9.土方歳三
嘉永二(一八四九)年 秋
勝五郎は、ひとまず周助の旧姓である「島崎」を苗字として名乗ることとなり、名前も勝太と改めた。
試衛館にやってきてすぐ、さくらは勝太に周辺を案内することにした。
「やっぱり日野とは違うなぁ」
勝太は満足げにそう言うと、往来をぐるりと見回した。
「大きな声を出すな。私まで田舎者みたいではないか」
さくらが怒りの色を浮かべるのを見て、勝太は慌てて謝った。
「あはは、ごめんごめん。でも感心しちゃって…」
まったく、とさくらはため息をついたが、勝太が感動するのもムリはない。試衛館がある市ヶ谷は江戸城下にほど近く、町は人で賑わっている。
農村地帯である多摩出身の勝太にとってみれば、目の前に広がるのは都会の風景、ということになるのだ。
「あっちがいつも使ってる米問屋。向こうの橋を渡ると見世物小屋とかもあって…」
そう言ってあちこち指し示すさくらの指がぴたりと止まった。
「どうした?」勝太は不思議に思ってさくらを見た。
「あの人…」
少し遠くの角から出てきた男を、さくらはじっと見つめた。頬に大きな刀傷がある。男はさくらには全く気づかない様子で通りを通過すると、反対側の角に消えていった。さくらは急いで追いかけたが、見失ってしまった。
勝太はさくらに追いつくと、何が起きたのか理解できない様子で往来を見つめた。
「どうしたんだよ?」
「今、頬に傷があった。母上の敵を取って私を助けてくれた方かもしれない…」
「おい、ほんとなのか!?」
さくらは首を傾げた。
「わからない…よく考えれば、どちら側の頬だったのか覚えていない。人違いということも…」
黙りこくってしまったさくらを、勝太はどうしたらいいかわからずに見つめた。
やがて、さくらは勝太を見上げ、にこっと笑った。
「まあいい。いつか会えたら、あの方に必ず礼を言いたいものだ」
「ああ、見つかるといいな」
勝太は、先ほどの男が向かった方角を見た。
――さくらの母上の敵を討った男……一体どんな人なんだろう。
「おい、勝太!置いていくぞ」
勝太はハッとして声のする方を見た。さくらがすでに歩き出していた。
「待てよ!なんでおれの方が置いてかれなきゃいけないんだよ」
勝太は慌ててさくらを追いかけた。
奇しくも、あの日のように雪が降り始めていた。
勝太が試衛館での生活にも慣れてくると、周助は出稽古の共に勝太を選んだ。
「かわりばんこだ。せっかく二人いるんだから片方が道場に残ってこっちの門人の相手したっていいだろう」
周助はぶすっとしているさくらにそう言い聞かせた。
さくらはキチと二人きりになるのが憂鬱でしょうがないのだが、そんなことは周助の知ったことではない。
「それに、もうお前一人に道場の留守を任せられるってこった。喜べ」周助はにっと笑った。
さくらはそう言われてまんざらでもなかったので、うまく言いくるめられる形で勝太と周助を送り出した。
そんな経緯で日野への道を歩く周助と勝太。
天気もよく、江戸の街を一歩出れば、人の声もめっきりなくなり、穏やかだった。
「義父上、本当におれでよかったのですか?まだこちらへ来て日も浅いのに出稽古のお供を務めるなんて…」勝太がおもむろに言った。
「いいんだいいんだ。お前も久々に里帰りできていいだろ?それにだ、さくらが一緒だとできねぇこともあるし」
「というと…?」
勝太は何の事だか見当もつかず、周助の答えを待った。
しかし、周助は答えを言わずにどんどん先へと進んだ。しばらくすると、ぴたりと足を止め、道端の草むらに目をやった。
「お、いたいた」
周助は嬉しそうにそう言うと、草むらにしゃがみこんで何やらごそごそとやり始めた。
次に勝太が目にしたのは、周助の手の中でぐったりしている一匹の蛇だった。もう片方の手に小刀を持っているから、それを使って捕まえたのだろう。
「この辺の蛇はうまいんだ。こうやって塩をふってだな」と、懐からさっと塩の包みを取り出し、蛇にふりかけた。
目を丸くして、あんぐりと口を開けている勝太をよそに、周助はその蛇を煮るでも焼くでもなく、頭からバリバリと食べ始めた。
「前にさくらがいた時はよ、『気味が悪いからやめてくれ』って思いっきり怒られてな。あいつはこの美味さをわかっちゃいねぇ。どうだ、勝太。お前も食ってみるか?」
「いえ…おれは…まだ腹は減っていないので…」
実際、勝太はその後しばらく食欲がいっこうにわかず、それからの道のりで口にしたのは一口の水だけだった。
その日、二人はまず多摩の宮川家に立ち寄った。一晩泊まってから、日野の佐藤彦五郎道場に行くことになっている。
