8.武士になろう



 宮川家に強盗が入った夜から十数日が経った。

 いつまでも宮川家の世話になるわけにもいかず、さくらは日野に移動し井上家に寝泊まりしながら、目と鼻の先にある佐藤彦五郎道場に通っていた。


「さくらちゃん、試衛館に帰らなくて平気なの?」彦五郎の妻、のぶが言った。 一向に帰る様子もなく、稽古に出ずっぱりのさくらを心配しての発言である。

「いいんです。帰りたくないんです」

 即答するさくらに、のぶはくすっと笑った。さくらが不思議そうな顔をしているのを見て、「ごめんね」と謝った。

「でもね、なんだかうちの弟を思い出しちゃって。あの子、奉公に出てない時は兄の家に住んでたんだけど、よくここに来ては『帰りたくないから泊まってく』ってね」

 のぶには、さくらと同じ年頃の弟がいる。話には聞くものの、今は奉公に出ていて帰ってくるのはずっと先になるということだったので、さくらはその弟というのには会ったことがなかった。

「確かに、兄は厳しい人だから、帰りたくなくなるのもちょっとはわかるわ。…で、さくらちゃんはどうして帰りたくないの?」

 さくらはキチに言われたことを話した。

「それ以来、なんだかあからさまにそっけないというか、冷たいというか…とにかく、居心地が悪いのです」

「本当にそれだけかしら」

 のぶの言葉に、さくらは不思議そうな顔をした。

「お初さんに、やきもち妬いてるんじゃないかしら。おキチさんは」

「やきもち…?」

「さくらちゃん、まだ恋したことないでしょ」のぶはまたクスクスと笑った。

「恋…ですか?ええ。私には必要ありませんから」さくらはきっぱりと言った。それは本当に本心だった。

「もう、女子がそんなことじゃダメよ」

 すると、奥の部屋から赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。

「あら、起きちゃったかしら。ごめんね、さくらちゃん、ゆっくりしていってね」のぶはそれだけ言うと、そそくさと奥の部屋へ消えていった。


 この時代、さくらの年にもなれば十分結婚適齢期である。 のぶも、さくらとそう年は離れていなかったが、すでに一児の母であった。

 もっとも、さくらにとって恋だの結婚だのということは全く無縁のことに思えた。 すでに剣術に生きていくという人生設計ができていたからだ。

 しかし、さくらが実際にこの問題に直面するのはそう遠いことではなかった。


 それからさらに数日が経ち、周助が出稽古に来るということで、さくらは宮川家に戻り、道場で勝五郎と共に稽古していた。 すると、庭から物音がした。見てみると、周助がにやにやと笑いながら二人を見ていた。

  前日に多摩に来ていた周助は、もちろん強盗事件の話も知っている。 その件についてさくらと周助の間では何の話もしていなかった。というよりは、さくらが避けていた。自分の未熟さを痛感したくなかったからだ。

「勝五郎、さくら、練習試合だ。二人とも防具をつけて、ちょっとやってみろ」

  周助はにやにや笑いを崩さずに、突然そんなことを言った。 さくらと勝五郎は手を止めた。二人とも周助の意図がわからず固まっていたが、すぐに防具を用意して身に着けた。

  数分後、二人は向かい合って正座した。

  勝五郎は面紐をぎゅっと結ぶと、さくらを見た。

 ――さくらと実際に勝負するのは初めてだな。女子だからって手加減はできないぞ…

 さくらも、籠手をはめると深呼吸して木刀に手を添えた。

 ――勝五郎の上達速度には目を見張るものがあるのは間違いない…侮れない。それどころか、本気でいかなければ負けてしまう…!

