第12話 千変万化の迷宮

 あれから二日が過ぎ、五月二日になって――。


 クランからの報告は、まだなかった。


 白桜学園では毎年、五月一日から一週間が連休になる。

 晃も今日はいつもの制服じゃなく、ゆったりとした私服で過ごしていた。


 これから一週間は着られることのない制服は、ハンガーにかかってクローゼットの中だ。


 立地の問題で、ほぼ全生徒が寮生活のこの学校。

 とくに一年生は親元を離れる場合がはじめてで、この時期になるとホームシックになる生徒もすくなくない。


 そのため春の連休を拡大。この間に帰省してもらおうというのだ。


 寮生活に慣れた二年、三年生にしても、連休は貴重なものに変わりはない。

 帰省する生徒以外にも、丸一日かけて友達と市外まで遊びに出たり、中には旅行にいく生徒まで数多くいた。


 クランが帰省したのかどうか、晃は知らない。

 もしも学園を離れていたとしたら、明乃とはケンカしたままということになる。


(携帯電話の番号……せめてメールアドレスくらい、聞いておけばよかったな)


 わずかかもしれないけれど、学園に残っている可能性もある。

 あとで部屋を調べて、訪ねてみようか……?


 そんなことをぼんやりと考えながら、晃は部屋の窓から外を眺めていた。


 いつもの喧騒がうそのような、静かな風景。

 寮の周りに人の姿はない。


 理由はさまざまだったけれど、ほとんどすべての生徒が学園を離れている。


 ――自分は帰らなくてよかったのか?


 いまさらながらに浮かんだ問いに、皮肉をこめて答える。


「……家に帰る? どうやってだよ」


 この姿のままでは、帰省することもできない。

 元の姿に戻り、両親や向こうの友達に会う理由は、残念ながら見つけられなかった。


 それに――。


「さて、と。わがままな先輩のとこにでもいくかな。そろそろ中級セカンダリデバッガー昇格に向けて、報告書の書き方も教えてくれるって言ってたし」


 学園には冬華も残っていた。


 帰省しないのは意外だったけれど、晃にとっては好都合だった。

 一週間も暇を持てあまさずに済むし、なによりも人目を気にせずにデバッガーの講習を受けることができるのだから。


 常に注目を浴びる晃にとって、人の目がないというのはそれだけで天国だった。


 鼻歌でも歌いたくなる爽やかな気分で、部屋の扉を開け、そして……。


「……は?」


 晃の目は点になった。

 廊下に出る扉を開けて、なぜかそこがトイレの中だったら、誰だってそんな目になるだろう。


 信じられないものを見た晃は、ゆっくりとうしろを振り返る。


 まちがいない。

 自分は今、確かに廊下に続く扉を開けた。トイレへの扉はその横だ。


「そんなまさか。これって……」


 晃は横を向き、トイレの扉の前に立つ。

 おそるおそるノブに手をのばすと、すこしだけ扉を開けて中をのぞいた。


 するとそこは、またしても部屋の中。


 それも自分の部屋ですらない。

 間取りは同じ寮の部屋だけど、置いてあるものが微妙に違う。

 それになにより、ここはベッドがふたつの二人部屋。


 成績優秀者に与えられる個室しかない、この最上階。

 そこに二人部屋が存在するなんてことは、物理的にありえない。


 とんでもないことになった――そう直感した晃の背中を、冷や汗が伝う。


「……これは、バグだ」


 晃はつぶやきながら、とりあえずその二人部屋に入ってみた。

 そして自分が出てきたところを確認して、さらに驚く。


「おいおい……。勘弁してくれよ」


 トイレの扉から入ったはずなのに、クローゼットの扉から出てきたのだ。


 それじゃ、この中にあるはずの服は、いったいどこに……?