さすがに勝太も歩き疲れると食欲が出てきて、久々の実家で出された食事をものの数分で平らげてしまった。
「なんだよ勝太。腹が減ってたなら俺がいくらでも食い物を調達したのに」
「い、いえ、今急に腹が減ったのでございます!」勝太は慌ててそう言うと、お茶をずずっと飲み干し、その場をしのいだ。
次の日、周助と勝太は佐藤彦五郎道場に向かった。宮川家からさらに歩いて一刻(二時間)ほどかかる場所だ。
「こんにちは、近藤先生。そちらが勝太さんですね?主人から話は聞いています」のぶはそう言って、二人を温かく迎えた。
「初めまして。島崎勝太です。今日からこちらで稽古させていただきます。よろしくお願いします」勝太はすっとお辞儀した。
「よろしくお願いします。試衛館もにぎやかになっていいですね。さくらちゃんは元気ですか?」
「元気にやってますよ。こっちに来たかったってふてくされてましてね」周助がにやっと笑った。
「そうだったんですか。次はさくらちゃんも一緒にいらしてくださいね。それにしても、ちょうど入れ違いで残念だわ」のぶはふう、と息をついた。
「どういうことですか?」
「
「そうなんですか。でも、しばらくこちらにいますから、その間に会いたいものです」勝太はにこりと笑った。
その後すぐに稽古が始まった。
勝太はこの頃目録の次の段階へ進もうかという時で、一層稽古に励んでいた。
――さくらに遠慮する必要はない。その方が失礼なんだ。だったら、おれは稽古に励んで、天然理心流を継ぐ。
勝太は、今頃試衛館で同じく稽古しているであろうさくらの姿を思い浮かべ、木刀を握る手に力をこめた。
姉弟でありながら
夕方になって稽古が終わると、勝太は一人で散歩に出かけた。
近くには多摩川が流れているので、その川べりをふらふらと歩いていると、向こうの方で素振りをしている少年の姿があった。
木刀を力強く振っているのだが、悪く言えば荒っぽい。それに、変なクセがある。しかし、その姿は不思議と勝太に興味を持たせた。
勝太が近づいてその姿をじっと見ていると、少年は手を止め、慌てたように木刀を背中に隠した。
「何だ?」少年は訝しげな目をして、ぶっきらぼうに言った。
「失礼。おれも剣術をやるから、ちょっと気になって」
「何もんだ?」少年は全く表情を変えない。
「島崎勝太。天然理心流道場試衛館の者です。今、義父が近くの佐藤道場で出稽古をしてるので、その供を」
少年は目を丸くして勝太を見た。
「試衛館の?」
「知ってるんですか?」
「姉貴から話は聞いてる」
勝太はハッとした。そんな姉を持つ少年と言ったら、
「そうか!もしかして、おのぶさんの弟さんの…」
「ああ、歳三だ」
すると、歳三はそばに置いてあった薬箱に木刀を差した。
「なんでこんなとこで稽古してるんだ。お姉さんの家に立派な道場があるのに」勝太は歳三の背中に呼びかけた。
歳三は振り返らずにぼそっとこう言った。
「ほっとけ。俺は所詮薬売りだ」
「見てて思ったんだ。もっと右手の力を抜いた方がいいんじゃないのか?」
「うるせぇ、大きなお世話だ」
「うちに入門したらどうだ?」
「うるせぇって言ってるだろ!?」
歳三はイライラと勝太を睨みつけ、横に置いてあった大きな籠を担いでその場を走り去ってしまった。籠には、「
取りつく島もないか、と勝太はため息をついた。自分でも、なぜあの少年がこれほど気になるのかわからない。
ふう、と息をつくと、またぼんやりと歩き出した。
この歳三という少年、
幼いころに両親を亡くし、長男の
つまり、望むと望まざるとに関わらず、勝太と歳三は日野宿で再会することになる。
「ただいま戻りました」
そう言いながら門をくぐると、味噌汁のいい匂いがただよってきた。もうすぐ夕食のようだ。
玄関に入ると、彦五郎がにこにこしながらやってきた。
「お帰り、勝太くん。ちょうどいい。さっき義弟の歳三が帰ってきたんだ。今日はあいつの部屋に泊まってもらうことになるから、仲良くしてやってくれな」
「はい」
しかし、その歳三は勝太と仲良くなる気はさらさらないようだった。
夕食まで間があるのでしばらく時間をつぶそうと勝太が歳三の部屋に行くと、歳三は薬を袋に入れる作業をしていた。
「なんだ、お前、なんでここにいるんだ!?」
「今日はここに泊めてもらうことになったんだ。よろしくな」
歳三はすっと立ち上がると、何も言わずに部屋を出ていってしまった。
次に会ったのは夕食の席だが、そこでも無言でさっさと食べたかと思うと、さっさと自室へ引き取ってしまった。
夜になって、逃げることもできないと悟った歳三は、部屋に並んだ二つの布団の片方に入っていた。
