68.ながい、ながい夏の日 ―夜(後編)
吉田稔麿は隙をついて池田屋を脱出し、長州藩邸に向かって駆けていた。
仲間が次々とやられている。
新選組、存在は知っていた。沖田総司、聞いたことがあるような気がする。
自分たちは、日本を変えるために、守るために、今日まで全力を尽くしてきたというのに。
「あんなわけのわからん連中に、潰されてたまるか――!」
目と鼻の先の藩邸前には、すでに人影があった。
「開けてくれいうちょるのが聞こえんがかえ!?わしはともかく、おまさんらの藩の者がやられとるきに!援軍さえ出してくれちょったら、あないな奴らすぐ蹴散らせゆう!」
叫んでいたのは、望月亀弥太であった。
「望月どの!」
「吉田さん!無事だったがかえ!」
「手に怪我を負ったが、大した傷じゃない」
状況を察知した吉田は、望月と共に叫んだ。援軍を寄越せ、数人でいい。新選組の暴挙を止めねば、我々の志は水泡に帰すのだと。
やがて、無反応だった藩邸の門が開いた。使い走りの男と思われる吉田の知らない若者が出てきた。
「どうか、お引き取りください。今藩として出ていけば、戦になる」
「戦でもなんでもしてやるさ!今度こそ長州が……!そうだ、桂さんがいるだろう。会合の前にいったんここに戻ってきていたはずだ。桂さんに取り次いでくれ……!」
吉田の訴えに、若者は悲しそうに首を横に振った。この男は単なる連絡役だとわかっていたが、掴みかかりたくなるような衝動に駆られた。
「その桂さんから
御免、と小さく謝ると若者は藩邸の奥に去っていった。
「おい!待て!」
追いかけようとした瞬間、硬い門扉は閉ざされてしまった。ガチャン、と音がする。中で閂が閉められたようだった。
吉田と望月は、へなへなとその場に崩れ落ちた。取り付く島もなかった。自分たちは、見捨てられたのだと悟った。
「望月どの……ここまでだ……」
「わしもそう思うき……」
二人はどちらからともなく脇差を抜いた。
そして、ほぼ同時に二人は腹を切った。
歳三は募る苛立ちをなんとかこらえながら、鴨川沿いを探索していた。源三郎に十人程任せて二手に分かれたが、手掛かりは見つからない。先ほど、有力かと思っていた四国屋が外れ、イライラはさらに増すばかりだ。
「土方副長!ここにいらっしゃいましたか!」
息を切らせて走ってくる浅葱色の羽織の人物がいた。
「周平か!」と叫んだのは彼の長兄・谷三十郎だった。
「お前、近藤さんの隊にいたんじゃ……!」歳三も驚いて声を上げた。周平はぜいぜいと言いながら歳三たちの目の前で足を止めた。
「い、池田屋です。島崎先生に言われて、副長たちを呼ぶようにと」
「池田屋だと……!」谷が割って入るが歳三は気にも留めない様子で「状況を説明しろ」と促した。
「敵は少なくとも十人以上は……何人か逃げました。局長と沖田先生が二階を守られていたので、正確な人数はわかりません」
「わかった。よく伝えてくれた。井上さんたちが一本裏通りを回っている。同じ内容を伝えてこい」
「はいっ!」
再び駆けていく周平を見やり、歳三は声を張り上げた。
「てめえら!池田屋だ!足の速い者から全速力で駆けつけろ!」
「承知!」
――勝っちゃん、さくら、総司……皆、無事でいろよ……!
