第15話 デバッグメニュー
「……信じられない。なんで髪が、こんな銀色に?」
そんな晃のつぶやきに答えるように、マーシャが姿を現した。
「神尾晃よ、それは証だ。デバッグメニュー使用中の、な」
「デバッグメニューだって? それじゃまさか、僕――いや、今は俺だな。とにかく、俺のパラメータが上昇してるのは、バグじゃなくてデバッグメニューの力なのか!?」
各デバッガーが固有に持つという、デバッグメニュー。
だがその使用には条件があったはず。
図らずも、冬華がそれを口にする。
「ちょ、ちょっと待ってよ! デバッグメニューを使えるのは、
その疑問に、マーシャは神妙な面持ちで答える。
「冬華よ。
マーシャの言い方は、教師が生徒に対してする、解答まで誘導するような質問に似ていた。
冬華は「そんなの簡単よ」と即答する。
「報告書の作成でしょ――って、まさか!?」
なにかに気付いた冬華。マーシャは再びうなずく。
「神尾晃は先日、止むを得ずとはいえ報告書を作成した。逆説的になるが、
「そ、そんなのでたらめすぎるわよ! 正規の試験を受けて合格しないと、
「だが、認めるしかあるまい。神尾晃のバグは、とても複雑で強力なものだった。バグ自体は完全に修復されても、どこかに歪みは残ってしまったのかもしれん」
「……わたしの報告書にミスはなかったわよ」
すねるように唇をとがらせる冬華。
デバッガーにとって、報告書の不備によるバグの再発はなによりの屈辱だ。
マーシャもそれがわかっているのか、なだめるように話しかける。
「報告書の問題ではないのだろう。神尾晃の強い意志が、力ずくでデバッグメニューの使用権限を掴み取った――そう考えるしか」
「むぅ……。なんか納得いかないわ」
そう言って冬華がにらんできたので、晃は「はは……」と苦笑した。
「俺だってびっくりだよ。でも今は――」
そこで言葉を区切り、晃は視線を移す。
「その真偽を明らかにするときじゃない。本当に確かめるべきなのは――こっちだ」
眼前にある、もうひとつのバグ。
この空間の断裂を修正するほうが先決だった。
晃は部屋と廊下の間に今なお存在する、異常な空間を見つめた。
「なぁ、マーシャ。この空間の断裂だけどさ……たぶん、鳥居さんのバグが再発したんじゃないか?」
明乃のバグは、空間に関する症状だった。
さらに、そのバグが修正されてから、一日と経過していない。
状況証拠としては、それだけでも充分だった。これは晃の報告のミスだ。
「うむ、我もそう思う。もしかしたら報告書に不備があったのかもしれない。もう一度、詳しく調べる必要があるだろうな」
「やっぱりか……。冬華、悪いな。ちょっと協力してくれるか」
すると冬華は、「ふ、ふん」と斜に構えて答える。
すっかりいつもの冬華だった。
「協力するもなにも、はじめから一蓮托生よ。わたしはあんたの指導役で先輩。上司みたいなもんなんだから。あんたの不始末は、わたしの不始末なのよ」
バグの力は消えた。
けれども、新しい力を手に入れた。
この力を、自分を守るためじゃなく、他人を守るために使おう――そう強く誓う。
バグによって涙を流す人を、これ以上増やさないために。
その決意は、今までの罪悪感を嘘のように消し去った。
今度こそ本当に生まれ変われた。そんな気がした。
「……あぁ、頼むよ。冬華」
そう言って笑いかける。
冬華はちらりと晃を見上げたが、照れてすぐに視線をそらしてしまった。
「ま、まったく、しょうがないわね。ほら、このバグを発症したのって、明乃なんでしょ? だったらまず、彼女のとこに行って話を聞くわよ」
「任せてくれ。昨日行ったから、あの人の部屋の場所は覚えてる」
そう言って足を進めようとした晃に、マーシャが制止の声をかけた。
「しばし待て、神尾晃よ。このデバッグメニューは、おそらく時間制だ。ある一定時間が経過すると、元の姿、元の能力に戻ってしまうだろう。気を付けることだ」
「一定時間……。そうか、ずっとこの姿ってわけには、いかないんだな」
晃は、少しだけうつむいた。
なにもかもが元通りというわけにはいかないようだ。
だが、それも仕方ないと思う。
そんなのは虫が良すぎる話だった。
自分は今まで、散々周囲をだましてきたのだから。
それは、きちんと清算しなくては。
でも、その清算のときは、今じゃない。
今は――。
晃は顔を上げた。
「まぁ、しょうがないな。とにかく今は、バグをどうにかしないと。時間が限られてるなら、なおさら急ごう! 行くぞ、冬華!」
晃の先導で、二人は駆け出した。
まずは目的の階である七階に向かって、廊下の端にある非常階段を降りる。
空間が断裂している今の状況でエレベーターを使うのは危険だった。
そして、その考えは的中する。
寮は中央のエレベーターホールを挟んで、男子の寮と女子の寮が分かれている。
七階に着いた二人は男子寮の廊下を抜け、エレベーターホールを横切って女子寮に向かおうとし……そこで足を止めた。
「な、なによ。これ……?」
空間の断裂どころではなかった。
エレベーター前の床がすべて消失し、巨大な黒い穴が開いていた。
もちろんただの穴ではない。
異空間とでも言うべき、バグによって発生した穴だ。
バグとは本来、虫食いの意。
底すら見えない穴というのは、バグの根源的な姿なのかもしれなかった。
「だいじょうぶ。いけるさ」
「え? 晃……って、きゃあっ!?」
晃はひょいと冬華の身体を抱きかかえた。
そしてすこしの助走をつけて、そのまま飛び上がる。
小柄な冬華とはいえ、人一人を抱えてこれだけの距離を飛べるものか……?
