38.謀略(後編)




 壬生村には、この土地に伝わる「壬生狂言」という伝統芸能がある。

 八木邸のすぐ隣にある壬生寺に舞台が設置され、七日に渡って披露される台詞の一切ない狂言だ。

 七百年の歴史を持つこの壬生狂言を取り仕切っていたのは、他でもない八木家の当主・源之丞げんのじょうである。

 さくら達の残留を快く思っていなかった八木夫妻であったが、少なくともこの源之丞だけは少しずつ心を開いてきていた。「会津の預かり」という箔がついたのも手伝っていたが、勇や山南、源三郎、総司といった試衛館派の中でも「第一印象の人当たりがいい者」が営業を行ったことも大きい。特に、総司は今まで周囲より年少だったが故に表に出ることのなかった新たな能力――子供を手なづける力――を発揮し、八木家の子供たちとすっかり仲良くなっていた。そうなると、八木夫妻も総司やその仲間を無碍に扱うこともできず、当初のような刺々しい態度も幾分和らいでいた。


 そうした中で、会津藩士との親睦を深めるために、壬生狂言に招待したいと勇が打診したことに対しても、源之丞は快諾した。

「お武家はんに見てもらえるなんて、初めてのことや。なんや緊張してまうわなあ」

 そう言いながらも、源之丞は嬉しそうに頭を掻いた。「八木」という苗字を名乗り帯刀も許されているが、武士というよりは半士半農の身分であったから、生粋の武士らに狂言を見てもらうのは光栄であったに違いない。


 かくして、着々と準備が進められ、当日を迎えた。

 壬生寺の境内にしつらえられた舞台の前にはすでに一般の見物客が集まっていた。

 広沢をはじめとした会津藩士たちも本堂の裏手から入り、殿内や家里の案内でいわゆる特等VIP席に着いた。

 殿内らにこの役目を譲った、というよりも与えたのは他でもない勇である。彼らに花を持たせ、会津藩士の前で良好な関係を見せておくことが大事だ、というのがさくら達の作戦であった。まさか、内部での殺し合いなどあるはずがない、と。

 もっとも、もう少し時が経てば事情も変わり「内部の殺し合い」も会津藩の知るところとなるわけだが、今はとにかくこれが最善という結論に至ったのである。

「いやはや、本日は誠にお日柄もよく、絶好の観劇日和ですな」

 はっはっは、と陽気に笑う殿内を後目しりめに、さくら達はやや後ろの座席を陣取った。勇と芹沢だけは広沢らに呼ばれ前の席に共に腰を下ろした。その時の、殿内の苦虫を噛み潰したような顔をさくらはしかと見た。

 やがて壬生狂言の演舞が始まると、さくら達は色々なしがらみも暗殺計画のことさえ忘れ舞台に見入った。江戸で歌舞伎を見たことはあったが、台詞のない壬生狂言は新鮮そのものに写り、ぜひまた見たいと心から源之丞に頼んだ程だ。


 狂言は昼の興行だったため、そのまま日の高いうちに会津藩士らとの宴席が設けられ、日の沈む頃にはお開きとなる運びになっていた。

 その宴席で、源三郎が殿内にこんな話をした。

「こうして会津の皆様をお呼びして一席設けられるなんて、ほんのひと月前には想像もしませんでしたね」にっこりと笑い、源三郎は杯に口をつけた。

「まあ、ひと月前はまさか清川がああして裏切り、大多数の者が江戸に帰るとは思っていませんでしたがね」殿内は朗らかに会話に応じた。源三郎に対しては幾分心を開いているようだ。それもそのはず、京に来るまでの道中で殿内がさくらに襲いかかった時、唯一その場にいなかった源三郎は、表面上は殿内とギクシャクとせずにいたのである。

「それもそうだ。これからは、会津の皆様のためにもしっかり働かなくてはいけませんね。仲間ももっと増やして、まずは浪士組を大きくしないと」

「そう、ですな」殿内の歯切れが悪くなった。

「実は、斎藤くんのいた道場の同門の仲間がこぞって入隊しようかという話が出ていましてね。もっとも、本格的な話をするのはこれからですが。それと、佐伯くんの知り合いが大津で道場をやっているらしく、そこからも何人か来ていただけそうなんですよ」

