10.沖田惣次郎
嘉永三(一八五〇)年 春
さくらと勝太は町に買い物に出てきていた。
「まったく、なぜ味噌やら米やらと、重いものは私たちに頼むのだ」
「なんかさくら、
さくらは呆れたようにため息をついた。
「お前は気がつかないのか?」
「何が?」
「わからぬのならいい」
以前のぶから「キチは初にやきもちをやいているのでは」と聞いた後、さくらはそういう視点でキチを観察してみていた。やきもち、という感情が今一つわからなかったさくらだったが、なんとなく納得できる気がした。
そうは言っても、キチのさくらに対する相変わらずのピリピリした態度を許すことができたわけではない。
本来はまだ母として認めたくはなかったが、いつまでも名を呼ばずに生活するわけにもいかず、「義母上」と呼ぶことにも慣れてきたが、やはりキチに対して心を開くことはできずにいたのだった。
自分で産んだ子ではないということで、ほぼ似たような理由だと推察できるが、キチは勝太に対しても同じように作り笑顔丸出しで接していた。だが、勝太はそれが作り笑顔だとまるで気づいていないようだった。
―――ある意味、これが勝太のいいところでも悪いところでもあるのだが…
さくらは再び大きくため息をついた。
「そういえば、確かトシがこの辺で奉公してるはずなんだが」勝太が思い出したように言った。
「ああ、おのぶさんの弟さんか」
「おれがこっちに帰ってきてすぐに日野を出てるだろうから、もう十日くらいになるか」
「どこで奉公してるって?」
「なんか、
「へえ、じゃあ、結構近くじゃないか。顔を出しにでも行ったらどうだ?私もおのぶさんの弟さんなら挨拶したいし」
「でも、詳しい場所までは。それに、奉公の最中に邪魔するのも悪いしな」
さくらは勝太から歳三の話を聞いて、彼が奉公を終えて試衛館に入門してくるのを楽しみにしていた。
三人で一緒に武士になれれば、と思い、勝太に気付かれないように一人微笑んだ。
それからひと月ほどが経ち、久しぶりに源三郎が試衛館にやってきた。
さくらと勝太は道場を掃除していたが、源三郎が姿を見せると手を止めて駆け寄った。
「源兄ぃ!久しぶりだなぁ!まだ紹介してなかったと思うが、昨年うちに入った勝太だ」さくらは隣に立つ勝太を指した。
源三郎は微笑ましそうに破顔し、恭しくお辞儀した。
「これはどうも、若先生。井上源三郎と申します。さくらとは幼きころから親しくしておりまして…」
「頭を上げてください、井上さん。そんなにかしこまらなくても…」
「いえ、私とてまだまだ未熟者ですから」
やり取りを聞いていたさくらは二人に割って入った。
「源兄ぃ、私と態度が全く違うではないか」
「いや、一応さくらが目上であることはわかってるんだが、今さら丁寧にふるまったところで気色悪いだろ?」
「あ、それはおれも同じです。どうもさくらのことを姉上とは呼べなくて…」
「やはりそうですか!」
二人がゲラゲラと笑いだしたので、さくらは「おい!」と声を上げた。
「あ、若先生。私のことは源三郎でいいので」源三郎はさくらを無視して話を続けた。
「いえ、そんな呼び捨てには…」勝太はしばらく考え込んだ。
「じゃあ、源さんで」
「ははっ、それがいいです。さくらも源兄ぃなどと呼んでいますしね」
「それにしても、今日は何か用でもあったのか?」再びさくらは割って入った。
「そうそう。さっき先生には話して了承してもらったんだが…ここに内弟子を入れてもらうことになってな」
「内弟子?」さくらと勝太が素っ頓狂な声を上げた。
源三郎はこくんと頷くと、まじめな顔つきで言った。
「
そこで少し間を置いた。さくらは促すように源三郎を見た。
「なかなか暮らしがよくならなくてなぁ。だから、兄が沖田さんに提案したんだ。いい道場があるってね」
「要するに、口減らしか…」さくらが小さく言った。
「だが、なぜ剣術道場なのだ?このような貧乏道場などでなく、どこぞの商家にでも奉公に出せばいいものを」
「バカだな。そこはそれ、武家の矜持ってやつさ」
「そういうものか。それで、いつ来るのだ?」
「早ければ、来月の頭には」
さくらは幼い頃ひと悶着起こした信吉のような少年を思い出していた。
惣次郎も、元気に棒切れを振り回し、チャンバラでもして遊んでいるような少年なのかと想像した。
そして、あっという間に惣次郎がやってくる、という日を迎えた。
「こちらが、沖田惣次郎です」
客間に通された源三郎の兄・松五郎は小さな男の子を自分の横に座らせると、自分でも挨拶をするように促した。
「初めまして。今日からここでお世話になります。沖田惣次郎です」惣次郎は深々と頭を下げると、おびえたような目で顔を上げた。惣次郎にとって、さくら、勝太、周助、キチがずらりと並んでいる様は威圧感を覚えるような光景だろう。
「よろしく、惣次郎。私はここの娘、さくらだ。こちらから
紹介された三人は口ぐちによろしく、と挨拶し、頭を下げた。
「よ、よろしくお願いいたします」惣次郎は再び深々と頭を下げた。
さくらが想像していた元気そうな少年とはかけ離れた、大人しく、おどおどとした少年。それが沖田惣次郎だった。
