第8話 素直になれない心

 冬華に案内された先は、高台にある天体観測の施設だった。


 プラネタリウムじゃない。きちんとした大型の反射望遠鏡がある、本格的な施設。


 けれど敷地のはずれのほうにあるため、授業で使う以外、生徒はまず訪れない。

 バグを発生させて適性検査を行うには、まさに最適な場所だろう。


 今は施錠されていて、施設の中には入れない。

 円筒の上に半球のドームが乗ったような建物の前に、二人はいた。


「……マーシャ」


 冬華が呼ぶと、マーシャがその平面の姿を見せた。


「ああ、了解している。適性検査を行うのだな」


「そ。ここで再現できるバグのリスト、ちょっと見せてくれる?」


 マーシャが無言でうなずくと、彼女の前に大小いくつもの報告書と、緑色に光るキーボードが現れた。

 もちろんその報告書も、実体はないのだろう。

 目を通したものに冬華が指を触れると、はじけるようにして消えていく。


 バグの再現とデバッグメニューの使用は、まったくの別物だ。


 デバッグメニューは、各デバッガー固有の特技のようなもの。


 対して再現とはその名の通り、過去に修正されたバグの報告書を元に、監視者権限により一時的に再現するもの。

 冬華は今、自分が過去に修正したリストを確認しているのだった。


 すると、そのうちのひとつを読んでいた彼女の表情が、いたずらを思いついた子供のような笑みに変わった。


「あ、そうそう。こんなのもあったわね。うん、これにしよっと」


「……本気か? それは冬華でも発見は困難だったもの。適性検査には、およそ不適切に思われるが」


 マーシャは顔をしかめるが、冬華はお構いなしだった。


「いいの! ほら、晃。あんただって難しいほうが、やりがいあるでしょ!?」


「もちろんだ。受けて立つさ」


 売り言葉に買い言葉。

 頭に血が上った今の晃なら、どんな安い挑発にも平気で乗ることだろう。


「……まったく。困ったものだな」


 めずらしく、マーシャは本当に困ったような顔をした。

 その様子から察するに、どうやらよほどのバグらしい。


 けれど、冬華はすでにキーボードを叩き始めている。

 そんな彼女に、マーシャが再びの説得を試みる。


「冬華よ、考え直さないか? 適性検査とは、その名の通り適性を知るためのもの。なにひとつわからないようなバグでは、その意味がないだろう?」


「うるさい! マーシャは黙ってて! あいつの『俺はなんでもできる』って態度、わたしはだいっきらいなの! 世の中にはできないこともあるんだってこと、これで思い知らせてやるのよ!」


 冬華の意志が固いことを悟ったマーシャは、「ふぅ」とため息をついた。

 ついに説得をあきらめたようだった。


「どうなっても、我は知らんぞ……」


「よーし。それじゃ、バグを再現するわよ」


 宣言して、冬華がエンターキーを叩いた。


 願いの木を修正したときと同じように、マーシャは光の粒子になって世界に散った。

 きっとこうして、世界の法則プログラムを操作しているのだろう。


(さぁ、なにが起こるのか……?)


 晃は緊張して、その一瞬を迎えた。


 緊急停止ストップのことを考えると、世界そのものに異常が起こるかもしれない。

 地面がなくなり、無重力状態になる――くらいのことが起きても動揺しないように、心の準備だけはしっかりとする。


 けれど五秒が経過し、さらにもう五秒が経過しても、世界は変わらずそこにあった。


「…………」


 晃がどれだけ待とうと、なにも起こらない。


 遠く、どこかで鳥が鳴いた。


「なぁ、冬華。バグって、もう発生してるのか……?」


 おそるおそる問いかけた晃に、冬華はこくりとうなずいて答えた。


 脳をめぐる血が、さーっと冷えていく。

 冷静ということじゃない。むしろ今、晃はこれ以上ないほどに焦りまくっていた。


 マーシャは困難と言っていたけど、ここまでなにもわからないとは思わなかった。


 見ると、冬華はにやにやと笑っている。口にこそしないが、


「さぁ。わからないなら、アドバイスしてあげてもいいのよ? でもそれは、あんたが負けを認めたってことだけどね!」


 と、言っているようだった。


 なにもわからない中、それだけは嫌味なほど理解できた。


(どうする、どうする……?)


