第8話 素直になれない心
冬華に案内された先は、高台にある天体観測の施設だった。
プラネタリウムじゃない。きちんとした大型の反射望遠鏡がある、本格的な施設。
けれど敷地のはずれのほうにあるため、授業で使う以外、生徒はまず訪れない。
バグを発生させて適性検査を行うには、まさに最適な場所だろう。
今は施錠されていて、施設の中には入れない。
円筒の上に半球のドームが乗ったような建物の前に、二人はいた。
「……マーシャ」
冬華が呼ぶと、マーシャがその平面の姿を見せた。
「ああ、了解している。適性検査を行うのだな」
「そ。ここで再現できるバグのリスト、ちょっと見せてくれる?」
マーシャが無言でうなずくと、彼女の前に大小いくつもの報告書と、緑色に光るキーボードが現れた。
もちろんその報告書も、実体はないのだろう。
目を通したものに冬華が指を触れると、はじけるようにして消えていく。
バグの再現とデバッグメニューの使用は、まったくの別物だ。
デバッグメニューは、各デバッガー固有の特技のようなもの。
対して再現とはその名の通り、過去に修正されたバグの報告書を元に、監視者権限により一時的に再現するもの。
冬華は今、自分が過去に修正したリストを確認しているのだった。
すると、そのうちのひとつを読んでいた彼女の表情が、いたずらを思いついた子供のような笑みに変わった。
「あ、そうそう。こんなのもあったわね。うん、これにしよっと」
「……本気か? それは冬華でも発見は困難だったもの。適性検査には、およそ不適切に思われるが」
マーシャは顔をしかめるが、冬華はお構いなしだった。
「いいの! ほら、晃。あんただって難しいほうが、やりがいあるでしょ!?」
「もちろんだ。受けて立つさ」
売り言葉に買い言葉。
頭に血が上った今の晃なら、どんな安い挑発にも平気で乗ることだろう。
「……まったく。困ったものだな」
めずらしく、マーシャは本当に困ったような顔をした。
その様子から察するに、どうやらよほどのバグらしい。
けれど、冬華はすでにキーボードを叩き始めている。
そんな彼女に、マーシャが再びの説得を試みる。
「冬華よ、考え直さないか? 適性検査とは、その名の通り適性を知るためのもの。なにひとつわからないようなバグでは、その意味がないだろう?」
「うるさい! マーシャは黙ってて! あいつの『俺はなんでもできる』って態度、わたしはだいっきらいなの! 世の中にはできないこともあるんだってこと、これで思い知らせてやるのよ!」
冬華の意志が固いことを悟ったマーシャは、「ふぅ」とため息をついた。
ついに説得をあきらめたようだった。
「どうなっても、我は知らんぞ……」
「よーし。それじゃ、バグを再現するわよ」
宣言して、冬華がエンターキーを叩いた。
願いの木を修正したときと同じように、マーシャは光の粒子になって世界に散った。
きっとこうして、世界の
(さぁ、なにが起こるのか……?)
晃は緊張して、その一瞬を迎えた。
地面がなくなり、無重力状態になる――くらいのことが起きても動揺しないように、心の準備だけはしっかりとする。
けれど五秒が経過し、さらにもう五秒が経過しても、世界は変わらずそこにあった。
「…………」
晃がどれだけ待とうと、なにも起こらない。
遠く、どこかで鳥が鳴いた。
「なぁ、冬華。バグって、もう発生してるのか……?」
おそるおそる問いかけた晃に、冬華はこくりとうなずいて答えた。
脳をめぐる血が、さーっと冷えていく。
冷静ということじゃない。むしろ今、晃はこれ以上ないほどに焦りまくっていた。
マーシャは困難と言っていたけど、ここまでなにもわからないとは思わなかった。
見ると、冬華はにやにやと笑っている。口にこそしないが、
「さぁ。わからないなら、アドバイスしてあげてもいいのよ? でもそれは、あんたが負けを認めたってことだけどね!」
と、言っているようだった。
なにもわからない中、それだけは嫌味なほど理解できた。
(どうする、どうする……?)