 二人は真剣な目で互いを見つめ、木刀を構えた。

「始め!」

  周助の声が道場に響いた。

 まず動いたのは勝五郎だった。 大きな体に似合わない速さで一気にさくらの間合いまで詰め寄ると、胴を狙ってくる。

 さくらもやすやすと打たせるわけにはいかず、さっと受け流し、鍔迫り合いの恰好になった。

  二人は互いを押しのけて間合いを開けると、木刀を構え直した。

 さくらは上段。勝五郎は下段。その切っ先が右下に傾く。

  互いの目をじっと見つめると、二人は大声を上げて踏み込んだ。

 さくらは面を、勝五郎は胴を打った。

 それは、ほぼ同時に決まったかに思えた。

 しかし、勝負はついた。周助の「一本!」という声が響いた。

 二人はゆっくりと周助を見た。

  挙がっていたのは勝五郎側の手だった。

 すっと元の位置に戻ると、蹲踞そんきょをして防具を取る。

  勝五郎は喜ぶような、それでいて申し訳なさそうな顔をしていた。 さくらは唇をぎゅっと結んで外した防具を静かに置いた。

「少し、顔を洗ってきます」

「おい、さくら…!」

 勝五郎の呼びかけにも応じず、さくらは勝五郎の目も周助の目も見ずにその場を抜けた。

  勝五郎はその背中を黙って見ているしかなかった。

「まあ、さくらには後で話すか…」周助がおもむろに言った。

「勝五郎、ちょっと俺と来てくれ」

 そうして勝五郎が連れていかれたのは久次郎の部屋だった。

「宮川さん、近藤です」周助が声をかけると「どうぞ」と声がしたので、周助と勝五郎は久次郎の部屋に入った。

「先生、一体…」勝五郎が尋ねると、周助は久次郎の隣りに座ってにんまりと笑った。


 その頃、さくらは井戸で顔を洗っていた。冷たい水が火照った顔によく滲みる。

 別に、自分が天然理心流最強だと思っていたわけではない。それでも、それなりにやれていると思っていた。だから、認めたくなかった。あのように、無様に負けてしまったという事実を。

 先日の強盗撃退の一件のことも重なって、どうしても惨めな気持ちに苛まれてしまう。

 自分の方が、姉弟子なのに、と。

 ――私は、四代目を継ぐのだ。こんな調子では、それは叶わぬのではないか……

 そう思うと、以前キチに対して自分で言った台詞が自分の首を絞めるような心地がしてくる。

『私の腕が未熟なゆえに、父上が養子を取った方がよいと判断したならば、私はそれに従いましょう。しかし、父上も、亡き母上も、私が男以上に強くなり、天然理心流のすべてを受け継ぐことをお望みです。私は、その望みに答えるべく、稽古を積んで精進するまでにございます』

 ――このままでは、勝五郎を養子に迎えよう、というような話が浮上してくるのかもしれない。冗談ではない。だが、勝五郎のような男が四代目を継いだ方がいいのか……?父上とて、 そろそろ跡継ぎのことを真剣に考えなければいけない。私が強くなるのを悠長に待つわけにもいかぬのだろう。

 勝五郎のような好敵手ライバルの存在を、数年前のさくらだったら予想もしていなかっただろう。稽古さえきちんと積んでいれば、きっと四代目宗家になれるという思いが、根拠もなくさくらの中にはあった。そうした考えはもしかしたら甘く浅はかなものだったのではないかと、さくらは気づかないわけにはいかなかった。