 でも、こうして悩んでいても始まらない。

 晃は当てもなく、周囲を観察する。


 地面に手をつき感触を確かめる。

 植物に触れてみる。

 建物の壁に沿って、ぐるりと一周してみる。


 けれども、これといって妙なところは見つからなかった。


 空を見上げても、ドームの向こうには傾き始めた太陽が、やさしい光を放っている。

 なにか異変が起こっているとは思えない。


(……しかたない。やるか。スイッチ……オン)



 パラメータ変更。『知力』上昇。『体力』低下。


 同時に、冬華との過去の会話を再検索。

 クリアになった思考と記憶の中から、重要と思われる情報を拾い集めていく。


 ……検索終了。諸元データ入力。計算、開始。――終了。


 その間、わずか三秒。驚異的な速度だった。


(さて……こいつのお世話になるかな)


 晃は鞄から秘密兵器を取り出す。

 それこそは――折りたたみ式のイス。映画監督が使うような、あれだ。


 悠然とイスに腰を下ろした晃は、長い足をみせびらかすように組んで語り始めた。


「ふむ、基本形は判明した。『人物・形而上けいじじょう型』に違いない」


 晃が答えると、一瞬にして冬華の顔からにやにや笑いが消えた。

「うぐ……」とうめいて、ちいさくつぶやく。


「……そ、その理由は?」


「まずは、この場所だな」


 思考の第一段階として、晃はバグの種類を思い出していた。


 おおきく分類して、バグは二種類。『人物』を要因とするものと、『物体、場所』を要因とするもの。

 その中からさらに、目に見える具体的な形となって異変が現れる『形而下けいじか型』と、目に見えない抽象的な異変を起こす『形而上けいじじょう型』に分かれる。

 この場合の具体的・抽象的は、それぞれ物質的・精神的と置き換えることもできる。


 つまり、バグには四つの基本形が存在するのだ。


 人が起こし、物に作用する『人物・形而下型』。

 人が起こし、人に作用する『人物・形而上型』。

 物が起こし、物に作用する『物質・形而下型』。

 物が起こし、人に作用する『物質・形而上型』。


 これは冬華に教えられた、初歩の初歩。

 基本形が特定できれば、そこから起こるバグの症例もかなり絞り込める。


 では、現状はどうなっているか?


 物体や場所がバグを発生するには、そこに人間の強い思いがよせられることが条件になる。

 だが、冬華がバグを再現しようとした際、候補となる報告書は数多くあった。


 天体観測の施設なんて、どこにでもあるものじゃない。

 そんな場所で発生するようなバグが、過去にそういくつもあるだろうか……?


 いや、ない。つまりこれは、物質型のバグではない。


「――以上が、人物型と判断した理由だ。次に」


 そしてもうひとつ。バグがなにに作用しているか?


 これは簡単だ。

 周囲を探索したが、目に見える異常はなかった。

 ならば目に見えない異常、形而上型のバグに他ならない。


 こうして基本形は判明した。『人物・形而上型』のバグだ、と。


「――と、まぁ。こんな感じだ。相違ないか?」


 そう答えた晃は冬華の返事を待った。

 だが冬華は悔しそうに晃をみつめるだけで、なにも答えない。


 するとマーシャが姿を現し、「うむ、正解だ」とうなずいた。


「素晴らしいな。初めての検証でその洞察力は、賞賛に値する」


「なに。冬華が教えてくれたことを思い出せば、そう難しいことではなかった」


 これはお世辞や嫌味ではなく、本当のことだった。


 冬華は晃を嫌っていたようだが、バグのことだけは真剣に教えてくれていた。

 それは素直に感謝している。


「そうか……。たいしたものだな」


 マーシャは満足そうにほほえむと、再び消えた。


(そうなのだ。落ち着いて考えれば、どうということはない……)


