11.黒船

 嘉永六(一八五三)年 春


 惣次郎が試衛館にやってきて、三年が過ぎた。

「惣次郎ーーーーっっ!!」

 朝っぱらからさくらの声が試衛館に響く。

「姉先生、どうかしましたか?」惣次郎が何食わぬ顔でさくらのいる井戸端にやってきた。

「なぜ釣瓶つるべの中にカエルが入っているのだ!」

「カエルが勝手に入ったのではないですか?」

「違う、知ってるぞ。お前、昨日台所の桶にカエルを入れたと、義母上に怒られていたではないか。それで、ここに移動させたのだろう!」

「なんだぁ、知ってたんですか。だって、最近雨降らないし、カエルがかわいそうじゃないですか」

「まったく…ならばそこの桶に入れて池に逃がしてこい」

「わかりましたー」

 惣次郎は釣瓶の中からひょいっとカエルを取り出すと、さくらが示した桶に入れ、走り去っていった。

「さくらも朝からそんなに怒るなよー」

 のんびりした声に振り返ると、勝太が眠そうに目をこすりながらこちらに来ていた。

「勝太もこの前、手習いの道具をぐちゃぐちゃにされたと、叱っていたではないか」さくらはふう、と息をつき、惣次郎が去っていった方向をじっと見た。

「はは、まあ確かにな。いたずらしたい盛りなんだよ。おれもよく近所で柿の実を失敬したりしてたし」

「それなら、よそ様に迷惑をかけないだけ惣次郎はましだな」さくらは皮肉っぽく言った。

「でも、最初のころの惣次郎より、今の方が断然いいな。なんていうか、生き生きしてる」勝太は笑みを浮かべた。

「ああ。あの日から、試衛館が明るくなった気がする」さくらも、先ほどまで怒っていたことも忘れ、頬を緩ませた。

 すると、「さくらさん、勝太さん、惣次郎を見ませんでした?」という声がし、台所の方からキチがやってきた。

「先ほどまでここにいましたが、カエルを逃がしにやりました」さくらは淡々と答えた。

「まあ、まだカエルなんて…!」

「ええ、だから、今逃がしに行かせているのです」

「まったく、仕事を放って何をしているのでしょう。そうしたら、あなたたち二人で水汲みしてくださいね」

 それだけ言い放つと、キチはスタスタと行ってしまった。

「ここまで来たんなら、水汲みくらい自分ですればいいのに」さくらはボソッとつぶやいた。

「はは、言い得て妙だな」そう言いながらも、勝太はするすると釣瓶を引き上げ始めた。

 惣次郎が水汲みをしないでカエルを逃がしに行ったことに関しては、おそらくお咎めなしだろう。

 三年前の家出騒ぎの時、原因は元をただせばキチの発言にある、ということで、キチは惣次郎に謝った。

 その負い目もあるせいか、躾けとして叱るべき時は叱るなど、一応は厳しく接しているものの、惣次郎に対しては少しだけ寛大だった。

 少なくとも、初の子であるさくらや、養子の勝太に対するやきもちのような感情はないようである。

 そうは言っても、子供心には「ただ厳しくて怖い人」として映るようで、惣次郎は、周助、勝太、さくらにはよく懐き、屈託のない笑顔を見せていたが、キチに対しては心を閉ざしたままだった。


 この三年、惣次郎は試衛館で下働きとして日常の雑務をこなしながら、少しずつ剣術の稽古もしていた。

 近頃、勝太やさくらは素振りや簡単な型であれば教える側に回るようにもなっていて、勝太は若先生、さくらは姉先生とか、さくら先生とか呼ばれるようになっていた。特に惣次郎には二人で目をかけ、一緒に稽古することが多かった。

 稽古をしている時さくらは、自分が惣次郎と同じ年頃だった時のことを思い出し、舌を巻いていた。

 もともとの才能が違う、と言ってしまえばそれまでだが、そう言わざるを得ないほど、惣次郎の剣術の腕前は筋がよかった。その証拠に、惣次郎はさくらの半分の速さで天然理心流の目録を得てしまっていた。