でも、こうして悩んでいても始まらない。
晃は当てもなく、周囲を観察する。
地面に手をつき感触を確かめる。
植物に触れてみる。
建物の壁に沿って、ぐるりと一周してみる。
けれども、これといって妙なところは見つからなかった。
空を見上げても、ドームの向こうには傾き始めた太陽が、やさしい光を放っている。
なにか異変が起こっているとは思えない。
(……しかたない。やるか。スイッチ……オン)
パラメータ変更。『知力』上昇。『体力』低下。
同時に、冬華との過去の会話を再検索。
クリアになった思考と記憶の中から、重要と思われる情報を拾い集めていく。
……検索終了。
その間、わずか三秒。驚異的な速度だった。
(さて……こいつのお世話になるかな)
晃は鞄から秘密兵器を取り出す。
それこそは――折りたたみ式のイス。映画監督が使うような、あれだ。
悠然とイスに腰を下ろした晃は、長い足をみせびらかすように組んで語り始めた。
「ふむ、基本形は判明した。『人物・
晃が答えると、一瞬にして冬華の顔からにやにや笑いが消えた。
「うぐ……」とうめいて、ちいさくつぶやく。
「……そ、その理由は?」
「まずは、この場所だな」
思考の第一段階として、晃はバグの種類を思い出していた。
おおきく分類して、バグは二種類。『人物』を要因とするものと、『物体、場所』を要因とするもの。
その中からさらに、目に見える具体的な形となって異変が現れる『
この場合の具体的・抽象的は、それぞれ物質的・精神的と置き換えることもできる。
つまり、バグには四つの基本形が存在するのだ。
人が起こし、物に作用する『人物・形而下型』。
人が起こし、人に作用する『人物・形而上型』。
物が起こし、物に作用する『物質・形而下型』。
物が起こし、人に作用する『物質・形而上型』。
これは冬華に教えられた、初歩の初歩。
基本形が特定できれば、そこから起こるバグの症例もかなり絞り込める。
では、現状はどうなっているか?
物体や場所がバグを発生するには、そこに人間の強い思いがよせられることが条件になる。
だが、冬華がバグを再現しようとした際、候補となる報告書は数多くあった。
天体観測の施設なんて、どこにでもあるものじゃない。
そんな場所で発生するようなバグが、過去にそういくつもあるだろうか……?
いや、ない。つまりこれは、物質型のバグではない。
「――以上が、人物型と判断した理由だ。次に」
そしてもうひとつ。バグがなにに作用しているか?
これは簡単だ。
周囲を探索したが、目に見える異常はなかった。
ならば目に見えない異常、形而上型のバグに他ならない。
こうして基本形は判明した。『人物・形而上型』のバグだ、と。
「――と、まぁ。こんな感じだ。相違ないか?」
そう答えた晃は冬華の返事を待った。
だが冬華は悔しそうに晃をみつめるだけで、なにも答えない。
するとマーシャが姿を現し、「うむ、正解だ」とうなずいた。
「素晴らしいな。初めての検証でその洞察力は、賞賛に値する」
「なに。冬華が教えてくれたことを思い出せば、そう難しいことではなかった」
これはお世辞や嫌味ではなく、本当のことだった。
冬華は晃を嫌っていたようだが、バグのことだけは真剣に教えてくれていた。
それは素直に感謝している。
「そうか……。たいしたものだな」
マーシャは満足そうにほほえむと、再び消えた。
(そうなのだ。落ち着いて考えれば、どうということはない……)
言われたくない一言を言われてしまった晃は、冷静さを失っていたのだ。
冬華が教えてくれたことをひとつひとつ思い出していけば、なにを手がかりに思考を進めればいいか見えてくる。
バグ検証の基本。パターンというものが。
それにしても、冬華は本当に意地が悪い。
いい加減なことをせず、しっかりと教えてくれたのは感謝している。
しかし、晃を試すには度が過ぎた策をしかけたことには、すこしの怒りも感じていた。
バグの基本形と、影響を及ぼす範囲には密接な関係がある。
人から人、物から物に作用する場合、同じ性質同士のためにエネルギーは
反対に、人から物、物から人の場合は拡散し、広範囲に弱程度の影響を及ぼす。
つまり、人物・形而上型のバグは発生させた当人のみが対象となり、わざわざ人がいない場所に移動する必要などないのだ。
それなのに、だ。冬華はあえて移動した。この、人気のない施設に。
この時点で晃は無意識に、「周囲に影響が出るんだろうな」と先入観を持ってしまっていた。
それでいざバグを再現したら、目に見える異常はないのだ。