 考えれば考えるほど、謎は深まるばかり。


「よし、すこし落ち着こう……」


 自分にそう言い聞かせて、晃は軽く目を閉じた。


 発生状況や発生要因はさっぱりわからないけれど、症状だけは明白だ。


 空間のねじれ……部屋と部屋、扉と扉がでたらめに繋がっている。

 これはつまり、寮の中に閉じ込められたということ。


 廊下にたどりつく気配すらないのだから、外に出ることはできない。

 ベランダから飛び降りることはできるかもしれないけど、それにしたって高い階からは無理だろう。


 ……けれど、自力ではここまで考えるのが精一杯だった。 根本的解決には、まるでいたらない。


 スイッチの力を使おうかどうか。そう悩み始めたところで、部屋の扉が開いた。

 そこから現れたのは――。


「と、冬華!?」


「なによ晃。あんたも寮の中にいたの?」


 助かった。


 冬華が帰省していないのは知っていたけれど、まだ寮の中にいてくれたのは不幸中の幸いだった。


 裏庭には工事が入っている。

 二人の集合場所は、あの天体観測施設になっていたのだから。すこしでも出発が早ければ、ここにはいなかっただろう。


「それはお互い様だって。……それにしても」


「な、なによ?」


「やっぱりおまえ、体操服なんだな……。いまどき小学生でもオシャレしてるってのにさ。恥ずかしいからそれはやめろって、いつも言ってるだろうが」


 冬華は休日になると、きまってシャツと短パンの体操服姿だった。


 半分くらい冗談で「私服はないのか?」と聞いたら、「ない」と即答された。


 年頃の女の子が、いったいどういう感覚をしているのかと、他人事ながら心配になってしまった。

 それ以前に、冬華が高校生とただひとつ証明できる制服を着ていないと、どこからどう見ても小学生だった。


 あきれる晃に、冬華は顔を赤くしながら踏み下ろしをくらわせた。


「う、うるさいわね! 休みの日になに着ようが、わたしの勝手じゃないの!」


「い、いてて。ったく、しょうがないやつだな。……でも」


 痛みにしかめていた晃の表情が、ふっ、とやわらかくなる。


「冬華が中にいてくれて助かったよ……」


 つい本音が出てしまう晃だった。


 バグにより歪められた世界。

 その中にあって冬華とのいつものやりとりは、晃が思っていた以上に安心感を与えてくれたらしい。


 冬華も嫌味を言うでもなく、「そうね……」と、真面目に答えた。


「正直、わたしもそう思う。あんた一人じゃどうなってたか……。ここまで重症のバグなんて、そうそうないわよ。連休で寮から人がいなくなってて、ホントよかったもの。みんないるときだったら今頃は大パニックよ」


 いつになく緊迫した冬華の物言いに、晃は事態の重さを実感した。


「重症……なんだな。やっぱり。それって、だいじょうぶなのか……?」


 不安な晃の声に、冬華は不敵に笑う。


「なに言ってんの。これでもわたしは上級プライマリデバッガーよ。だいじょうぶに決まってるじゃない」


 こんなにちいさな身体の冬華が、これ以上なく頼もしく見えた瞬間だった。


 晃は「そ、そうか……。そうだよな」と、安堵の息をつく。


 さっそく検証のモードに切り替わった冬華は、あごに手を当てて周囲を見回した。


「さて……。この感じだと、バグの基本形は人物・形而下けいじか型ね」


 寮全体に影響を及ぼすような、広範囲型のバグ。


 それにはふたつのパターンしかない。

 物質・形而上けいじじょう型か、人物・形而下型だ。


 そしてこの症状は、あきらかに具体的。

 空間と考えると複雑だけれど、建物という物質に異常が起きていると考えれば、形而下型という答えはすんなりと出てくる。


 言われてみれば簡単なこと。


 だけどそれを一瞬で見抜く冬華の観察力は、上級プライマリデバッガーの肩書きに恥じないものだった。


「なるほどな。それじゃこれは、特定の個人が起こしているバグってことだな」


「そういうことよ。すると次の問題は、誰が、なぜ、どのようにバグを起こしたか。つまり発生状況と発生要因ね。どっちかでもわかれば、検証も楽になるんだけど」


 冬華はそう言うと部屋の机の前に立ち、がさがさとなにかを探し始めた。


 けれど、もちろんそこは見ず知らずの他人の机。


「お、おい冬華! おまえ、なにやってるんだ!?」


 慌てる晃だったが、冬華は平然とした顔で答える。


「なにって……。紙とペンを探してるのよ。部屋と部屋がどうつながってるのか、メモしないと覚えきれないでしょ? あっ、みつけた」


「みつけた、じゃないだろ……。まぁ、非常事態だと思うしかないか」


 机を荒らされた被害者へ、冬華の代わりに「悪い。許してくれ」と、心の中で謝罪する晃。


(まったく、強引というか、手段を選ばないというか……)


 冬華は床に座り、一心不乱にメモ書きしている。

 そのちいさく丸まった背中に、晃は話しかける。


「でも、部屋のつながりを調べて、なにかわかるのか?」


「わかるわよ。バグは、人の願いが起こすものだから。空間をメチャクチャにすること自体が願いなのか、それともこの症状を起こすことで、願いをかなえようとしてるのか――部屋のつながりから一定の法則を見出せれば、それがわかるわ」