 言われたくない一言を言われてしまった晃は、冷静さを失っていたのだ。


 冬華が教えてくれたことをひとつひとつ思い出していけば、なにを手がかりに思考を進めればいいか見えてくる。

 バグ検証の基本。パターンというものが。


 それにしても、冬華は本当に意地が悪い。


 いい加減なことをせず、しっかりと教えてくれたのは感謝している。

 しかし、晃を試すには度が過ぎた策をしかけたことには、すこしの怒りも感じていた。


 バグの基本形と、影響を及ぼす範囲には密接な関係がある。

 人から人、物から物に作用する場合、同じ性質同士のためにエネルギーは収斂しゅうれんし、その影響範囲は狭く、強くなる。

 反対に、人から物、物から人の場合は拡散し、広範囲に弱程度の影響を及ぼす。


 つまり、人物・形而上型のバグは発生させた当人のみが対象となり、わざわざ人がいない場所に移動する必要などないのだ。


 それなのに、だ。冬華はあえて移動した。この、人気のない施設に。


 この時点で晃は無意識に、「周囲に影響が出るんだろうな」と先入観を持ってしまっていた。

 それでいざバグを再現したら、目に見える異常はないのだ。


 たとえ頭に血が上っていなかったとしても、これは焦ったことだろう。


(冬華め。いやらしいトラップをしかけてきたものだ……!)


 だが、晃はそれを見破った。

 勝ち誇ったように、胸を張って冬華を見下ろす。


 すると冬華は苦し紛れなのか、ぷいと視線をそらした。


「……な、なによ。調子に乗らないで。これくらいじゃ、ぜんぜん認めないわよ!」


 負け惜しみを――と言いたいところだったが、実際は冬華の言ったとおりだ。


 バグの基本形は判明したが、具体的な症状は見極められていない。

 ようやく検証の第一歩を踏み出したに過ぎないのだ。


 それでも、まったくの五里霧中というわけでもない。


 基本形から、その効果範囲も検討がついている。

 異常が発生しているのは冬華自身。それも目に見えない部分――大抵は精神だ。


 とはいえ、例外も存在する。


 晃のスイッチの力、これは人物・形而上型のバグだからだ。


 人が起こし、目に見えない部分で異変が起きている。

 だが、それは精神ではなくパラメータに対して。


 このように、人物・形而上型のバグは症状を見つけることすら難しい。

 同じ目に見えない症状でも、多数の人間に異変が起こる物質・形而上型のバグのほうが、よほど発見しやすいのだから。


(さて、どうするか……?)


 しばらく思案していた晃だったが、あることに気付く。


 ――そう。いくらなんでも難しすぎる。


 マーシャも言っていた。適性検査としては不適切、と。

 このバグを再現すること自体、最初からフェアとは言い難いのだ。


 それならば、こちらも少々アンフェアな手を使っても……。


「冬華」


 晃が呼ぶと、冬華は渋面をつくった。


「……な、なによ?」


「人物・形而上型ということは、症状が出ているのはおまえ一人なのだな?」


 わかりきっていることを、いまさらのように聞く晃。


 これならアドバイスを聞いたことにならないはず。

 すでに明白なことを聞いても、それは助言ではない。ただの確認だ。


 すると冬華は渋面のまま、こくりとうなずいた。


(……やはり、な)


 予想通りだった。


 冬華の反応をよく思い出せば、バグを再現してからの彼女はやたらと口数が少ない。

 バグの手がかりがつかめず焦っているときに、なにも言ってこなかったのがいい証拠だ。


 あの冬華が、これでもかと嫌味を言える場面で口をつぐんでいた。


 それはもしかしたら、あえて言わなかったのではなく、のでは……!?