 これは、完全なハッタリである。

 近藤一派の息のかかった者がこれからどんどん入ってくる、と思わせるための作り話だ。

「その、大津の道場というのは」

 食いついた、と源三郎は内心安堵した。

「確か、宿場町を少し北に行ったところにある、玄天館という道場だとか」

「いつ来るのですか」

「詳しくはわかりませんが、明日明後日にも近藤先生と島崎、土方が出向いて話をつけにいくと言っていましたよ」

 ここまでで、源三郎による罠の設置は完了である。

 殿内は、斎藤のいた「吉田道場」か大津の「玄天館」なる架空の道場に出向き、浪士組に入った暁にはぜひ自分の手足となって欲しい、と頼みに行くはずだ。

 あとは、交代で彼の動きを見張るのみ。


 そしてその日の夜、早々に獲物は罠にはまった。

 まさに先般、清川を討ち損ねた時に待ちぼうけを食らっていた仏光寺通に向かい歩いていく殿内の姿を、壬生寺近辺の物陰に隠れていた斎藤と新八が発見。新八はすぐに八木邸に戻り、さくらと勇にその報を伝えた。

 さくらと勇は音もなく八木邸を飛び出した。二手に別れ、さくらは仏光寺通に向かった。勇は前方から回れるよう、一本隔てた綾小路通りを全速力で走った。

 万が一のために、歳三や総司らも周囲の通りに身を潜めた。


 新八と分かれたあと、相手を見失わぬよう尾けていた斎藤に追いつくと、さくらは小声で声をかけた。

「斎藤」

「あれです」斎藤も小声で応え、前方の人影を指した。

 なるほど殿内は、帯刀をせず、鞘ごと袋に入れて背負った旅装である。堀川通に向かっているようだ。今晩中に大津宿に入り、夜があければ仲間を集めにかかるであろうことは一目瞭然であった。歩みは、足音をなるべく立てないよう、それでいてコソコソと速い。やましいことをしている、という自覚があるから、このような歩き方なのだろう。

 さくらは斎藤にこの場を離れるよう指示し、交代して殿内を少し離れた後ろから尾けた。

 心臓が、早鐘のように鳴った。

 これから、初めて人を斬るのだ。

 まさか、不逞の浪士ではなく仲間内の暗殺がそれになるとは予想外ではあったが。

 決心が鈍る前に一思いに斬りかかってしまいたい衝動に駆られたが、確実に仕留めるためには、相手が帯刀していないとはいえ、一人で向かうのは得策ではない。殿内の前方に勇が現れるまではその衝動を抑えなければいけなかった。 


 その勇は、どの角を曲がればぴたりと殿内の前に出られるかを思案しながら走っていた。しかし次第に前方がガヤガヤと騒がしくなってきた。堀川通が近いのだ。堀川通は夜でも比較的賑やかだ。そこまで出られては、人混みに紛れ目的の人物を見つけるのは難しくなってくる。勇は、一か八か、目の前の角を曲がった。

 振り返ると、前方から人影が歩いてくるのがわかった。さらにその後ろから、もう一人。暗くて顔までは見えないが、さくらに間違いないだろう。

 勇は、刀の鞘を左手でぎゅっと握り、殿内と思しき人影に近づいていった。


 さくらも、前方から勇らしき人影が歩いてくるのを見とめた。今か、と思った。殿内は刀を背中に背負っているので、返り討ちに合う心配はないに等しい。だが、その大きな包みがむしろ盾の役割を果たしており、背中から斬ることは難しい。どうしたものか、と思っていると、殿内が足を止めた。

「先ほどから、なんだ。用があるなら話せばいいだろう」

 尾行されていること自体は気づいていたらしい。そう言って振り返った殿内は、尾けていたのがさくらだと知り、ぎょっとした顔をした。

 そして、背後からの足音に振り返ると、そこにはすでに刀を抜いた勇が立っていた。 

 挟み撃ちにされた格好の殿内は、おろおろとした様子でさくらと勇を交互に見ることしかできなかった。

「御免」

 さくらはそれだけ言うと、抜刀した。

 ”対実戦”を謳い文句にした天然理心流を、人生の半分以上の時間を費やし稽古してきた。

 今、初めて真剣を握り生身の人間を目の前にしている。

 ――ためらうな。実戦では、一瞬の隙が命取りになる。

 さくらは胸の内で自分に言った。

 そして、そう言うであろう父・周斎の顔が浮かんだ。

 さくらは一足飛びに殿内の間合いに入り、袈裟懸けに刀を振り下ろした。

 肉を断ち、骨を断つ感触。

 それは今までに味わったことのない感触であった。 

 顔には生暖かい返り血がピシ、ピシ、と張り付いた。

 同時に、背後から勇が殿内の脳天を割った。

 その一瞬で息絶えた男は、その場にバタンと倒れ、ピクリとも動かなくなった。


 さくらと勇は、互いに顔を見合わせた。暗くてその表情は読み取れなかったが、さくらも勇も顔に汗をかき、ハアハアと息を荒げていた。たった一太刀なのに、稽古で百本素振りする時よりも大量の、しかも嫌な汗が、顔を、全身を、伝うようであった。