たとえ頭に血が上っていなかったとしても、これは焦ったことだろう。
(冬華め。いやらしい
だが、晃はそれを見破った。
勝ち誇ったように、胸を張って冬華を見下ろす。
すると冬華は苦し紛れなのか、ぷいと視線をそらした。
「……な、なによ。調子に乗らないで。これくらいじゃ、ぜんぜん認めないわよ!」
負け惜しみを――と言いたいところだったが、実際は冬華の言ったとおりだ。
バグの基本形は判明したが、具体的な症状は見極められていない。
ようやく検証の第一歩を踏み出したに過ぎないのだ。
それでも、まったくの五里霧中というわけでもない。
基本形から、その効果範囲も検討がついている。
異常が発生しているのは冬華自身。それも目に見えない部分――大抵は精神だ。
とはいえ、例外も存在する。
晃のスイッチの力、これは人物・形而上型のバグだからだ。
人が起こし、目に見えない部分で異変が起きている。
だが、それは精神ではなくパラメータに対して。
このように、人物・形而上型のバグは症状を見つけることすら難しい。
同じ目に見えない症状でも、多数の人間に異変が起こる物質・形而上型のバグのほうが、よほど発見しやすいのだから。
(さて、どうするか……?)
しばらく思案していた晃だったが、あることに気付く。
――そう。いくらなんでも難しすぎる。
マーシャも言っていた。適性検査としては不適切、と。
このバグを再現すること自体、最初からフェアとは言い難いのだ。
それならば、こちらも少々アンフェアな手を使っても……。
「冬華」
晃が呼ぶと、冬華は渋面をつくった。
「……な、なによ?」
「人物・形而上型ということは、症状が出ているのはおまえ一人なのだな?」
わかりきっていることを、いまさらのように聞く晃。
これならアドバイスを聞いたことにならないはず。
すでに明白なことを聞いても、それは助言ではない。ただの確認だ。
すると冬華は渋面のまま、こくりとうなずいた。
(……やはり、な)
予想通りだった。
冬華の反応をよく思い出せば、バグを再現してからの彼女はやたらと口数が少ない。
バグの手がかりがつかめず焦っているときに、なにも言ってこなかったのがいい証拠だ。
あの冬華が、これでもかと嫌味を言える場面で口をつぐんでいた。
それはもしかしたら、あえて言わなかったのではなく、言えなかったのでは……!?
人物・形而上型のバグは、主として人間の内面に異変を起こす。
今の冬華はうかつに口を開くと、普段からは想像もつかないような言動をするのかもしれない。
これはおかしい。バグだ。
そう断言できる一言を引き出すため、晃はひたすらに質問を続ける。
「それならば、この場所は関係ないのだな?」
こくり、と、再びうなずく冬華。
「このパターンのバグは、精神的な影響を与えることが多い? 違うか?」
こくり。
「だが精神的と一口に言っても、範囲が広い。広すぎる。思考、言動、どちらに分類するかでおおきく違う。そうだな?」
……こくり。
問い詰めるように、質問の内容を徐々に具体的なものにしていく。
そろそろ単純な首肯だけでは答えにくいはず。
だがそれでも、冬華はすこし考えたあとに首肯した。
晃の予想は確信に変わる。
やはり冬華は、意図的に会話を避けている。
言動どころか、言葉ひとつすら症状になっているのかもしれない。
「……このバグは、言葉に関係あるのではないか?」
核心を突く晃の質問。
冬華は驚いたように目を見開いて、ぶんぶんと首を横に振った。
これではもう、ほとんど肯定しているようなものだ。
だが、これは冬華の意地なのか。けっして話をしようとしない。
このままでは症状の内容がわからず、両者引き分けとなってしまう。
冬華もそれが狙いなのだろう。
こうなったら、冬華が思わず口を開いてしまうような話題を、無理矢理にでも持ち出すしかない。
しかし、なにがもっとも効果的か……。
過去の話題は厳禁だ。
今の『俺』が知るはずもない、冬華の昔のことを話し始めたら。それは彼女も驚いて反応するだろう。
しかしそれでは本末転倒。自らバグだと名乗り出るようなものだ。
と、なると。残るは今の話題しかない。
冬華と知り合って、わずか半月の『俺』。
そんな晃が、冬華について一番よく知っていることと言えば――冬華は、晃を嫌っていることしかない。
(……ちょっと冒険だが、やってみるしかあるまい)
名案、いや、妙案を思いついた晃は、「ところで、だ」と話を切り出した。
質問続きだったところに、急な話題の変更。
冬華もペースを崩され、「な、なによ?」と、動揺している。
今ならば、なにかしらの反応が返ってきそうだった。
