35.将軍上洛



 それから、将軍家茂が上洛した。

 相変わらず後ろ盾もなく、身の振り方も不安定であったさくら達であったが、とにもかくにも、本懐は将軍警護である。何の計画もなかったが、とりあえず往来に出て、とりあえず将軍の乗った駕籠に見物人が近づかないように制した。

 否、厳密に言えば、駕籠が通る道に近づかないように、である。

 参勤交代の大名行列でさえ、その通り道に居合わせた庶民は座って頭を下げ続けなければならない。将軍上洛の行列となればもちろん本人が通る道はすでに地面に平伏す民衆で溢れている。当然、その中で不穏な動きをするものがあれば将軍付きの警護役が黙ってはいないだろう。

 要するに、さくら達には全く出る幕はなく、やっていることは警護というよりも交通整理に近い。

「はいそこ、前に出ないで!」

「一歩下がって!押し合わないでください!」

 本筋の道の一本裏の道でそんなことを勝手にやっていたわけだから、当然

「なんなんやお前ら!」

「わてらが上様になんかする思うとるんか!」

「失礼にも程がありますえ」

 民衆から文句を言われ、芹沢や左之助、平助ら血の気の多い者たちが「なんだぁ?俺たちは公方様警護の浪士組だぞ!」と息巻き、余計な争いが勃発しそうなのを山南や源三郎、新見らが止めに入るといった有り様であった。

 そんなすったもんだが繰り広げられているとは露ほども知らない将軍家茂は、特段危険な目に合うこともなく、二条城へと進んでいく。

 しかし、将軍の前後を固める隊列の中には、何か不可思議な騒ぎが起きているのに気付いた者がいた。

 男の名は、広沢富次郎ひろさわとみじろうといった。会津藩主・松平容保まつだいらかたもりに付き添いはるばる京までやってきた会津藩士の一人だ。

 現在の福島県に位置する会津藩の藩主が、なぜ自らわざわざ京の都に来ているのか。話は一年ほど前に遡る。

 幕府は、清川が浪士組を結成するよりもずっと前に、京に治安維持の組織を置く必要性を認識していた。過激な攘夷派浪士による「天誅」と称した幕府の役人殺しは増加の一途を辿っていたため、それは急務であった。そうして設置されることになった「京都守護職」であったが、火中の栗を拾うような任務に自ら手を上げる藩は当初、皆無であった。

 そんな中で白羽の矢が立ったのが会津藩であった。会津には、徳川に忠誠を誓う家訓が三代将軍家光の時代より脈々と受け継がれてきたのである。

 広沢は声の主を探そうと往来を見回したが、自分が歩いている道には折り目正しく頭を下げる一般の町人しかいない。しかし、「それ以上近づかないでください!」「せやから何様なんやあんたら!」といった口論が聞こえてくる。

「あの声は何だ」男は隣を歩く共の者に尋ねた。

「わがらねえですが、どうやらこっつぁに害を加える気はなさげですなあ」共の男は、入京して間もないのか、会津のなまりが抜けきらない口調で答える。

「だけんじょ、せんど先日山本さんがうてました。なんでも上様を警護するために幕府がらづれてこられた浪士組が、京に入ったつう話だなし」

「あの声がその浪士組だというのか?」

「さあ。だけんじょ、話聞いとると上様に近づかぬよに、"警護"しとるようにもめえんなし見えます

 広沢はそうか、と言うと自分が属する隊列に視線を戻した。

 今はとにかく、自分の任務をまっとうすることが第一。ただでさえ会津藩は京都守護職という聞こえのいい面倒ごとを押し付けられた形であるから、これ以上の面倒ごとは御免だという思いもあった。

