と続けた。そのきっぱりした口調に、さくらと勇は驚きの眼差しを松本に向けた。
「本当の攘夷を成し遂げるためには、まず開国することが必要です。そうして西洋の文物を知り、学び、利用する。急がば回れというでしょう。清国のような西洋諸国の属国になってしまうのを防ぐには、こちらも敵を知り、力を蓄えてから一戦交えるのが上策。もしかすれば、戦わずとも、交渉だけで日本を守れる可能性も出てきます」
そうか、そういう考え方もあるのかと、目から鱗を落としていたのはさくらだけではなかった。勇も目を見開いて地球儀と松本を交互に見比べた。
「松本先生、ありがとうございます。なんだかやっと腑に落ちたような気がいたします」
勇が晴れやかな顔でそう言った。
「正直を申し上げると、もちろん徳川様への忠義は持ち合わせているつもりでしたが、なぜすぐに攘夷をしないのかと思う部分もありました。しかし、そのような深い考えがあって、この日の本を動かしていらっしゃったんですね」
「ええ。もちろん全員ではないですが、幕府の中にも有能かつこの国の将来を真剣に考えて行動している人間は大勢います。先の長州藩のような、帝をかついで幕府と対立するようなやり方は、無駄な血を流すだけです」
公武合体も、攘夷も、長州征伐も、必要なことに変わりない。だが、そこに臨む心構えが、少しだけ変わった。さくらと勇にとって、医学所への来訪は、そんな影響をもたらすものだった。
この微妙な変化が、のちにある人物との間に埋めがたい溝を作っていくのを、この時の二人は知る由もなかった。
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