確証はなかったが、不安もなかった。
さっき冬華を助けたときの感じだと、まだまだ余裕だったからだ。
その直感は確かだったようで、二人は無事に穴を飛び越えて着地した。
どうやらデバッグメニューの使用中は、スイッチよりもさらに一段階高いパラメータに設定できるらしい。
今の晃は完璧を越えた、超人と言っても過言ではなかった。
だが――。
「このバカっ!!」
「うおっ!?」
冬華の踏み下ろしが、油断しきっていた晃の足を直撃した。
恥ずかしさで顔を真っ赤にして、痛みでうずくまる晃を見下ろす。
「い、いきなりあんなこと……。びっくりするじゃない!」
「いてて……。あぁ、悪い悪い。次からは、ちゃんと断って――」
「もう二度とするなって言うのよ、バカぁ!!」
「うぎゃっ!?」
再度の攻撃。
うめく晃に鞭打つように、冬華がその首根っこを引っぱる。
「まったくもう。ほら、いつまでもうずくまってないで、早くいくわよ」
「……ったく。誰のせいだと思ってんだよ」
「なに? なんか言った?」
「い、いや! なにも!」
鋭くにらまれた晃は、ぶんぶんと首を横に振る。
冬華は「ふん」と鼻を鳴らして、そっぽを向いてしまった。
「やっぱりわたし、今の晃は嫌いよ。こんな自信満々の晃なんて、晃じゃないみたいだもの」
「は、はは……」
冬華の中で、いったい晃はどんなイメージなのか……?
それを考えて苦笑する晃。
完璧を越えた、言わば超人になってなお、相変わらず冬華にだけは形無しだった。
ともかく、こうして無事にエレベーター前の難関を越えた二人は、明乃の部屋の前までたどりつくことができた。
(鳥居さん、もう起きてればいいんだけどな……)
そんな心配をしながらチャイムを押そうとする晃よりも早く、冬華が扉を開けてしまった。
どうやら鍵はかかってなかったようだ。
それにしたって、女性の部屋の扉をいきなり開けるのはどうかと思ったが、冬華にしてみればバグの修正が最優先なのだろう。
そう思い、なにも聞かない晃だった。
「……さて、やっぱりこうなってるか」
晃の部屋と同様、廊下と部屋の間は断裂していた。
ちらりと冬華を見る。また抱きかかえて飛ぶしかないのだが……。
すると彼女もその視線の意味に気付いたのか、にらむように見返して口をとがらせた。
「し、しかたないわね。でも変なとこ触ったりしたら、承知しないんだから!」
触るもなにも、そこまで成長なんかしてないだろ――。
という本音は、口が裂けても言えない晃だった。「はいはい。わかりましたよ」とうなずいて、そっと抱きかかえる。
そして、軽々と跳躍。
部屋の入り口に降り立った二人が目にしたのは、今なおベッドの上で膝を抱える明乃の姿だった。
それでも二人のことには気付いたのか、虚ろな視線を向けてくる。
「……どなたですの? 申し訳ありませんが、あたくしは気分が優れませんの。お帰りいただけまして?」
「どうやらわたしたちのこと、わかってないみたいね……」
「でも、昨日よりはマシになってるかな。昨日は会話もできなかったからさ」
晃の言葉に、冬華は「ふぅん……」とつぶやいて腕を組んだ。
「それじゃ、いくらかは修正されてるのね。再発した症状も、前みたいに大規模じゃないし。ひとつふたつ、報告書にちいさな不備があったのかも。……マーシャ」
「了解した。神尾晃が提出した報告書だな」
呼ばれただけで、冬華の求めるものを理解したマーシャ。
長年の付き合いがなせる技なのだろう。
冬華は空中に表示された報告書に目を通し、不敵に笑った。
「……なるほど。そういうことね」
指で触れて報告書を消した冬華は、明乃に向きなおる。
「すこし聞きたいんだけど。いい?」
「……なんでございまして?」
「どうして、クランと仲直りしなかったの? あんたたちがケンカしたのは、クランの誤解が原因だったはずよ。それは聞かなかったの?」
明乃は冬華から視線をそらし、膝に顔をうずめる。
そのまましばらく沈黙し……冬華の「どうなの?」という再度の問いに、ようやく答える。