 ――これは将来大物になるぞ。負けてはいられぬ。

 さくらはそう考え、より一層稽古に励むのだった。

 実力で、勝太や惣次郎の上を行かねば天然理心流四代目は継げないのだから。


 惣次郎が内弟子になるために親元を離れて試衛館にやってきたのを最後に、試衛館では特に大した環境等の変化もなく、さくらたちはずっと同じような日常生活を送っていた。

 稽古、家事手伝い、日野への出稽古…

 さくら達はそんな日常を退屈だと思ったこともないわけではないが、これも修行なのだと、この生活を変えたいと思うほどの不満まではなかった。

 いつか、立派な剣客、そして武士になれると信じて―――


 このようなことは、試衛館の外でも同じだった。

 約二百五十年続いた泰平の世に、人々はすっかり慣れきっていた。

 誰もが、生まれついた家での仕事をこなし、非日常的なことといえばせいぜい元服や結婚といったもので、日常生活も人生も、まあこんなものか、といったようなものであった。

 こうした日々が永遠に続くと、誰もが思っていた。


 そんな日本国民を震撼させる事件が起こった。


 ある日、町へ使いに出た惣次郎は、人々の様子がおかしいことに気づいた。皆そわそわと、不安げな顔で何か話している。

 不思議に思いながらもそのまま歩き続けていると、人だかりができていた。近づいてみると、人だかりの中心にいるのは瓦版屋だった。

「てーへんだ!化け物みてぇにでっけえ黒船が赤鬼を乗せて浦賀にやってきた!一枚三十文だ!おっと、どさくさに紛れてただで持ってくんじゃねえぞ!」

 瓦版屋は残り少ない瓦版をひらひら見せながら、威勢良くそんなことを言った。

 惣次郎は、余った小銭をじっと見た。何かただ事ではないことが起きているのは確かだ。瓦版を読んだり買ったりしたことはなかったが、試衛館に持って帰って見せなければと直感で思った。惣次郎は小銭を握りしめ、人混みをかき分けた。

「すいません、一つください」

 惣次郎が握った手を開くと、中央の男は惣次郎から小銭を受け取り、瓦版を手渡した。惣次郎は破れないように折り畳むと、懐に入れて人混みを抜けた。


 この瓦版で紙面の大半を使って取り上げられているのは、近代の日本史上で最も重大な、といっても過言ではない事件についてである。

 この事件が、すべての始まりなのだ。

 大げさに言えば、この事件がなければ、今の日本は全く違う国になっていたかもしれない。


 黒船来航である。


 浦賀に、突如四隻の艦隊が現れた。

 指揮官はアメリカのペリー提督。二百五十年間海外への門戸を閉ざしていた日本に対し、開国を要求しに来たのである。

 平成の世であればもちろんそんな知らせは瞬時に伝わったであろうが、この時代、情報の伝達手段と言えば紙に書いて人力で届けるか、口コミで広がるのを待つかの二択である。

 試衛館は浦賀からは離れていたので、惣次郎が瓦版を買ったころは、すでに事件から数日経っていた。

「お、惣次郎か。お帰り」

 さくらと勝太は縁側でのんびりお茶を飲んでいた。二人は軽い調子でお帰りと言ったが、惣次郎の表情が何やら暗かったので、不思議そうな顔をした。

「若先生、姉先生、これ」

 さくらは惣次郎が懐から出した紙を受け取った。開いてみると、大きな黒い船の絵が目に飛び込んできた。横から瓦版を覗き込んで、勝太が内容を読み上げた。

「何なに?『巨大なる黒船、浦賀に現れし。赤鬼を乗せ、日本を侵略せしめんとし…』」勝太は音読するのをやめ、口をあんぐりと開けた。さくらは続きを自分で読もうと、瓦版に目を落とした。そのさくらの口も、みるみる開いていくので、惣次郎はじれったそうに言った。

「一体なんなのですか!?瓦版売りが、赤鬼が来たとか…」

 さくらと勝太は瓦版の隅に書かれた絵を見た。赤い顔をした、天狗のような形相をした男の絵だった。

 余談だが、赤鬼として描かれている人物はペリー提督である。この時代の日本人は、「赤ら顔の外国人」など当然見たことはない。顔が赤くて鼻が高いとくれば、もう天狗か赤鬼にしか見えないのである。それで得体の知れない恐怖心が脚色した結果、ペリーの似顔絵はもはや人間には見えない代物となっていた。