もう一つには、勝太がごろんと寝ころんでいる。
「なあ、おれ、なんか気に障ること言ったかな?」
勝太は、歳三が口を聞こうとしないのを見て、そんなことを言った。
――そういえば、さくらに初めて会った時も同じようなことを聞いたような……そうだ、こいつ、どことなくさくらに似てる気がする。
歳三は黙りこくっていた。これはさくらより手ごわいかもしれない、と思った勝太は寝返りをうって歳三の方を向いた。歳三は勝太に背を向けていたが、まだ眠っていないようだった。
「お義兄さんも天然理心流の門人なんだ。お前も入ればいいのにって本当に思うよ。ちゃんと稽古を積んだら、相当強く…」
「うるせえ、って、何度言ったらわかるんだ!?」
歳三は向きを変えずに言った。
「うるさい、のはわかったよ。でも、なんで入門しないのかわからなかったら、おれはきっといつまでもお前を誘うぞ」
沈黙が流れた。やがて歳三が小さな声で言った。
「…おれがここにいるのはあとひと月だ。そしたらまた奉公に出る」
「……そう、なのか。いつまでなんだ?」
「少なくとも四、五年は帰ってこれねえ」
勝太は起き上がった。歳三は相変わらず動かなかった。
「だったら、帰ってきたら入門すればいいだろ?おれは待ってる!それに、あとひと月もあるんだ。せめてその間だけでも、一生に稽古しよう!」
今度は歳三がガバっと起き上がった。
「大きなお世話だ!俺は一生奉公人か薬売りで終わるんだ!剣術なんか…!」
「なんで一生なんて決めつけるんだ」勝太は静かに言った。
「俺は農家の末っ子だ。家業を手伝うか奉公人かどっかの婿養子に出されるか…そんなもんだろ」
「おれも末っ子だ!奇遇だな」勝太はにこっと笑った。
「それに、おれも百姓のまま一生を終えると思ってた。けどな、稽古に励んでたら、義父上が見とめて養子にしてくれた。たった十八年生きてるだけでいろんなことがあったんだから、一生がどうなるかなんて今からわかるはずないだろ?」
歳三は二の句が告げないようだったが、やがてゆっくりと口を開いた。
「お前に何がわかる…」
「一生薬売りかどうかはわからない、ってことだけはわかるぞ」
勝太は、じっと歳三を見た。歳三の顔つきが、少しだけ変わったように見えた。勝太は満足げに微笑むと、こう言った。
「おれはさ、武士になりたいんだ」
「武士…?」
信じられない、と歳三の顔にはっきりと書いてあった。勝太は言葉を続けた。
「一生がどうなるかなんてわからない、って言ったろ?」
「だからって…」
「そのために、剣術の腕を磨いてるんだ」
ふっと、歳三は鼻で笑った。
「はははは!現実を見ろよ。いくらなんでも、武士になるだって?」意地悪そうな笑いを浮かべて、歳三はそう言った。
「ムリだというかもしれないが、おれは武士になりたい」
勝太の真剣な目を見て、歳三から笑いが消えた。
「本気で言ってるのか?」
「本気だから言ってるんだ」
「お前、百姓だったって言ったよな」
「そうだ。剣術道場で養子にしてもらえたのだって、嘘みたいだって、最初は信じられなかった。でも、本当に、百姓からそうなれたんだから、武士にもなれそうな気がしてさ」
歳三はしばらく黙り込んでから、ぽつりと言った。
「俺も…なれるかな」
今度は勝太が驚く番だった。ぐっと身を乗り出し、歳三をじっと見る。
「武士にか?」
歳三はこくり、と頷いた。
「武士になるなんて、絶対無理だ、夢物語だって思ってた。バカにされると思って、姉貴たちに言ったこともない。けど、まさか同じバカがいるとはな」歳三はにこりと笑った。
「あはは、初めてちゃんと笑ったな!」勝太は嬉しそうに言った。
「剣術の稽古も、それでやってたのか?」
「ああ」
「なれるさ。お前も、一緒に武士になろう!だからさ、奉公から帰ってきたら、うちに入門しろよ」
「…考えとくよ」
「なんだよ、素直じゃないな」
二人は同時に笑った。
二人とも、同じ志を持つ者に出会えたことを、大いに喜び、その夜はなかなか眠りにつけなかった。
それから勝太は日野にひと月弱程度滞在し、歳三とも剣術の稽古を重ね、すっかり仲良くなった。
「じゃあな、勝っちゃん!」
「おう!お前も、奉公がんばれよ、トシ!」
日野を去る勝太の背中を、歳三は笑顔で見送った。
「お友達ができてよかったわね、歳三。あなたがそんな楽しそうな顔してるの初めて見たわ」のぶがくすっと笑った。
「ふん、うるせーなぁ」
歳三は勝太が見えなくなる前に踵を返した。そして、姉に見られないように、笑みを浮かべた。
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