「……えぇ、聞きましたわ。クランからは『晃さまに特定の恋人ができたというのは、誤解だった。これからもいっしょに会の活動を続けよう』……そう、言われましたわ。……でもそれは、無理でしてよ。あんな軋轢を衆目にさらし、絶縁宣言までしてしまった以上……。そう簡単に仲直りなんて……」
ここまでは晃の予想通りだった。
本当は明乃だって、仲直りしたいと思ったはず。
だが大勢の前でケンカしてしまったことで、素直に仲直りはできなかったのだろう。
そこにクランが帰省してしまったことで、戻ってきたらどんな顔をして会えばいいかわからず不安になり、彼女を拒むようにバグを――。
報告書にはそう書いた。
まちがいはないと思うのだが、どこかに不備があったのは確実だ。
そうでなければ、こんな中途半端な形でバグが再発したりはしない。
だが、いったいどこに……?
自分のミスが見つかって欲しいような、欲しくないような。
そんな複雑な気分で、晃は検証を見守っていた。
冬華はすこし目を伏せて、確かめるように問いかける。
「だから、仲直りはしなかった。そしてそのまま、クランは帰省した」
その言葉に、明乃はちいさくうなずいた。
冬華はさらに問いかける。
今度は明乃の反応をうかがい試すような、そんな言い方で。
「……そんなにクランのこと、嫌いになったの?」
すると明乃は、かすかに肩をふるわせた。
やり場のない感情を乗せるように、かすれた声を絞り出す。
「ちがい……ますわ。そう、ちがいますのよ! クランさんのことは大好きですわよ! でも、本当は寂しかったんですの! クランさんに正論を言われて、あたくしの過ちを指摘されたことが……!」
それこそが明乃の本音だった。
バグを生み出した、本当の心の弱さ。
「あの子はあたくしが守らなきゃいけないような、弱い子だと思ってましたわ。そんな子が、あんなに大勢の前で堂々と意見を言って……。驚いたり、怒ったりもしましたわ。でもなにより、寂しかったんですの!! もうこの子は、あたくしを必要としないほどに強くなったんだ……そう思ったら、あたくし……!! 『もうあなたの面倒を見なくていいと思うと、せいせいしますわ』なんて、心にもないひどい言葉を……!!」
そう言うと、自分自身の言葉に耐えかねるように首を振った。
帰省先から戻ってきたクランと会うことが不安なんじゃない。明乃は、自分自身が許せなかったのだ。
クランの成長を素直に喜べず、逆に彼女を傷つけてしまった、自分の弱さが。
(……知らなかった。鳥居さんが、そんなことを思ってたなんて)
思えばクランは、明乃のことを『真剣に誰かを思いやれる人』と言っていた。
だが晃は、相変わらず明乃を傍若無人な人間と思い込み、彼女の一面しか見ようとしなかった。
報告書に書いた内容では、的外れでないにしても的確ではなかったのだ。
これではバグが再発してしまうのも納得だった。
冬華はなだめるように明乃の肩に手を置き、優しく言葉をつむぐ。
「正直に答えて。……クランがいなくなって、あなたは後悔したんでしょ? どうしてあのとき、素直に仲直りできなかったのか……って」
すると明乃は、ぎゅっと自分の膝を抱きしめた。
こらえきれなくなったようにぼろぼろと涙を流し、話し始める。
「そうでしてよ……! あの子がいなくなって一人になった部屋の中で、あたくしは激しく後悔しましたわ! そして……そして……!」
言葉に詰まり泣きじゃくる明乃。
ようやく出てきたのは、衝撃の内容だった。
「あの子が帰省先で交通事故に遭って、意識不明と聞いて……!! もう二度と、あの子に会えないかも……仲直りできないまま、死に別れてしまうかも……!! あたくし、そんなのいや! いやですわ!! 最後に見たクランさんの顔が、あんな悲しそうな顔だなんて……そんなのいやでございますわ!!」
「う、うそだろ……? クランさんが、交通事故……!?」
あまりのことに、晃は言葉を失った。
意識不明ということは、かなりの重傷なのだろう。本当に命の危機かもしれない。
こうして聞いただけの晃でも動揺を禁じえないのに、明乃のように後悔の念で心を乱している最中だったら――バグを発症させるには、充分な衝撃だったはずだ。