歳三は逸る心臓を抑えながら、三条大橋を渡った。すると、前から血まみれの男が走ってきた。
「し、新選組!まだいやがったか!」
男は腕から血を流していた。池田屋から逃げてきたに違いない。最後の力を振り絞らんとばかりに、男はがむしゃらに刀を振り回した。動きがめちゃくちゃで読みにくいが、歳三自身自己流の剣を磨いてきたこともあり、素早くかわすことができた。
キン!と刀がぶつかりあう。歳三は少しかがんで相手の足を払った。よろめいた相手の刀は、がんっと鈍い音を立てて橋の欄干の
「くっ、馬鹿力かよ……!」
歳三は刀を振り上げた。体勢を崩した名も知らぬ男は下段から応戦しようとしたが、歳三の方が速かった。
肩口に入った刃が致命傷となった。男は呻き声をあげ、動かなくなった。
二町(二百メートル)先が騒がしい。今や野次馬も集まっているが、返り血を浴びた歳三が通ると、皆ひいい!と声を上げて道を開けた。
さくらは、荒く息をしながらあたりを見回した。池田屋の中は奇妙な静けさに包まれていた。敵も味方も大なり小なり傷を負ったり体力を消耗したりしているはずだ。激しい戦闘は一旦終わったのか、と思い、さくらは負傷してうずくまっている者たちに縄をかけ始めた。
三人目に縄をかけようとしたのは、脚を怪我して倒れている若い男だった。苦しそうな息遣いが聞こえてくるので、暗闇の中でもまだ生きているのだとわかる。さくらはゆっくりと近づいていった。すると、その時急に物音がした。目が慣れてくると、足が使えないなら手で、とばかりに男がのろのろと縁側の方に這いつくばっていくのが見えた。
「逃がすか!」さくらは男に駆け寄った。だが男は腹ばいになりながらも腕を振り上げた。さくらはとっさによけたが、左足に激痛が走った。どうやら小刀で足首のあたりを斬られたらしい。
「くそ、せっかく命までは取らずにおこうと思ったのに!」
さくらは刀を抜くと、上から男の背中に突き立てた。がはっという声が聞こえたかと思うと、男はこと切れていた。
さくらはなんとか足を引きずりながら部屋の隅に座り込んだ。狭い部屋なので他に人はいない。懐から手ぬぐいを出して足を縛った。傷は深くなさそうだが、走り回ることはできなさそうだ。平助は大丈夫だろうか。他のみんなは。周平は無事に歳三と落ち合えただろうか。そんなことを考えた矢先、ドタドタと数人分の足音がした。
「新選組だ!もう逃げ場はない!観念して縄につけ!」
歳三の声だ。
――ああ、来てくれた。もう、大丈夫だ。
そう思ったら、緊張の糸がぷつりと切れたようである。さくらはぱたんとその場に横になった。視線の先には、先ほど自分が殺した男がぴくりともせずに横たわっていた。
――今日だけで、何人斬ったのだろう。私は。私たちは。
「本当に、鬼になったもんだ」
ぽつりと声に出したのは独り言だったはずなのに、まさかの返事が聞こえてきた。
「今更何言ってんだ」
さくらの目に明かりが飛び込んできた。暗闇の中にいきなり現れたので目がちかちかする。明かりの正体は歳三の持つ提灯だった。
「歳三……」
「大丈夫か」
「かすり傷は負ったが、大丈夫だ。隣の部屋に平助がいるんだ。怪我してる。二階の様子も外の様子も全くわからぬ。皆は無事なのか?」
「今源さんたちが調べてる。裏庭の方が悲惨みたいだ」
「裏庭……?」
さくらは縁側の方を見やった。途端に、背筋がぞわりと寒くなるような感覚を覚えた。歳三の手を借りて立ち上がってみると、やはり足は痛んだが、歩けないほどではなかった。さくらと歳三は縁側から庭に降りて裏口の近くに向かった。
「土方さん、島崎さん」二人に気づいて声をかけたのは斎藤だった。跪く彼の前には、浅葱色の羽織を着た男が斃れていた。
「お、奥沢……?」
さくらはもつれる足取りで駆け寄った。ぱたりと座り込むと、うつ伏せになっている奥沢を見た。奥沢は少しでも動こうとしたのか、顔だけは横を向いて
「ここから逃げようとした敵が大勢いたようで、一緒にいた安藤さんと新田が同じく重傷を負っています。すでに近くの番所に運んでいます。局長と永倉さんが途中から加勢したそうですが、手遅れだったようです」
さくらは必死にここまでの記憶を辿った。どうすればよかった?どうすれば助けられた?