次の日から、惣次郎はまず下働きとして日常の雑務を手伝うこととなった。
内弟子、という名前の通り、本来なら住み込みで働きながら剣術を習うのだが、まずは下働きだけで様子を見る。
「惣次郎は九歳だし、武家の息子だ。まさか、とは思うがお前の二の舞になっちまったら元も子もないからな」
ニヤリと笑いながら周助はさくらにそう言ったのだった。
少々不純な動機だったとはいえ、さくらは七歳で剣術を始め、一度挫折している。惣次郎が同じ道をたどっては沖田家に合わせる顔がないというわけだ。
朝方、さくらは水汲みをしている惣次郎を見かけた。
「惣次郎、おはよう。朝から感心だな」
さくらはにこやかにそう言ったものの、惣次郎は軽く会釈しただけでスッとその場を立ち去ってしまった。
呆気にとられたものの、昨日の様子を見れば、無理もないような気がした。自分だって、九歳の時に家族と引き離されて内弟子になるというのを想像すれば辛く寂しいことであるし、緊張しているのだろうと思った。
しかし、キチはその態度が気に食わないようである。
惣次郎が行う仕事はつまるところキチの手伝いが大半である。自然、そっけないともいえる惣次郎の振る舞いを目の当たりにすることは、一度や二度ではなかったようで、キチの堪忍袋の緒はたちまち切れてしまった。
「あの子には愛想というものがないのですか!?仮にも武士の子なら、もう少し礼儀をわきまえるべきです!」
周助とキチの部屋で、そんな怒号が響いた。
「まあまあ、落ち着けよ。あいつも来たばっかで緊張してんだって。大目に見てやれよ」
「それにしたって、ろくに挨拶もしないんですよ」
「まあ、それはほら、これから躾けていきゃあいいじゃねぇか」
「あのままの態度を貫き通すということでしたら、日野に返した方がいいんじゃありません?」
「バカ言え。拾った犬じゃあるめえし、そんな簡単に返すだなんだなんてことできねえよ」
実はこの会話、庭掃除をしていた惣次郎に筒抜けだった。むろん、周助もキチもそんなことは知る由もない。
それ以来、惣次郎の態度はよくなるばかりかますますそっけないものになっていくようであった。
もう少しでひと月経つという頃になっても、惣次郎はいっこうに試衛館の人々に心を開こうとはしなかったのである。こちらから話しかければボソッと挨拶を返すのだが、やはり愛想というものはまるでなかった。惣次郎が必要以外のことを喋っているのを聞いた者もほとんどいなかった。
そんなある日、さくら、勝太、それに近くに用があったからと試衛館に立ち寄っていた源三郎は、庭掃除をしつつ談笑していた。
しばらくは取り留めもない話をしていたが、ひょんなきっかけで惣次郎の話題になった。
「それにしても、惣次郎のあの態度はなんとかならぬものか。そろそろ、まだここに慣れていない、という道理は通らなくなるぞ」さくらが半ばあきれたように言った。
「もともとああいう性格なんだよ、きっと。無口っていうか。むしろうちでよかったな。あれじゃ商家で奉公しようったってできないよ」勝太はさくらの言ったことを対して気にもとめていない風だった。
「おかしいな。ここへ来る前に惣次郎のお姉さんに会ってきたんだが、『利発な子ではあるんですけど、少々元気が有り余るところがあって、向こうでご迷惑をかけていなければよいのですが』って言ってたぞ」
源三郎の言葉に、勝太とさくらは「え?」と顔を見合わせた。
「そうだ、手紙を預かってるんだ。惣次郎に渡してくるよ」そう言って懐から手紙を取り出し、源三郎はくるりと踵を返した。
だが、振り返った先には、惣次郎が水桶を手に立っていた。いつの間に、とさくら達は動揺の色を隠せないでいたが、源三郎は手紙をスッと惣次郎に差し出した。
「惣次郎、おミツ姉さんからだぞ」
惣次郎はひったくるように手紙を受け取ると、そそくさとその場をあとにした。
「聞こえていただろうか…」さくらはバツの悪そうな顔でうつむいた。
「まあ、ぎりぎり聞かれても問題ないことしか話してない…はず…」勝太も自信なさげに言った。
「確かに、おミツさんの話していた様子とはだいぶ違うようだな」源三郎が心配そうに、惣次郎がいたあたりを見つめていた。
それから、源三郎は試衛館をあとにし、日野に帰っていった。
惣次郎は手紙をつかんで走り去ったまま、夕飯の時間になっても帰ってこなかった。
「惣次郎、どうしたんだろ。さすがに心配だな」食卓の席につきながら、勝太が言った。
「そんなに遠くには行ってないと思いますよ。じきに帰ってくるでしょう」キチがさらりと言った。
「でも、もう暗くなるし、確かに心配です」さくらが反論した。
「ちょっと、探してこようか」勝太が立ち上がり、さくらも続いた。
二人は手分けして試衛館の外を探すこととなった。
辺りはもう暗くなっていた。東側から周辺を回っていたさくらは、惣次郎の名を呼びながら、路地の隙間なども見逃さないように細心の注意を払った。
子供の足ではそう遠くへはいけないはずだ、と自分に言い聞かせながら、さくらはキョロキョロあたりを見回しながら歩き続けた。
――もしかしたら、家出したのか、惣次郎は。家出するほど、ここでの生活がつらかったのか?