相手に冗談と受け取られないよう、晃は精一杯の真剣な声でたずねる。
「冬華、おまえ……俺のこと、好きなのでは?」
「な――」
冬華は一瞬だけ息をのみ、お腹の底から声を絞り出す。
「そ、そのとおりよっ! あんたのことが好き! 大好きなのっ!!」
言ってから、冬華は「……はっ!?」と自分の口を手で覆った。
予想をはるかに超えた反応に、晃もただ呆然と冬華を見つめる。
その、あまりに直接的な愛の告白は、静まり返った二人の間に数秒は残響していたように感じられた。
すくなくとも晃には、それだけの衝撃だった。
確かにこの学園に来てから、晃は慣れてしまうほど告白の呼び出しを受けた。
しかし、それはあくまで呼び出し。肝心の告白は、明乃率いる
今のが、晃の人生ではじめて受けた告白だったのだ。
だが、これは――。
(そ、そうだ! なにを本気にしているのだ、俺よ!?)
今の言葉はバグ。冬華の症状なのだ。
あれだけ晃のことを嫌っている冬華が、こんな告白をするとはとても思えない。
なによりもその、顔をまっかにした冬華の表情。
なにかをうったえるように晃を見上げている必死な視線が、今の言葉は本心ではないことを物語っている。
晃もすこし頬を赤くし、頭をかきながら視線をそらしてつぶやく。
「今のが――バグなのだな?」
「ち、違うのっ! わたし、ホントにあんたのこと、大好きなんだからっ!!」
口ではバグということを否定している。
だが冬華は、ぶんぶんと何度も首を縦に振って肯定していた。
つまりこれはそういうバグ。
ようやく全容を解明できたと同時、とてつもない疲労感が晃を襲った。
(スイッチ……オフ)
あまりにバカバカしいバグの内容に、気がゆるんでしまった。
これは体力的な疲れじゃない。気疲れだった。
晃は「はぁ……」とため息をつく。
「言葉になるのは、心で思っているのと正反対のことなんだな……」
その言葉に、冬華はもう一度、激しく首を縦に振った。
さっき冬華が言ったのも正しくは、
『そ、そうよっ! わたし、ホントにあんたのこと、大嫌いなんだからっ!!』
と、いうことなのだろう。それなら、なにからなにまで納得がいく。
(なるほど。そりゃ冬華も無口になるわけだ……)
けれど、今みたいに自分の首を絞めるとは、考えなかったのだろうか……?
たしかにこれは発見が難しい。
それで晃に意地悪をできると思ったら、そんなこと想像もせずに実行してしまったのかもしれない。
冬華ならありえる。
そしてその結果が、あの恥ずかしい愛の告白だったわけだ。
まさかあんな言葉が自分の口から飛び出るとは、冬華だって夢にも思わなかったのだろう。
動揺して、「わ、わたし……わたし……」としか言えなくなっていた。
晃は照れが半分、申し訳なさ半分で苦笑し、冬華の頭にぽんと手を乗せた。
「あー、だいじょうぶだって。おまえの本心は、よくわかってるから。悪かったよ、あんなこと言わせて」
しかし実際は、晃が悪いというより、冬華の自業自得だろう。
意地悪なことをするから、こういうことになるのだ。
(それにしても、場所を移動しておいてよかった……)
もしもこれが寮のすぐそばとかの人が多い場所で、誰かに聞かれでもしたら――明乃がなにをしでかすか、わかったものじゃない。本当に助かった。
そう、晃が安堵した、まさにそのとき。
不意に聞こえた、どさっ、という物音。
音のしたほうを見る。すると晃の視線と、目を見開いたクランの視線が重なった。
「く、クランさん……? どうしてこんなとこに!?」
晃の声に、クランはびくっと肩をふるわせた。
落とした鞄をあわてて拾うと、途切れ途切れに言葉をつむぐ。
「あ、その……わたし、天文部で。そこの観測所で活動をしてて……だから、でも、ご、ごめんなさい! その、聞くつもりはなくて……それで……」
なにが言いたいのか、本人もわからなくなるほどショックなんだろう。
無理もない。
自分の好きな人が告白を受けていて、あまつさえ、その子の頭に手を乗せているのだ。
状況、二人の言葉、どちらも誤解されてもしかたないものばかり。
「ち、違う! これは、その……」
ぱっ、と冬華の頭から手をどけて弁明するけど、正直どう説明していいかわからない。
バグを見られたときのことを考え、冬華のことを『手品師』とは言った。けれど、こんなのは想定外だ。
「と、とにかく、ごめんなさい!」
クランは深々と頭を下げると、背を向けて走り去ってしまった。
(お、追いかけなきゃ! まずは『体力』を上げて追い付いて、それから『知力』を上げて、ええと……!)