平助を助けて、北添を斬った後、確かに庭の方から大声や斬り合う物音が聞こえていた。だが、建物の一階にはもはや自分と周平しかいなかった。あの時裏庭の加勢に回っていれば今度は周平が死んでいたかもしれない。それでも……
「私が采配を、判断を誤ったのだ……救えたかもしれない、奥沢は……」
「馬鹿やろう、サクのせいじゃねえだろ。むしろこの敵の多さで死人が一人だけなんて、大したもんだ。大勝利だ」
そう言った歳三の声には、力強さがあった。だが、さくらが歳三の顔を見上げると、その表情には苦々しげな色が浮かんでいた。
「斎藤。元気な奴らで池田屋の周りを囲め」
「はい。ただ、もう逃げようとする者もいないでしょう」
「そうじゃねえ。島田の話じゃ、今さら会津や奉行所がこっちに援軍を差し向けてるらしい。これは俺たち新選組だけの手柄だ。援軍なんかいらねえ。縛った奴連れてくのは構わねえが、中には絶対入れるな」
斎藤は驚いたように目を丸くしていた。さくらはふっと笑みを零した。
「さすが、副長様の考えることは違いますな」
皮肉っぽく言うさくらに歳三は「うるせえ」と返した。
主に歳三たちが事後処理を行ってくれたので(さくらが後で聞いた話では、天井裏や押し入れにも敵が潜んでいて、源三郎たちが残らず引っ張り出して捕縛したらしい)、さくらを含め負傷した者は先に番所へ行って応急手当を受けた。
番所にはすでに平助が運ばれていて手当を受けていた。頭を斬られたせいか気を失っているようだったが、命は助かっているらしい。そして、さくらにとって驚きだったのは、総司と新八が怪我人としてそこにいたことだった。さくらは比較的元気そうな新八に声をかけた。
「島崎さん!そちらの様子をうかがえなくて申し訳ない。怪我は?」
「足をやられた。まあ、痛みさえ引けば歩けそうだが……新八は?」
「私は手を」
と言って、新八は左手をぷらぷらとさくらの前で振って見せた。手のひらにざっくりと刀傷を負っている。
「痛そうだな……大丈夫なのか?」
「骨まではいってなさそうなのでなんとかなるでしょう」
「そうか。あれだけの乱闘だ。こちらも全員無傷というわけにはいかぬな」
「そう考えると、近藤さんはすごいですね。我々皆どこかしら怪我したり倒れたりしているのに、無傷どころかいまだに池田屋で土方さんと休みなく采配を振るってるんですから」
「はは、化け物並みの強靭さだな。……ところで、総司は……あれはどうしたのだ」
さくらは奥の方で横たわっている総司を見た。着物が血だらけである。まさか、と再び背筋が凍るような心地がした。だがさくらの顔面蒼白な様子を見て察したのか、新八が説明してくれた。
「安心してください、あれは全部返り血ですよ。どこも怪我はしていません。恐らく暑気あたりでしょう。私が駆けつけた時、ふらりと倒れてそれっきりでしたので。命に別状はないと思います」
「なんだ、そういうことか、それならよかった……」
ほっとしたが、やはり心配ではあるのでさくらは総司に近づいていった。
「ああ、島崎先生。すみません、ご心配おかけして」
総司は意識もはっきりしているようで、さくらの顔を見るなりそう言って力なく笑った。だが顔色は青白く、元気がなさそうだった。
「大丈夫なのか?怪我はないんだな?」
「ええ。無傷は無傷なんですけど、体に力が入らなくて、起き上がれないんです」
「今はとにかく休んでいろ。あとのことは気にするな」
ありがとうございます、と総司は微笑むとすうっと眠りについていった。さくらと新八は続いて平助を見舞ったが、よく眠っているようだったので声をかけずにそっとしておいた。
それから、後回しにされていたさくら達の応急手当が始まった。周平が傷口を洗って手ぬぐいを巻いてくれた。
「お前は無事だったか」さくらは安堵の息を漏らした。
「はい、おかげさまで。土方先生にこちらの救護活動を手伝えと言われたので」
さくらはわずかに微笑んだ。周平は不思議そうに「島崎先生?」と首を傾げる。
「今宵はいい働きをしたな。お前のおかげで命拾いしたようなものだ。近藤勇の息子として――私の甥として、ふさわしい働きだ」
「おい……?って、もしかして……」
「直接は話していなかったが、噂には聞いているだろう。私が江戸にいた頃の名前は近藤さくら。勇の
周平は驚きのあまり持っていた手ぬぐいの束を落としてしまった。慌てて拾い上げる様子をさくらはくっくっと笑いながら見ていた。
「そ、そうとは知らず失礼しました……ですが、島崎先生もお人が悪い!なぜ話してくださらなかったのです」
「お前が近藤家の跡取りにふさわしいか見極めたかったのだ。黙っていたことは謝ろう」
さくらが引き続き可笑しそうに笑っているのを見て、周平も笑みをこぼした。
「では、改めてよろしくお願いいたします、伯母上」
「”おばうえ”はよせっ」
報復の夜襲を避けるため祇園の会所で朝まで待った後、新選組は堂々壬生へと帰隊した。その道中には大勢の見物人がいて、「壬生浪が恐ろしい計画を阻止したらしい」「やる時はやるんやな」などと珍しく新選組に対する好意的な声も聞かれた。
さくらは総司と共に大八車に乗せられての帰営だったので、なんとなく恥ずかしさから小さくなっていたが、歳三に「もっと堂々としてろ」と叱られてしまった。
「新選組発足以来の大捕り物、大勝利なんだからな」
見上げると、歳三はいつになく嬉しそうな様子だった。顔には出さないようにしているようだったが、さくらにはわかった。
前を歩く勇の背中からも、誇らしさと、高揚感が伝わってきた。さくらは二人を交互に見て、ひとり微笑んだ。
――私たちは、武士になれただろうか。
少なくとも、何歩かは近づいたに違いない。さくらはそう確信した。
新選組がその名を轟かせた「池田屋事件」の長い一日はこうして幕を閉じた。
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