 声の主たちと、まもなく切っても切り離せぬ縁ができるとはこの時の広沢には知る由もなく。


 将軍率いる行列が去りゆくと、人ごみは共に散っていった。それを見届けるとさくら達は大きな溜め息をつき、皆一様にげっそりとした表情で八木邸に戻った。

「これではどちらが不逞の浪士だかわからないぞ」勇がやれやれ、と息をついた。

 八木邸の一室で、勇たち九人と、芹沢たち五人、そして新しく入った斎藤と佐伯が、額を突き合わせていた。

「近藤さんの言う通りだ。このままこんなことを続けていたって埒が開かない」新八が同意した。

「そうは言うけどよ、どうしろってんだ」芹沢がすごんだ。

「それは……」と新八は口ごもる。

「会津」

 皆が振り返ると、声の主は斎藤であることがわかった。いかにも話を聞いていないような顔をして、実はちゃっかり聞いていたのだ。

「会津だ?」歳三が眉間にしわを寄せた。

「さっき、殿内さんたちがそう言ってました」

「お前、いつの間にそんな情報を…」新見が驚いたような感心したような表情で言った。

「あんのヤロ、また勝手な動きを」

「しかし土方くん、あながちない話ではない」山南が考え込むように言った。

「会津といえば、幕府の命を受けて京都守護職に就いている。会津藩の後ろ盾があれば、私たちも大手を振って市中の警邏けいらや不逞浪士の取締りができるのではないだろうか」

「な、なるほど…」さくらは舌を巻いた。

「ってことは、殿内たちはそれを勝手にやろうとしてんのか?」歳三が斎藤に食ってかかったが、斎藤は「さあ、そこまでは…」と短く答えた。

「善は急げだ。斎藤くん、でかしたな」勇は破顔した。

「この浪士組は俺たちが立ち上げたんだ。先回りして会津に掛け合って、こちらが組の筆頭だと示さなけりゃいけねえ」歳三が不敵な笑みを浮かべた。

 すると、芹沢が無言で立ち上がった。

「どこに行かれるんですか?」勇が尋ねた。

「身の振り方は決まったんだ。もういいだろ。暑苦しいんだよ、こんな狭いとこで大の大人が何人も雁首揃えて。行くぞ」

 芹沢が声をかけると、新見、平山、平間、野口も腰を上げ、部屋を出ようとした。

「島崎、斎藤、佐伯、お前らも来い」

 芹沢に言われ、驚いたさくらは近くにいた斎藤と目を見合わせた。次にチラと勇を見ると、「行ってこい」と言わんばかりに頷いたので三人は立ち上がって芹沢たちについて行った。

 芹沢はさくら達を引き連れ、壬生村を出て大通りに出ると居酒屋に入っていった。

 いつの間に顔見知りになったのか、出てきた店主は芹沢の顔を見ると恭しく奥の席へと案内した。その表情は、上客を歓迎するというよりも、恐怖に怯えているといった様子であった。

「あの、芹沢さん、なぜこの面子めんつなのでしょうか…」席に着くと、さくらは開口一番尋ねた。

「新入りの歓迎だ。悪いか」

「悪いというわけではありませんが、それならばなぜ私を」

「斎藤を引き抜いたのはお前だろ、島崎。…そういやぁ、お前本当の名前はなんてぇんだ」芹沢は思い出したようにそんなことを聞いた。

「本当の名前とは…?」

「だから、女の名前だよ」

 さくらが返答する前に、「えっ」という斎藤と佐伯の声が聞こえ、一同はそちらに注目した。

「なんだ、知らなかったのか」平山が言った。

「島崎さんは女子なんですよ。もっとも、我々も途中まで全然気づきませんでしたけど」野口が続いた。

「それじゃあ…しかしなぜ…」斎藤は絞り出すようにそんなことをつぶやいてさくらを見た。あの時自分を負かした相手が女だったということに、かなり狼狽しているようである。雷に打たれたような顔をした斎藤は、それからしばらく黙り込んでしまった。

 その様子を、可笑しそうに芹沢が見ている。

 さくらはなんとなく、芹沢はこうして自分の正体をバラしてその反応を見る、というのを楽しんでいるのではないかと思った。

「確かに、なぜ女子の身でわざわざこんなところに」新見が続いた。

「なぜ、と言われると、長くなりますが…。幼い頃より剣術を習っていたのです。父は天然理心流の道場主でしたから。同じ天然理心流宗家を継いだ近藤勇は私の義理の弟。江戸では近藤さくらと名乗っていました」