 人物・形而上型のバグは、主として人間の内面に異変を起こす。

 今の冬華はうかつに口を開くと、普段からは想像もつかないような言動をするのかもしれない。


 これはおかしい。バグだ。


 そう断言できる一言を引き出すため、晃はひたすらに質問を続ける。


「それならば、この場所は関係ないのだな?」


 こくり、と、再びうなずく冬華。


「このパターンのバグは、精神的な影響を与えることが多い? 違うか?」


 こくり。


「だが精神的と一口に言っても、範囲が広い。広すぎる。思考、言動、どちらに分類するかでおおきく違う。そうだな?」


 ……こくり。


 問い詰めるように、質問の内容を徐々に具体的なものにしていく。


 そろそろ単純な首肯だけでは答えにくいはず。

 だがそれでも、冬華はすこし考えたあとに首肯した。


 晃の予想は確信に変わる。


 やはり冬華は、意図的に会話を避けている。

 言動どころか、言葉ひとつすら症状になっているのかもしれない。


「……このバグは、言葉に関係あるのではないか?」


 核心を突く晃の質問。


 冬華は驚いたように目を見開いて、ぶんぶんと首を横に振った。

 これではもう、ほとんど肯定しているようなものだ。


 だが、これは冬華の意地なのか。けっして話をしようとしない。


 このままでは症状の内容がわからず、両者引き分けとなってしまう。

 冬華もそれが狙いなのだろう。


 こうなったら、冬華が思わず口を開いてしまうような話題を、無理矢理にでも持ち出すしかない。


 しかし、なにがもっとも効果的か……。


 過去の話題は厳禁だ。

 今の『俺』が知るはずもない、冬華の昔のことを話し始めたら。それは彼女も驚いて反応するだろう。


 しかしそれでは本末転倒。自らバグだと名乗り出るようなものだ。


 と、なると。残るは今の話題しかない。


 冬華と知り合って、わずか半月の『俺』。

 そんな晃が、冬華について一番よく知っていることと言えば――冬華は、晃を嫌っていることしかない。


(……ちょっと冒険だが、やってみるしかあるまい)


 名案、いや、妙案を思いついた晃は、「ところで、だ」と話を切り出した。


 質問続きだったところに、急な話題の変更。

 冬華もペースを崩され、「な、なによ?」と、動揺している。


 今ならば、なにかしらの反応が返ってきそうだった。

 相手に冗談と受け取られないよう、晃は精一杯の真剣な声でたずねる。


「冬華、おまえ……俺のこと、好きなのでは?」


「な――」


 冬華は一瞬だけ息をのみ、お腹の底から声を絞り出す。


「そ、そのとおりよっ! あんたのことが好き! 大好きなのっ!!」


 言ってから、冬華は「……はっ!?」と自分の口を手で覆った。


 予想をはるかに超えた反応に、晃もただ呆然と冬華を見つめる。


 その、あまりに直接的な愛の告白は、静まり返った二人の間に数秒は残響していたように感じられた。

 すくなくとも晃には、それだけの衝撃だった。


 確かにこの学園に来てから、晃は慣れてしまうほど告白の呼び出しを受けた。


 しかし、それはあくまで呼び出し。肝心の告白は、明乃率いるAAAトリプルエーの会に妨害されてばかり。

 今のが、晃の人生ではじめて受けた告白だったのだ。


 だが、これは――。


(そ、そうだ! なにを本気にしているのだ、俺よ!?)


 今の言葉はバグ。冬華の症状なのだ。


 あれだけ晃のことを嫌っている冬華が、こんな告白をするとはとても思えない。


 なによりもその、顔をまっかにした冬華の表情。

 なにかをうったえるように晃を見上げている必死な視線が、今の言葉は本心ではないことを物語っている。


 晃もすこし頬を赤くし、頭をかきながら視線をそらしてつぶやく。


「今のが――バグなのだな?」


「ち、違うのっ! わたし、ホントにあんたのこと、大好きなんだからっ!!」


 口ではバグということを否定している。

 だが冬華は、ぶんぶんと何度も首を縦に振って肯定していた。


 つまりこれはそういうバグ。


 ようやく全容を解明できたと同時、とてつもない疲労感が晃を襲った。


(スイッチ……オフ)



