七時間前の事だった

 目を開けると一面には真っ赤な海が広がっていた。

 夕日に照らされたような赤い海に立ち、ゆらゆらと揺れる影を眺めている。輝く水面に映る自分の影を見て、僕は瞼を閉じた。こんなに綺麗な光景は見たことない。

 そうか、これは夢だ。




 夢には人間の無意識が現れると言われている。それが本当なら、『赤い海の上で一人』というこの夢は何を表しているのだろうか。赤い海、一人で立つ自分……残念ながら考えても全く分からなかった。

 そういえば、久しぶりに夢を見ている気がする。一人暮らしを始めて以来、初めてかもしれない。しかも明晰夢だ。何が切っ掛けで約半年ぶりに夢を見ることになったのか、特別なことでもあったのだろうか。昨日は珍しくお客さんが来たところまでは憶えているが……。駄目だ、それ以外は心当たりもないし、思い出せもしない。

 答えを出せないものを考えても仕方がない。せっかくの明晰夢だ、この光景を楽しむことにする。目を開けよう。夢の続きを見よう。




 目を開け、周りを意識し始めると夢の端々が鮮明になってくる。少しずつ世界が構築されていくようだ。

 真っ赤な海。

 横たわる人影。

 赤く濡れた手にシャツ。

 そして、右手に握る包丁。そう、包丁だ。料理中かと思ったが、目の前にある人影がそれを否定してくる。さっきまでの綺麗な光景は、どこで狂ってしまったのか。さっきまで海だった筈だが、いつのまにか夕日に照らされた部屋になっている。夢の中でこんなことになってしまうとは考えてもなかった。あまりにも状況が変化しすぎて、一旦整理しないと自分の理解が追い付かなくなってしまう。

 目の前に広がる赤い海を眺めるが、やはりこれは海じゃない。ぬらぬらと光に照らされ輝く、紅色の新鮮な血溜まり。そろそろ驚きよりも気持ち悪さが上回ってきた。手やシャツに付いているものも全部だ、全部血だ。濡れた手をシャツで拭こうとしても、血が落ちることは無く、ひたすら血を塗り伸ばしているだけだった。悪夢だ、早く目を覚ましてくれと願う。

 シャツで手を拭いていると目の前に横たわっている人物が視界に入ってしまう。今まで意識してみないようにしてきたが、遂にはっきりと認識してしまった。血溜まりの上で横たわる人影。どう見ても死体だった。うつ伏せで倒れているせいで、顔が分からない。誰だ、この人は僕が殺したのか。

 いや、厳密に言うと僕が殺めたい相手なのだろう。

 夢、無意識の現れ、願望。つまり僕の殺人願望。これは現実ではない、あくまでも願望だ。しかしこの考えは、これが夢であるという不安定な条件のもと成り立っている。虫食い状態のジェンガのように、この条件はいつ崩壊してもおかしくない。

 自分を安心させようと思えば思うほど、自信が無くなってくる、自身が分からなくなってくる。一人でジェンガを遊んでいるような感覚に陥る。




 流石にこれが夢だという確信が欲しかった。何か方法は……夢だと確信を得る方法は無いのかと赤く染まった部屋を見回して気付く。血だまりに映る自分のシルエットの右手には、包丁が握られていた。そうだった、いま握っている包丁を使えば分かるはずだろう。灯台下暗しとはこういうことか。ただ、僕の下は暗いというより、明るい赤だけれど。

 痛みを感じないのが夢の中の特権であり証拠だと、数多の人が語っている。確認する方法はこれしかない。

 意を決し、僕は赤くなったシャツの袖をまくり左腕を出す。包丁に付いた血を裾で拭い、肘の内側の下、筋肉があり少し柔らかい部分に宛がうと、そのまま軽く包丁を引いた。皮膚が切れ、じんわりと血が滲んでくるが痛みはない。これで一安心だ。傷口を恐る恐る触ってみても、全く痛くない。大丈夫、これは夢だ。

 落ち着いてくると、ここが自分の部屋だと気付く。この悪夢から解放されよう、早く目を覚まさなければ。

 目が覚めるまでは真っ赤な部屋には居たくないと思い、隣の部屋に行く。そしてソファに座り目を閉じる。

 次に見えるのが、いつもの天井であることを願って。




 結局何だったのだろう。これが無意識ということは、僕には殺めたいほど憎かったり、愛しかったりする相手がいるということなのか。難しい、やっぱり自分のことが一番わからない。

 ただ、気を付けなければいけないのだろう。過ちを犯す前に止めないといけない。

 徐々に意識が遠のいていく。夢の終わりだ。




 カーテンの隙間から洩れる光で目が覚める。身体を包み込むふかふかの布団。いつも通りの見慣れた天井が目に入って安心した。今日ほどこの瞬間が幸せだと感じたことは無い。窓の外には初夏を思わせる新緑の木の葉が風で揺れる。悪夢が終わったのだ。

 そういえば時間は、今何時だ。

 瞼を擦りながらぼやけた目で、枕もとの黄緑色をした時計を見ると、十時二十分を指しているようだった。本当にこの時間なら遅刻だ。これも夢だったら良いのにと思う。

 しかし、間違いという一縷の望みに賭けてしまうのが人間の性なのだろう。遅刻しない時間を願いながら、はっきりと見えるようになった目で、手元の時計を再確認する。すると、四時五十二分。どうやら、本当に長針と短針を読み間違えていたみたいだ。こんな小さなミスをするなんて、悪夢のせいで流石に疲れているのだろう。時間はまだあるのでもう一度眠ることにする、もう大丈夫であって欲しいと願いながら。