そんなことを考えながら、晃は駆け出し――踏み出した右足が、冬華によって地面に釘付けにされた。
「う、あっ!?」
予想外の攻撃にうずくまると、憤怒の形相でこちらを見下ろす冬華と目が合った。
その迫力に、晃の背筋を冷たい汗が流れる。
「あ、えと……」
「……マーシャ」
冬華に呼ばれて、マーシャが姿を現した。
「了解している。
「この、バカっ!!」
マーシャの言葉を最後まで聞かずに叫んだ冬華は、再び渾身の踏み下ろしを炸裂させる。
「なんで、わたしが、あんなこと、言わなきゃ、いけないのよっ!?」
一言につき、一度の踏みつけ。
そのたびに晃は「うおっ!?」とか「ぐあっ!?」とうめいたのだが、冬華の攻撃は止まる気配もなく、合計で五回も踏まれた足はぼろぼろになってしまった。
じんじんと痛む足をおさえて、晃は非難の視線を冬華に送る。
「だっておまえ……。ずっと黙ってちゃ、なにが症状なのかわかんないだろ? それで、おまえの反応が返ってきそうなことを――うぎゃおうっ!?」
言葉の途中で振り下ろされた冬華の凶器(足)は、晃の手ごと足を撃ちぬいた。想像を絶する痛みに、晃は情けない声をあげてしまった。
冬華も連撃で疲れたのか、肩で息をしている。
「だからって普通、あんなこと言う!? 信じられないわ、このバカ!!」
なおも冬華の怒りはおさまらずに足を振り上げたところで、マーシャが「いい加減にしないか」と、たしなめてくれた。
ここまで踏まれる前に言ってほしかった……そんなことを思わないでもなかったけれど、止めてくれただけ助かった。
「冬華よ。元はと言えば、あなたが不適切なバグを再現したからだ。我は忠告したはずだぞ?」
「で、でも……!」
「神尾晃がとった行動は、バグの検証方法としては間違っていない。それは、我が断言する」
そこで言葉を区切ると、マーシャは晃に視線をうつした。
「適性検査は中断されたが、非常に優秀な結果だった。経験を積んでいけば、すぐにでも
「……そっか。ならよかったよ。がんばったかいがあったからさ」
なにしろ、いろいろと手を焼かされた。
もしもスイッチの力がなかったら、今頃どうなっていたか……。
マーシャに褒められたことで、晃はすこし気をよくしていた。
ようやく立ち上がり、どんなもんだとばかりに冬華を見下ろす。
けれど――。
「……ずるい」
冬華は一言だけ、ぽつりとつぶやいた。
そしてそのまま、せきを切ったように感情のまま言葉を並べる。
「ずるいわよ! なんでもすぐにできて、きっと苦労なんかしたことないんでしょ!? がんばった? そんなの甘いわ! 世の中にはね、がんばってがんばって、それでもどうにもならなくて、くやしい思いをしてる人だっているのよ!?」
今までのような嫌味とは、なにかが違っていた。
もっと、こう……言葉ひとつにまで、たとえようのない重みが感じられたのだ。
晃はなにも言うことができず、ただ冬華の言葉を聞く。
「あんたを見てるとね、思い出すのよ! なんで同じ名前なのに、あんたと『晃』は、こうまで違うの!? なんでもできるからっていい気になってるあんたより、あの『晃』のほうが、ずっとずっと、かっこいいんだから!!」
――同じ名前。
晃は、ようやくわかった。
冬華にとって神尾晃という名前は、『僕』だった頃の晃のものなのだ。
なにをやっても普通で、得意なものなんてひとつもない。
背も低く、コンプレックスだらけで歯がゆい思いをしていた、あの『僕』の……。
きっと冬華は、晃が完璧だから嫌いなんじゃない。
神尾晃という名前の人間が完璧だから、嫌いなんだろう。
たしかにあの頃は、なにをするにもがんばっていた。
けれどそれは自発的なものじゃない。がんばらないと、なにひとつとしてできなかったからだ。
がんばって、がんばって……それでも『僕』だった晃は、人並みだった。
冬華の言うくやしい思いなんか、それこそいくらでもしてきた。
だから、『僕』は『俺』になった。
どんなに手をのばしても、けっして届かなかったものをつかむために。
(そうだよ……。いったいそれの、なにが悪いんだよ!?)