そのことは、冬華が具体的に言葉にしてくれた。
「……それが、報告書に決定的に欠けていた事項。バグの発生状況だったのね」
晃の報告書には、ふたつのミスがあった。
ひとつは発生要因。
明乃はクランが戻ってくるのが不安だったのではなく、彼女を傷つけてしまったことを悔やんでいた。
もうひとつは、この発生状況。
クランが帰省したことが直接の原因ではない。クランが危機的状況に陥ったことで、はじめて明乃の心は瓦解したのだ。
このふたつの要素が不幸にも重なり、そして契機となり、バグを……。
「マーシャ。新しい報告書を作るわよ」
「了解した」
マーシャに向き直った冬華の前に、緑色に光るキーボードが現れた。
入力しながら、冬華は晃に話しかける。
「晃の報告書を読んで、ちょっと疑問を抱いたの。クランを拒もうとしてバグを発症したにしては、タイミングがおかしいって。帰ってくるのが不安だとしたら、その帰ってくる直前――連休の最後に起こるんじゃない?」
「……あ! 言われてみれば、確かにそうかもな……」
会うのが気まずい。
そういう気持ちは、別れた直後にもすこしはあるだろう。
だが実際は、時間の経過とともに徐々に強くなり、会う直前にピークに達するはずだ。
現に晃だって、冬華とケンカしたときに抱いていたのは他の感情だった。どんな顔をして会おうか……そう不安になったのは、次の日の昼、冬華に会う直前なのだから。
「それで、まったく逆の発想をしてみたのよ。あの空間の異常は、外からの侵入を拒むためじゃなくて――中からの脱出を拒むため。明乃はクランに会いたくないんじゃない、クランに行ってほしくなかった……離れないでほしかったんじゃないか、ってね」
「な、なるほど……!」
「もっとも、その理由がこんな悲惨なもの……交通事故だなんて、想像もしてなかったけれどね」
苦々しい表情で、冬華がエンターキーを叩いた。
マーシャは空中に表示された報告書に目を通し、静かにうなずく。
「報告書の再提出を確認。修正を開始する」
昨日を再現するように、マーシャの身体が光となって建物中に散っていく。
報告書に不備があったため、昨日は不完全な修正に終わってしまった。
だが、今日のこの修正なら……。
晃は念のため、廊下の様子を見に行った。
「……よし。問題はないな」
そこに空間の断裂はなく、廊下の先のエレベーターホールにも異常はないようだった。
確認を終えて部屋に戻るのと、修正を終えたマーシャが再び実体化するのは、同じタイミングだった。
「冬華よ。そして、神尾晃よ。これですべて終わったな」
「ああ、そうだな。でも、クランさんは……」
今度こそ、完全にバグは修正された。
だが晃はクランのことを考えてしまい、どこかやりきれない気持ちでいた。
胸をなでおろして安堵したいのに、それができないもどかしさ。なにかをやり遂げたという充実感は、なかった。
すると――。
「……いえ、まだよ」
冬華は、首を強く横に振った。
「終わってないわ。バグの発生状況である、クランの命の危機は――まだ!」
「それは……そうかもしれないけどさ。こればっかりは、俺たちの手におえる問題じゃないだろ?」
すこし冷たい言い方なのは、晃もわかっていた。
それでも、人間にはできることとできないことが、どうしたってある。
医療に関してはなんの知識も技量もない自分たちが、遠く離れた場所で死の淵にいる人間を救うことなど……。
悔しそうにうつむく晃を、冬華はまっすぐな視線で射抜く。
「……できるわ」
瞳の奥に見える強い意志。そして、強い覚悟。
冬華の言葉がただの強がりではないことを、晃は感じた。
「できる……って、おまえ、どうやって……?」
その疑問に答えたのはマーシャだった。
「冬華よ、まさか……! デバッグメニューを使う気なのか!?」
とてつもなく強力で、そして、危険な力。
マーシャの言葉だと、万が一の場合は死よりもつらい事態になるとも。
そんな力を、冬華は使うと決心していた。