 おやすみなさい。




 目を開けると、そこは雪国だった。

 一面の真っ白な銀世界に、白く輝く太陽。雪が日光を反射して宝石のように綺麗だ。どこまでも続くように感じるこの世界に一人きり。身体を吹き抜けてくる風が気持ち良く、その風に身を任せて走り出す。しかし、どんなにがむしゃらに走っても前には進めない。水中で踠くように、空気を蹴るように、空回りしている。

 いったい僕は何をしているのか。何を焦っているのか。

 思い切って立ち止まり、空を見上げる。白銀の世界で、太陽だけが僕を見ていた。




 空を見ていた視線を前に戻すと、太陽たちが僕を見ていた。

 いつの間にか雪景色は、向日葵によって黄色く染められていた。目の前に広がる向日葵に目を奪われる。どうやら僕は向日葵畑に着いたらしい。暖かく柔らかな香りが鼻をくすぐり、先ほどまでの自分でも分からない焦りが溶かされていく。

 僕は自分の気持ちを掴めないまま、この優しい景色に安心し目元をぬぐった。緊張の糸が切れ、その場でそっと横になる。横になった僕が最後に見たのは、赤みがかった背の高い向日葵が、僕を見下ろしている風景だった。




 そして、景色が暗転する。

 とつぜん光が差し込んだ後、身体がふわふわと浮くような感覚に襲われた。自由が利かない体で、首だけをゆっくりと動かし光源を探す。目の前には真っ暗な空間とそこに浮かぶ青い球体。……地球のようだ。

 ここは軌道上だ、差し詰めデブリにでもなって流されているのだろう。デブリ。つまりゴミだ。僕にぴったりじゃないか。体は上手く動かなくなり、上下左右の方向感覚が無くなる。自分の身体がどこにあるのか、僕の存在は何なのか分からなくなってくる。

 ぼんやりとする意識の中、吸い込まれるように地球へと手を伸ばす。綺麗なビー玉のようで、懐かしい。夏の暑い日にグラスへと注いだ冷たい炭酸の音や、温くなったプールの匂いが記憶の中から引っ張り出され、そして、それらが五感を刺激する。

 もっと触れたい。

 その思いに身を任せ、ビー玉に向かって必死に前のめりになりながら手を伸ばした。




 青く輝きながら自転している地球に触れた瞬間、僕は地面に立っていた。




 鼻を刺すような砂埃の臭いに顔をしかめる。さっきまでの綺麗な地球の姿は無くなり、今は虚しく回っている、茶色く錆びついた回転式ジャングルジムに変わっていた。遊具が発する、叫びのような錆びて擦れる音が耳に突き刺さる。宇宙は公園になっていた。

 この寂しい音色を止めようと、目の前で回っている遊具に手を伸ばし、力を籠める。少しだけ体を引きずられながらも、回転を止めることが出来た。しかし、握った手には錆が付き、色が変わる。茶色くなった手を見ていると、子供のころに戻ったような感覚に陥った。目を瞑りながら、その感覚に浸る。

 砂場で自分の作ったお城を大切にしながらも、それを意味なく壊すことを繰り返していた日々。茶色く泥にまみれた記憶。

 何か大切なものを思い出せそうな気がするが、あと一歩届かない。

 その何かを掴もうと集中するが、足元が揺れる感覚に思わず目を開く。滲んだ視界の中では、さっきまで目の前にあった遊具の姿はどこにもなく、地面が崩れ始めていた。

 砂埃にまみれた茶色い景色が壊れていく。空と落ちて、地面が崩れていく。

 おちる。

 落ちる。

 堕ちる。

 思わず顔を覆った手からは、錆びついた鉄の臭いがした。




 遠くから小鳥が囀るような音が聞こえ、目を覚ます。

 意識が覚醒していく中で、徐々にその音の正体がはっきりしてきた。目覚ましだ。長かった夢から引きずり出すように、枕元に置いてある黄緑色の目覚まし時計が鳴っている。時間は、七時三十分。今度は見間違うことの無いよう、目を開き慎重に確認した。

 一階からは美味しそうな朝食の匂いが香ってきて、腹の虫が鳴き始める。どうやら僕は窓の外から聞こえる小鳥の囀りよりも、腹の虫の鳴き声の方に心を動かされるらしい。

 僕は匂いにつられるように部屋を出て、階段へと向かう。今日の朝食は何だろうかと、階段を降りる足をはやめた。

 階段も中段に差し掛かった頃、ふと背中を押される様な感覚に思わず足を踏み外す。世界がスローモーションになり、一瞬が一瞬ではなくなる。自分と床がゆっくりと近づくのを確認しながらも、ある疑問が脳裏をかすめた。



 ――この階段、この家はどこだ。



 今の僕はマンションで一人暮らしだ。朝ごはんの匂いも、一階への階段もあるはずがない。そんな……まさか、これは夢なのか。

 身体と床との距離がゼロになる。べったりとした血が右顔を覆う。

 ああ……痛くない。

 そこで意識が途切れた。




 目の前にあるのは床。顔を動かすと、そこには見慣れたソファがあった。どうやらソファで眠ってしまっていたらしく、寝返りをして落ちてしまったのだろう。ああ、おでこが痛い。それに、いつの間にか着ていた黒のシャツが皺になってしまっている。

 部屋に差し込む夕日が、体を赤く照らす。

 目を瞑り、長い夢だったなと思い返した。とにかく最初に認識できた『血の海と死体』。あの夢が一番怖かったと思う。その夢に続いて、雪原に向日葵畑、宇宙にも行ったし懐かしい公園にも行った。そして、どこか分からない家にも。

 本当に、色とりどりだった。この夢にはどんな意味があったのだろう。疑問はあるが、考え事をしていたらお腹が空いた。食事をするためにキッチンへ向かうことにする。




 リビングへの扉を開けようと腕に力を込める。




 左腕の傷に刺す様な痛みが走った。

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