 苗字が違ったため、勇と姉弟だということには誰も気づかなかったのであろう。これには芹沢も驚いたような顔を見せた。

「ですから、勇と共に、武士となり公方様をお守りしたいという思いで参りました」

 なんとなく詳しく話す必要もないだろうと思い、さくらは簡潔にそう説明した。

「面白え」芹沢はニヤリと笑うと、酒を一気に飲み干した。

「お前らも、飲め」

 さくらと斎藤だけはまだ日も高いですし、と断った。現に、今は悠長に酒を飲んでいる場合ではない。勇たちが今どうしているか気が気でない状態のまま、さくらは表面上芹沢の設けたささやかな歓迎の宴席に付き合った。


 一方その頃、残された勇たちはまだ話し合いを続けていた。

「芹沢の言うことにも一理ある」歳三が言った。

「ここでうだうだ話し合ってても仕方ねえ。行くぞ」

「行くってどこにです?」総司が尋ねた。

「決まってんだろ。市中警護だよ」

「こんな昼間っから不逞の浪士なんてうろついてんのかあ?」左之助が頭を掻きながらあくびをした。

「そんなすぐに尻尾を出す連中でもねえだろう。だが、俺たちが徒党を組んで歩くことで、浪士組ここにありと見せつける。会津だって、市中警護の命を受けて来てんだ。新手の『市中警護をする連中』が現れたとわかったら、必ず、向こうから声をかけてくる」

「そんなにうまくいくだろうか…」山南が眉間に皺を寄せた。

「やる価値はある、とおれは思う!」勇が鼻を鳴らした。その毅然とした表情に、皆の意思も固まったようである。

 かくして、勇たちは市中へ繰り出そうと腰を上げ、部屋を出た。

 日が傾きかけている時刻であった。本当に不逞の浪士を見つけるのであれば、こういう時間の方が都合がいい。

 が、台所の前を通り過ぎようとした時、夕餉の膳を運ぶ八木家の内儀ないぎと女中にすれ違って呼び止められた。

「近藤はん言わはりましたなあ。どこへ行くんどす?」内儀は、名を松といい、浪士組がこの八木邸に間借りしてからというもの、食事の世話をしてくれていた。しかし、それは必要な食費が幕府からきちんと支払われていたからしぶしぶ、である。浪士組の大多数が江戸に帰るということになり隣近所の住人は厄介払いができるとほっとしていたが、なぜか八木邸に寝泊まりした者だけ残るという話を聞いて以来、松はあからさまに不機嫌そうな態度であった。

「ちょっと、市中の様子を見に出かけようかと」勇は文字通り質問に答えた。

「へえ。もう日も暮れよるこんな時分に?ほな、あんたはんらのために作った夕餉も冷めてしまいますけど、それでもよろしおすのやな」

 その一言で、なんとも気まずい空気が流れた。山南がそれとなく、勇の着物の袂を引っ張り耳打ちした。

「近藤先生、明日にしましょう」

「そうですね」

 勇は小声でそう言うと、「ありがとうございます。夕餉の支度をしていただいたのでしたら、先にいただきます」と松に笑顔を見せた。

 ちょうどその時、大きな話し声が聞こえてきた。勇たちが見やると、芹沢たちが帰ってきたところだった。

 さくらと斎藤以外、全員酒に酔っているようだった。お互いに肩を組んで支え合いながら歩いている。

「芹沢さんっ、しっかりしてください!着きましたよ!」芹沢を支え歩いていたさくらは、勇たちに気がつくと「とりあえず、芹沢さんたちを部屋に連れて行く」と言ってそのまま奥へ消えていった。

 最後に残った斎藤が、松に頭を下げた。

「お内儀、せっかく用意していただいた夕餉ですが、あの六人の分は不要です。余っているようでしたら、我々で分けていただきますゆえ」

「って、あんたはん、見ない顔やな…?」

「昨日入隊した斎藤一と申します」

「へえ、そうどすか。ちょうどええ。新しいお人がおるなんて知らんかったさかい、作った分がちょうど人数分ですわ」

 松は目だけ笑わない笑顔を見せると、先ほどまで勇たちが話し合いをしていた部屋にとっとと膳を持っていってしまった。

「八木家の方々にも堂々と事情を説明できるように、やはり後ろ盾を得ることは急務ですね」山南がぽつりと言った。

 勇も唇をぎゅっと結び、重々しく頷いた。



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