「……そうよ。バグは修正できたかもしれない。でも、明乃の心の傷まではいやせないわ。発生状況が改善されてない以上は、いつまた同じようなバグを発症させるか……。それに、なによりも――」
そこで言葉を区切ると、冬華は顔をしかめた。
「このままじゃ、自分自身が許せないのよ。検証の途中で倒れるなんて……! このバグを完全に修正しないと、わたしの気が収まらないの!!」
悲しき宿命を背負い、デバッガーとしてすべてを賭けてきた冬華。
自分が関わった症状でのミスは、彼女にしてみれば自分の存在価値すら左右する問題なのかもしれない。
そんな冬華の決意を確かめるように、マーシャはつぶやく。
「我と同じ身になるかもしれない……。その危険を承知の上での言葉なのだな?」
「……もちろんよ」
冬華の決意は固かった。だが、晃はその言葉に驚く。
「ま、待ってくれよ。それって、冬華がマーシャみたいになるかも……そういうことなのか?」
冬華とマーシャは顔を見合わせて、すこし考えるような顔をした。
そしてマーシャは、しかたないとばかりに肩をすくませて話し始める。
「冬華のデバッグメニューとは、『奇跡を起こすこと』なのだ。これはもはや、
神という単語に、いつだったかのマーシャの言葉が晃の脳裏に浮かぶ。
『概念として適当なのは、神になる』
奇跡を起こす力、すなわち神の力。
そんな力を使おうとする冬華もまた、神に、マーシャのように……!?
晃がそこまで考えると、マーシャはさらに言葉を続けた。
「……我が人間だった頃の名は、モーゼ。マーシャとは、その名の由来となった『引き上げる』という意味の言葉。デバッガーを導く監視者の我には、その名がふさわしい」
どこか自嘲するような、寂しげな表情のマーシャ。
これ以上は語りたくないのだろう。そのことを見て取った冬華が、言葉を引き継いだ。
「モーゼが起こした奇跡は……まぁ、言わなくても知ってるわね。そのために伝説の人物に祭り上げられたモーゼは、死んだあともこうして存在だけが残り続けているわ。バグが人の願いによって歪みを起こすように、みんながモーゼのことを『神の使徒』と思い、信じることで……その願いは、こうして実現してしまったのよ」
伝説では、モーゼは海を割るという奇跡を起こした。
迫害されていたイスラエル人を助けるためと伝えられており、その光景は多くの人々の目に焼きついたのだろう。
そして語り継がれた。
彼は奇跡を起こした――と。
マーシャは何千年も昔を思い出すような、そんな遠くを見る視線で、冬華の言葉を聞いていた。
それからすこしだけ目を伏せると、その視線を冬華に送る。
「停止した時間の中を生きるということは、限りなく不死、限りなく神に近い存在なのだ。それゆえ、奇跡の力を行使できる。……なんの因果か、数千年のときを経て、わたしは冬華と出会った。そして我の使命は、もう二度と我のような存在を作らぬことだと、そう直感したのだ」
すべては、冬華を守るため。
あまりにスケールのおおきな話だったが、それだけは晃にも理解できた。
「それでマーシャはあのとき、デバッグメニューの使用を許可しなかったんだな……」
「…………」
マーシャは肯定をしなかった。だが、否定もしなかった。
すると冬華は、「でも、だからよ」とつぶやく。
「だから、わたしはマーシャを信じてる。マーシャが力を貸してくれれば――絶対にだいじょうぶ」
迷いのない言葉。
マーシャは一点の曇りすらない瞳に見つめられ、たじろいだ。
そのまま数秒、二人の視線は交錯し――やがてマーシャは、ゆっくりとうなずいた。
「……そうだな。了解した」
空中に現れる緑色の表示。
今までのキーボードではない。
ひたすらにシンプルな、ひとつのおおきなボタン。
「ありがとう……。頼むわよ、マーシャ」
ほほえんで礼を言った冬華はその前に立ち、こぶしを振り上げた。
「デバッグメニュー……
力の限りに振り下ろされた手によって、そのボタンは押された。
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