「あぁ、なるほど。そういうことか……」


 的確な分析に、おもわず納得してしまう晃だった。


 すると冬華はメモから顔をあげ、ちらりと晃を見た。


「……あんた、今日はちょっと頭の回転が鈍くない? 適性検査のときは、にくたらしいくらいにあっさりと症状を見抜いたのに」


 ぎくり、と、晃の心臓が跳ねた。


 疑惑の視線。『僕』と『俺』を結びつけるには不十分だけど、なにがきっかけになるかわからない。


 冬華がバグを修正してくれる。

 自分はなにもしなくていい――そんな風に、どこかで油断していたのかもしれない。

 その隙を突かれてしまった。


「い、いや、これは……」


 晃はなんとかして、ごまかそうとする。


 けれど、冬華はそこまで気にしていないようで、またメモに視線を落とした。


「ま、いいけれど。やっぱりあんたでも、正真正銘のバグには慌てるのね。やっぱり試験と本番はちがうもの」


「え? あ、あぁ。そうかもな、ちょっと緊張してるのかも」


 どうやら深い疑いを抱かず、ただの緊張と思ってくれたようだった。

 とはいえ、いつもこう都合よく受け取ってくれるとは限らない。


 やっぱりスイッチを使うか……。


 そう思い始めた矢先、冬華はいきなり立ち上がった。


「……さ、いくわよ」


「へ? い、いくって、どこにだよ?」


「そんなの、きまってるじゃない。もっと部屋を見て回らないと。これだけじゃデータがすくなくて、なんとも判断できないもの。最悪、すべての部屋を見て回るわよ」


 さらりと言う冬華だったけど、晃にはおおきな問題だった。


「見て回る、って……。わかってんのか? どれだけの部屋があると思ってんだよ!?」


 寮と言っても、建物は地上十階に地下二階。あまりに巨大だ。

 普通にすべての部屋を回るだけでも一苦労なのに、こんなめちゃくちゃな状態では、何時間かかることか。


 とてもじゃないけど、『知力』を上げ『体力』を下げた状態――虚弱体質のままでは無理だ。

 晃のスイッチでは、『知力』と『体力』を同時には上げられない……いや、不可能じゃないけれど、そうするとこの姿を維持できなくなる。

 能力的には可能でも、状況的にそれは不可能だった。


「……冬華よ」


 呼ばれてもいないのに、マーシャが現れた。


「我もその検証方法には反対だ。あまりにも効率が悪い」


 その言葉に、冬華はすこしむっとして答える。


「じゃあなに? デバッグメニューの使用許可でも出してくれるの?」


「それは許可できない。だが、あなたの身体は――」


「だったら、他に方法なんかないでしょ!?」


 冬華は叫んだ。あきらかに切羽詰った声で。


 その声は部屋中に響き渡り、やがて消えた。


 やはり冬華といえども、この大規模なバグに動揺していたにちがいない。

 なによりもそれがわかってしまった一瞬だった。


 静まり返った中でマーシャは一言。


「……了解した。無理はするなよ」


 そう、複雑そうな顔でつぶやくのだった、


 そんなマーシャを安心させるように、冬華が「だいじょうぶよ」と語りかける。


「すべての部屋を回るのは、あくまで最悪の場合。もっと早く法則性をみつければいい……それだけの話でしょ? さ、いくわよ」


 冬華は、マーシャの返事も待たずに歩き出した。


 本当なら廊下に出るはずの扉に、マジックでおおきく『1』と書く。

 この部屋は訪れたということを示す、部屋番号のつもりなのだろう。


 そして横のトイレの扉を開け、中へと入っていく。


 晃のとなりでその様子を見ていたマーシャに「……いいのか?」と、問いかけると、彼女はおおきく息をはいた。


「……いいもなにもないだろう。このまま冬華を見守るしかあるまい」


「けれどその、デバッグメニューを使用とか、どうとか……?」


 デバッグメニューの存在は知っていた。

 けれど、冬華が具体的にどんな力を使えるのか、それはまだ知らなかったのだ。


 マーシャは困ったような顔をしていたけれど、しぶしぶといった感じで教えてくれた。


「冬華のデバッグメニューは、とてつもなく強力で……そして、危険なのだ。できれば許可したくない」


「危険って言っても、まさか死ぬわけじゃないだろ? それ使えば、この症状も解明できるんじゃないか?」


 ダメで元々のような、軽い気持ちで言う晃。


 けれどマーシャは、ふっ、と笑った。

 自嘲するような、マーシャにしてはめずらしい表情だった。


「死……か。万が一のときは、それよりつらいことが起こるかもな」


「死よりもつらいって……そんな、冗談だろ?」


 すると一転、マーシャは真剣な表情で告げる。


「神尾晃よ。我が冗談を言うと思うか?」


 それだけ言うと、マーシャは冬華を追ってすべるように移動した。

 これ以上は、あまりしつこく聞かないほうがいい雰囲気だった。


 どうやら冬華のデバッグメニューというのは、本当に危険なものらしい。

 それを頼ることはできないだろう。


 こうなったからには、冬華には自力で症状のすべてを解明してもらうしかない。

 外見を維持できなくなる危険を冒してまで、スイッチを使いたくはなかった。


(なんだかんだ言って、冬華ならきっとなんとかしてくれるさ……)


 すこしの胸騒ぎを感じながらも、晃は冬華のあとを追った。

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