「さくら」

 呼ばれて振り返りそうになるのを、さくらはなんとか抑えた。何せよ、涙と鼻水と、顔を洗った井戸水で、さくらの顔はびしょびしょだった。人に見せられたものではない。

「勝五郎か…」

 さくらは静かに言うと、懐から手ぬぐいを出してぐいっと顔を拭いた。

「さくら、大変なんだ」勝五郎が息せき切って言った。

 さくらはくるりと振り返った。今や顔は乾ききっていて、その代わりに絞り出したような笑顔が張り付いていた。

「なんだ。何が大変だというのだ」

「いいから、聞いてくれ」

 勝五郎は、周助が話した一部始終を話した。


「単刀直入に言う。勝五郎、お前、うちの養子にならないか?」

 勝五郎が久次郎の部屋に連れてこられ、理由を尋ねると、周助はこう言ったのだった。

 沈黙が流れた。勝五郎はぽかんとして周助を見た。

「先生、待って下さい。どういうことですか?さくらが天然理心流を継ぐのでは?どうして、おれを養子になんて…」

 混乱する勝五郎を面白そうに見ながら、さらに周助はこう言った。

「はは、驚いてるな。なんたって婿養子だからな。俺が隠居したら、二人で天然理心流と試衛館を盛り立てていってほしい」

「婿養子…?誰と…?」

「さくらに決まってんだろ。他に誰がいる」

 勝五郎は固まった。

「ええーっ!?」

 素っ頓狂な声を上げて、勝五郎は周助と久次郎を交互に見た。

「私は賛成だぞ、勝五郎。近藤先生の養子になれば武士身分に近づけるし、さくらさんのような娘さんをもらえるなんて、お前は幸せものだな」

「ちょっと待って下さい、父上…近藤先生、さくらはこのこと、知ってるんですか?」

「いや、まだだ。後でちゃんと話すつもりだ」

 勝五郎は黙り込んでしまった。とにかく、状況を整理する時間を稼がねばと考えを巡らせた。

「先生。この話、おれからさくらに話したらいけませんか。その、相談したいですし…」

「おいおい勝五郎、何を相談することがある。良縁じゃないか」久次郎は満面の笑みでそう言った。

「はっはっは、いいじゃないですか、久次郎さん。確かに、本人から言った方が乙ってもんですよ。いいぞ勝五郎、行ってこい」周助がにやにやと笑った。

 周助の笑顔の意味するところがわからなかったが、とにかく勝五郎は部屋を出た。


「それで、おれはお前を探しに来たってわけだ」

「嘘だ…」

 さくらは文字通り開いた口がふさがらなかった。今目の前にいる勝五郎が自分の夫になる?信じられなかった。

「父上も乗り気だ。このままだと、話はどんどん進んでしまう。さくら…気を悪くしないで聞いてくれよ」

勝五郎は少し間を置いた。

「おれは、さくらと夫婦めおとにはなりたくない」

 百年以上先の世であるなら、この勝五郎の発言を受け、「じゃあそうすればいいじゃないか」で問題は解決する。しかし、この時代は親の目的のためだけに結婚するのは普通のことであった。むしろ、両家の親が賛成しているこのような場合、勝五郎やさくらには決定を覆す力などない。

「なんだ、他に惚れた女子でもいるのか。私とて、今さらお前と夫婦になどなれるか」さくらはクスクスと笑った。どうして笑えるのかさくらにもわからなかった。

「違うよ。確かに、さくらが妻になるっていうのはちょっと変な感じだけど…ただ、おれは…さくらの夢を奪いたくないんだ」

 さくらは驚いて勝五郎を見た。

「もちろん、養子になれるならうれしいよ。百姓よりかは、武士身分に近づけるわけだし。それに、近藤先生に腕を認めてもらえたことは本当にうれしい。ただ、先生は二人で天然理心流を盛り立てて欲しいって言ってた。それは詰まるところ、二人のどちらかが道場を継いでもう一人がそれを支えるってことになると思うんだ…」

 何かもやもやとしたものがさくらの中で渦巻いた。それをうまく言葉にできなくて、しばらく黙っていたが、やがて爆発したように

「ふざけるな!」

 勝五郎にくってかかると、ゆっくりと、言葉を選ぶように話し始めた。自分の気持ちを的確に伝えるのにふさわしい言葉を選ぶように。

「お前のせいで叶わなかったなどと、人のせいにするようなことなど、私はしない。私がお前より強くなれば、四代目を継ぐのは私だ。第一、それを言うなら逆も同じだ。私とて、お前の夢をつぶすようなマネはしない」