ふと、立ち止まって空を見上げると、星がちらほら表れ始めている。
――気付いてやれれば…。このひと月、つらい思いを誰にも言えずに一人で抱え込んでいたのだ、惣次郎は…
走り出して、再び惣次郎の名を呼んだ。今、惣次郎のことがたまらなく心配で、いとおしく感じられた。
「さくら!」
遠くから声がしたかと思うと、視界に勝太が現れた。
「いたか?」
「いや…」
「一体、どこに行ったんだ…」勝太は苦々しい顔であたりを見回した。
「勝太…惣次郎は、大丈夫だろうか?たぶん、日野に帰ろうとしているのではないか?」
「日野に!?」
「わからない。ただ、そんな気がするというだけで…無事だとよいのだが…」
「あ!」
勝太が突然声を上げた。指差した方を見ると、少し遠くにある高台に、子供らしき人影がポツンと座っているのが見える。
二人が駆けつけてみると、人影はやはり惣次郎であることがわかった。
「惣次郎!」
さくらが声をかけると、惣次郎はこちらに気付き、ぱっと立ち上がった。そして慌てて逃げようとしたが、勝太が腕をつかんで制止した。
「惣次郎、お前、どうして…」勝太は惣次郎の腕をつかむ手を少しだけゆるめた。
「試衛館のみなさんに迷惑をかけました。もう戻れないのでこのまま捨て置いてください」惣次郎は小さい声で、しかしはっきりとそう言った。
「何言ってるんだ。一緒に帰ろう」
勝太はしゃがみこんで、惣次郎の肩をポンとたたいた。惣次郎はその手を払いのけた。
「もう、私に構わないでください!」
勝太もさくらも、目を丸くして惣次郎を見た。少し沈黙が流れたが、やがてさくらが口を開いた。
「惣次郎、お前、日野に帰るつもりだったのではないか?」
惣次郎はしばらく黙り込んでいたが、やがてこくんとうなずいた。
「どうして、私は試衛館を追い出されないのですか?奥方さまが、私の態度がずっと悪かったら、日野に帰すって言ってたのに」
「義母上がそんなことを言ったのか!?」勝太が素っ頓狂な声を上げた。
「私は…っ…姉上に会いたい…」
惣次郎の目から、大粒の涙がぽろぽろとあふれだした。
試衛館にやってきてひと月。惣次郎が初めて本音をさらけだした瞬間だった。
さくらは、堪らず惣次郎をぎゅっと抱きしめていた。
「ごめん、惣次郎。気付いてやれなくて…」さくらもいつの間にか涙を流していた。
「惣次郎」勝太が呼びかけた。惣次郎はさくらに離されると、泣き止んで勝太に向き直った。
「いいか。お前は武士の子だろう?武士っていうのは、後戻りをしちゃいけないんだ。だから、お前をお姉さんのところに返すわけにはいかない。これからも試衛館の内弟子でいてもらう。ただし、」
再び泣きそうになる惣次郎を見て、勝太は付け加えた。
「お前は一人じゃない。確かに、本当のお姉さんはいないが、ここにいる間はさくらを姉と思えばいい。おれのことを兄だと思えばいい」
「そうだぞ、惣次郎。私たちは兄弟弟子なのだ。存分に甘えて構わぬ」
すると、惣次郎は目にいっぱい涙をため、大声を上げて泣き出した。
飛びついてきた惣次郎をさくらは優しく抱きしめ、頭を撫でた。勝太と顔を見合わせると、互いににこっと微笑んだ。
惣次郎が泣き止むと、三人は星空の下をのんびりと歩きながら、試衛館へと帰っていった。
「勝太さん、さくらさん」惣次郎はぎこちなく二人の名前を呼んだ。呼ばれた方は、少し驚いたように、頭二つ分も小さい惣次郎を見た。
「私は、立派な武士になります」
勝太とさくらはにこりと笑った。
「そうだ、惣次郎、その意気だ!」勝太が惣次郎の肩をバシンとたたいた。
惣次郎はにこっと微笑んだ。惣次郎が見せた、初めての笑顔だった。
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