「惣次郎、大変なことになったぞ」似顔絵とは対照的な青白い顔で、さくらが言った。

「このペルリとかいう赤鬼、いきなりこのような大きな船で浦賀に現れ、」

 さくらは瓦版を惣次郎に見せ、黒船の絵を指し示した。

「日本を開国しろと、公方さまに詰め寄っているらしい」

「ええっ!?」

 三人はもう一度瓦版を覗き込んだ。

「日本はどうなってしまうのですか?」惣次郎が不安げな面もちで尋ねた。

「そのようなことを言われても…」さくらは答えに詰まった。

「大丈夫、何も取って食おうって訳じゃないんだし、開国なんかしないとちゃんと断れば、異人なんかすぐにお国に帰っていくさ」どこから沸いてくるのかわからないが、勝太が自信を持って言った。

「うん、それもそうだな。安心しろ惣次郎、今すぐ攻め入ってくることなどはないわけだし」さくらも気軽な調子で言った。

 それを聞いて惣次郎も安堵の表情を見せた。

 

 しかし、勝太の言ったことは、楽天的発言だったと言わざるをえない。

 この黒船来航の影響で、日本はのちに日米和親条約を結び、長い鎖国の歴史に幕を閉じるのである。

 民衆の間では「太平の眠りを覚ます上喜撰、たった四杯で夜も眠れず」という狂歌が流行った。要するに、上喜撰というお茶と蒸気船をかけ、お茶を四杯飲むと眠れないのと同様に、蒸気船が四隻来ただけで不安で眠れない、という意味だ。多くの人の恐怖心を代弁した歌である。


 そんな中、試衛館においては黒船来航の思わぬ恩恵に預かっていた。

「さくらぁ、また入門希望者だ」

 周助が顔をほころばせた。 黒船来航の知らせからふた月が経ったころである。

 異国人がすぐにでも攻めてくると思ったの か、自分や家族の身を守らねばと、剣術道場の門を叩く者が急増していた。

 試衛館も例にもれず、入門希望者がひっきりなしにやってきていたので、周助の機嫌がよくなるのも無理はなかった。

 周助の機嫌はよくなったが、門人に稽古をつける必要性も増え、勝太とさくらは毎日へとへとになっていた。

 しかし、さくらにとってもうれしい出来事もあった。

 源三郎が、試衛館に住み込みで稽古をすることになったのだ。

 出稽古で周助たちが来るのを待つだけでなく、自分も試衛館で稽古したいという思いが強くなったそうだ。

 幼少のころから、兄のように慕っていた源三郎である。さくらはもちろん、勝太や惣次郎も、おおいに源三郎を歓迎した。

 こうして、勢いに乗り始めた試衛館だったが、そんな日々は長くは続かなかった。


 数日後、さくらと源三郎は道場の掃除をしていた。

「前より門人が増えて大変そうだったから、手伝ってやろうかと思ってたのにさ」源三郎はにやっと笑った。

「大きなお世話だ」対して、さくらは少し腹を立てていた。

 黒船来航をきっかけに入門した門下生は、始めるのも急だったがやめるのも急だった。

 厳しい稽古についていけない者、ある程度通って「護身術程度ならこんなものか」と見切りとつけた者、稽古料がやっぱり払えないという者―――

 最近、道場は以前のように、多すぎず、少なすぎず――多少、少なすぎると言ってもよかったが――という人数で使っていた。

 こうして、にわかに活気づいたかに見えた試衛館は、元の木阿弥となってしまった。

 周助は肩を落としていたが、さくらはこのくらい静かな方が好きだし、自分の稽古に集中できると思っていたので、むしろ喜んでいた。門下生が多いと、何かとバタバタして忙しく、落ち着く、ということとは無縁な生活を強いられるのだ。

「平和でいいことではないか」さくらはにっこりと笑った。源三郎も笑い返した。

 黒船来航がもたらす動乱の時代を、さくらたちのような庶民がまだ知る由がなかった頃の話である。

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