 すると、勝五郎はぷっと噴出し、

「はははっ!お前って本当に男らしいな」

「お前、またそうやって人の真面目な話を…!」

「ごめんごめん。じゃあさ」  

 勝五郎は笑いをこらえながらさくらを見た。

「さくらも武士になろう」

「…はぁ?」

 言われたことの意味がわからず、さくらは勝五郎を凝視した。

「天然理心流の四代目はどっちか一人しかなれない。でも武士なら二人でなれる」

 さくらは目からウロコが落ちるとはこのことか、と思った。それからぷっと笑った。

「お前は本当に面白いやつだな。女子が武士なんて、道場を継ぐのより難しいぞ」

「信じて稽古して強くなったらきっとなれるさ。だから、一緒にがんばろう」

 勝五郎の目があまりに澄み切っているので、さくらは一瞬「なんとかなるんじゃないか」という気になってしまった。

「武士になる、か…悪くない」

「だろ?」勝五郎は嬉しそうににっと笑った。

 さくらはハッとした。

「ちょっと待て。ということは、やはり私と勝五郎が夫婦になるということか!?お前が実力で天然理心流四代目を勝ち取るのは構わぬ。だが、やはり夫婦というのは…」

「確かに…おれだって、もっと美人な奥さんがほしいなあ」

「おい、どういう意味だ」

「え、いや…」

 二人はしばらく黙り込んだ。

「姉弟じゃ、ダメかなあ」勝五郎がポツリと言った。

「私はお前が養子になるとはそういうことだと思っていたぞ。ま、なるなら私が姉で勝五郎が弟だけどな」さくらはくすっと笑って勝五郎を見た。

「んー、でも先生は跡取りがさ、孫が欲しくてさくらを妻合めあわせたいと思ってるんだろうしなあ」

 なるほど、とさくらは顔を曇らせた。 そうなれば、祝言は避けられない。

  ――覚悟を決めねばならぬのか

 二人とも、親の言うことに逆らえないのはわかっていたので、運命を受け入れるしかない、と腹をくくり、久次郎の部屋に向かった。


 一方、久次郎の部屋では、久次郎と周助が勝手に話を進めていた。

「子供が産まれたら、めっぽう強い子になるぜ。なんせ勝五郎とさくらの子なんだからな」周助はがはは、と笑った。

「本当にめでたいですなぁ。祝言はいつにしましょうか」

「早い方がいいだろうな。佐藤さんにも手伝ってもらおう」

 すると、縁側の方から足音がした。

「近藤先生、父上。勝五郎です。さくらも一緒です」

「おお、入りなさい」

 障子が開き、勝五郎とさくらが入ってきた。二人は周助と久次郎の前に並んで座った。周助はにこにこと二人を見た。

「おうおう、勝五郎。ちゃんと話したか?」

「はい」勝五郎はうなずいた。

「悪かったなあ、勝五郎。俺の配慮が足りなかった。惚れた女と夫婦になるんだから、自分の口から話したいよな、やっぱり。うんうん」

「はい?」勝五郎とさくらが二人同時に言った。

「なんだよ。お前ら惚れあってるんだろ」周助はけろりとして言った。

  勝五郎とさくらはぶんぶんと首を横に振って、「いやいやいや」と否定した。

「照れなくてもいいって」周助はにやにやと笑った。

「照れてるなどと、そういうことではありません!」さくらが全力で否定した。

「おれたち、夫婦じゃなくて、姉弟になれたらいいよなって、話してたんです」

 周助は目を丸くした。

「本当なのか?俺はてっきり…」

「父上、どこをどうすればそのような結論に至るのですか!?私も勝五郎も、惚れあってなどおりませぬ!」さくらは語気を強めた。勝手に勘違いされた挙句、縁談まで進められてしまってはたまったものではない。

 すると、周助は「なあんだ」と、気の抜けたような声を出した。

「じゃあ、それでいいぞ。姉弟で」

 その場にいた全員があんぐりと口を開けた。

「ち、父上…?そんなあっさり…」さくらは目を丸くした。

「婿取ったり嫁取ったりなんざいつでもできるさ。俺なんか去年キチをもらったばっかりだぜ。今無理に縁談をまとめることはねえ」

 先述のように、この時代の結婚では、当人たちの恋愛感情は問わない。政略だろうが持参金目当てだろうが、親が決めれば問答無用である。しかし、近藤周助という男だけは、この時代には珍しいと言わざるを得ない感覚を持ち合わせていた。九度の結婚経験は伊達ではない。

「勝五郎。さくらの兄弟分として、うちに来てくれるか。どうだ、宮川さん」

 久次郎は先ほどまでぽかんと様子を見ていたが、ハッと我に返り、深々と頭を下げた。

「ありがたき幸せにございます。勝五郎をよろしくお願いいたします」

「先生、よろしいのですか?先生は、跡継ぎが欲しくておれを婿養子にとろうとしたのでは?」

「まあそれもあるがな。それよりも、おれはお前に試衛館に来てほしいんだ。お前とさくらが切磋琢磨することで、二人の力がぐんと引き出されるような気がしてな。さくらの好敵手として、お前が必要ってわけだ」

「父上…」

 さくらは、父の言葉を聞いて笑みを浮かべた。周助が、自分に失望したわけではないのだと思うと、少し安心できた。そしてさくらにとって最高の環境を与えてくれたのである。共に稽古し、お互いに高め合える兄弟を与えてくれたのだ。

「先生、ありがとうございます。未熟者ですが、どうぞよろしくお願いします」勝五郎が頭を下げた。

「よし、これからお前ら二人は姉弟だ!仲良くやれよ」

「はいっ!」

 さくらと勝五郎は威勢よく返事をすると、お互いに顔を見合わせてにこりと笑った。

 こうして、勝五郎は近藤家の養子となったのである。

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