心から、そう叫びたかった。
それを言ったら、自分がバグだと白状するのだと、わかっていても。
「ぐ……」
出かかった言葉をどうにか飲み込み、晃はうめいた。
冬華はうつむいていた。思いのたけを言葉にしきって。
そのまま、お互いなにも口にしないまま数秒が過ぎ。
やがて冬華は、晃に背中を向けてしまった。その背中に、マーシャが心配そうに呼びかける。
「冬華よ……」
「ごめん。ちょっとだけ、一人にして……」
マーシャは一瞬だけ考えるような素振りを見せ、すっと消えた。
「お、おい、冬華……」
この状況でなにを話したらいいか、そんなことはわからない。
けれども、晃は冬華の名前を呼んでいた。なぜ呼んだのか、自分でもわからないまま。
晃は一歩だけ踏み出すが、冬華に「こないで」と言われて、それ以上は動けなくなってしまう。
「……帰る。今日はもう、あんたの顔、みたくないから……」
晃は怒ることも、謝ることも、慰めることもできず。
ちいさくなる冬華の背中が見えなくなるまで、そこに立ち尽くしていることしかできなかった。
※
「……はぁ」
冬華と別れたあと、寮に戻って食事を済ませた晃は、自室のベッドにうつぶせで倒れこんだ。
なんだか今日は、こんなことをしてばかりな気がした。疲れた……。とても疲れた一日だった。
明乃には捕まりそうになり、クランには盛大に誤解され、そして冬華とは――。
(ケンカ……なのかな。これは)
ごろりと身体を転がして、天井をあおぐ。
とはいえ晃は悪くないはずだ……たぶん。
そもそも、冬華がわざと難度の高いバグを再現するからいけないのだ。
晃がバグを見つけるためにとった行動の正当性は、マーシャも認めている。
それなのに……。
『あの晃のほうが、ずっとずっと、かっこいいんだから!!』
冬華の言葉が、耳から離れない。
凡庸な『僕』を嫌い、完璧な『俺』になった晃にとって、凡庸な『僕』のほうが評価されているのは複雑だった。
不思議、不可解といってもいい。
冷静に考えて、『僕』が『俺』より秀でているところなど、まったくないのだから。
「くそっ……。わけがわからない!」
――そうだ。なんだかんだ言って、ただのひがみなんだ。
自分が発見するのに手間取ったバグを簡単に発見されたから、冬華はそれがくやしいだけなんだ。
証拠ならある。あの負け惜しみの言葉だ。
『……な、なによ。調子に乗らないで。これくらいじゃ、ぜんぜん認めないわよ!』
バグの基本形式を当てたとき、冬華はいつものように嫌味を――。
そこまで考えたとき、晃はふと気付く。
(待てよ。たしかあのときは、バグが発症してなかったか!?)
まちがいなかった。あの言葉は、冬華がバグを再現したあとに言ったもの。
だとすると、あれの本当の意味は……。
『……な、なによ。やるじゃない。ちょっとは見直してあげてもいいわよ!』
そのことに気付いた晃は、冬華が自分をどう思っているのか、本当にわからなくなってしまった。
「なんだよ……。『俺』を認めるのか認めないのか、はっきりしてくれよ……」
つぶやいた晃は、目を閉じる。
全身を疲労によるけだるさが包みこみ、晃の意識は闇に沈むような深い眠りに落ちていった。
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