「さくら、大丈夫か」

 勇に言われ、さくらは我に返った。懐に入れていた懐紙で刀の血を拭い、もう一枚で、顔や手を拭った。

「大丈夫だ。行こう」

 二人は、殿内の亡骸を放置し、壬生寺に向かって走った。

 

 壬生寺境内の裏手で、源三郎が着替えを用意して待っていてくれた。内部の人間が殺したと知られるわけにもいかず、血まみれの着物で堂々八木邸に戻るわけにもいかなかったからである。

「首尾は?」源三郎は二人の姿を見ると真っ先に尋ねた。

「うまくいった。だから二人無事にここに来ているのだ」さくらは淡々と答えた。さすがに、「上々だ!」と笑うような気持ちにはなれなかった。そんなさくらを、源三郎は心配そうな表情で見ることしかできなかった。

 比較的、濃い色の着物を着ていたから、提灯の明かりで改めて見るとそこまで目立つ返り血の染みはできていなかった。しかし、鉄がすえたような嫌なにおいが鼻をついた。

 さくらと勇は急いで着替えを済ませると、八木邸に戻った。幸い、浪士組の他の面々は、会津藩士との宴席の後めいめいで飲み直しているようで、さくら達が寝泊まりしている離れには近藤一派の人間以外誰もいなかった。

 何事もなかったかのように、昨日までそうしていたのと同じように、さくらも勇もそれぞれ自室に戻り、床についた。 

 

 だが、すぐに眠れるはずもなく。

 さくらは自分の手をまじまじと見た。

 ――斬ったのだ、この手で、人を。 

 これでよかったのだろうか、何も斬る必要まではなかったのではないか。そんな考えが脳裏をよぎる。

 ――否。これでよかったのだ。

 さくらは自分にそう言い聞かせた。


 夏が近づき、夜明けは早い。

 白んできた空の下、結局眠れなかったさくらは壬生寺の境内で一人木刀を振っていた。

 こうでもしないと、心が落ち着かなかった。

 壬生浪士組は、これから大きくなる。殿内を斬ったことを無駄にしないためにも、大きくしなければいけない。

 そのためには、勇と、芹沢と、他の男たちと、並び立たなければいけない。そうでなければ自分はここにいられない。

 試衛館で師範代をやっていた頃、「女子おなご風情が」とバカにしてきた新参の門人を稽古試合で勝つことで捻じ伏せてきたさくらは、強くなる以外に自分の居場所を確保する術を知らなかった。これからも、また同じ、否、もっと厳しい環境に身を投じていかなければならない。そのためには、誰よりも強くなる必要があった。

 その時、ざりっと砂を踏む足音がした。

 さくらが手を止め振り返ると、そこには芹沢がいた。

「よう。やけに早えじゃねえか」

「芹沢さんこそ」さくらは着物の袖で額の汗を拭った。つい数時間前にかいた嫌な汗と違い、爽やかな気持ちになる汗だ。

「俺は酔い覚ましだ」

 確かに、一晩中飲んでいたのか、芹沢の顔は赤く、それなりの距離があるのに酒のにおいがぷんと漂ってきた。

「もっとも、仏光寺通そこのとおりを通った時に半分くらいは覚めたがな。殿内が斬られて死んでいた。辺りはちょっとした騒ぎになってたぜ」芹沢はにやりと笑うとさくらをじっと見た。

「お前だろ。だが、あの斬られ方はもう一人いる。近藤か?」 

 さくらはぐっと押し黙った。今回の暗殺計画は、芹沢らには内密であった。だが、それはあくまで山南や歳三が決めたことで、芹沢とは一枚岩になって壬生浪士組を大きくしていきたいと考えていたさくらは、そこまで内緒にする必要性を感じていなかった。故に、迷いが出た。

「だったらどうだと言うのです」さくらは曖昧に、挑戦的に言った。

「目が変わった。一度でも人を斬ったやつは、目が変わる」

「そういうものですか」

「お前はもう鬼だ、近藤さくらよ。こっち側の人間だ。ためらうな」

 芹沢はニヤリと笑った。そして、踵を返して寺の門に向かった。

「芹沢さん」その背中に、さくらは呼びかけた。

「これでよかったと思いますか」

 芹沢は振り向き、さくらの目を見た。

「そんなこたぁ後々決まることだ。だから、ためらうなと言った。前だけを見るしかない。お前が前に進むために、邪魔なものがあれば切り捨てる。それだけのことだ。それがたとえ、俺でも、お前のお仲間でもだ」

 再び踵を返した芹沢を、今度は呼び止めることなくさくらは見送った。

 ここまでの三十年の人生で、一番寝覚めの悪い朝は静かに過ぎていった。






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