 あまりにバカバカしいバグの内容に、気がゆるんでしまった。


 これは体力的な疲れじゃない。気疲れだった。

 晃は「はぁ……」とため息をつく。


「言葉になるのは、心で思っているのと正反対のことなんだな……」


 その言葉に、冬華はもう一度、激しく首を縦に振った。


 さっき冬華が言ったのも正しくは、


『そ、そうよっ! わたし、ホントにあんたのこと、大嫌いなんだからっ!!』


 と、いうことなのだろう。それなら、なにからなにまで納得がいく。


(なるほど。そりゃ冬華も無口になるわけだ……)


 けれど、今みたいに自分の首を絞めるとは、考えなかったのだろうか……?


 たしかにこれは発見が難しい。


 それで晃に意地悪をできると思ったら、そんなこと想像もせずに実行してしまったのかもしれない。

 冬華ならありえる。


 そしてその結果が、あの恥ずかしい愛の告白だったわけだ。


 まさかあんな言葉が自分の口から飛び出るとは、冬華だって夢にも思わなかったのだろう。

 動揺して、「わ、わたし……わたし……」としか言えなくなっていた。


 晃は照れが半分、申し訳なさ半分で苦笑し、冬華の頭にぽんと手を乗せた。


「あー、だいじょうぶだって。おまえの本心は、よくわかってるから。悪かったよ、あんなこと言わせて」


 しかし実際は、晃が悪いというより、冬華の自業自得だろう。

 意地悪なことをするから、こういうことになるのだ。


(それにしても、場所を移動しておいてよかった……)


 もしもこれが寮のすぐそばとかの人が多い場所で、誰かに聞かれでもしたら――明乃がなにをしでかすか、わかったものじゃない。本当に助かった。


 そう、晃が安堵した、まさにそのとき。

 不意に聞こえた、どさっ、という物音。


 音のしたほうを見る。すると晃の視線と、目を見開いたクランの視線が重なった。


「く、クランさん……? どうしてこんなとこに!?」


 晃の声に、クランはびくっと肩をふるわせた。

 落とした鞄をあわてて拾うと、途切れ途切れに言葉をつむぐ。


「あ、その……わたし、天文部で。そこの観測所で活動をしてて……だから、でも、ご、ごめんなさい! その、聞くつもりはなくて……それで……」


 なにが言いたいのか、本人もわからなくなるほどショックなんだろう。


 無理もない。

 自分の好きな人が告白を受けていて、あまつさえ、その子の頭に手を乗せているのだ。


 状況、二人の言葉、どちらも誤解されてもしかたないものばかり。


「ち、違う! これは、その……」


 ぱっ、と冬華の頭から手をどけて弁明するけど、正直どう説明していいかわからない。


 バグを見られたときのことを考え、冬華のことを『手品師』とは言った。けれど、こんなのは想定外だ。


「と、とにかく、ごめんなさい!」


 クランは深々と頭を下げると、背を向けて走り去ってしまった。


(お、追いかけなきゃ! まずは『体力』を上げて追い付いて、それから『知力』を上げて、ええと……!)


 そんなことを考えながら、晃は駆け出し――踏み出した右足が、冬華によって地面に釘付けにされた。


「う、あっ!?」


 予想外の攻撃にうずくまると、憤怒の形相でこちらを見下ろす冬華と目が合った。

 その迫力に、晃の背筋を冷たい汗が流れる。


「あ、えと……」


「……マーシャ」


 冬華に呼ばれて、マーシャが姿を現した。


「了解している。事故アクシデントの発生により、適性検査を中止した。今は通常の会話が――」


「この、バカっ!!」


 マーシャの言葉を最後まで聞かずに叫んだ冬華は、再び渾身の踏み下ろしを炸裂させる。


「なんで、わたしが、あんなこと、言わなきゃ、いけないのよっ!?」


 一言につき、一度の踏みつけ。


 そのたびに晃は「うおっ!?」とか「ぐあっ!?」とうめいたのだが、冬華の攻撃は止まる気配もなく、合計で五回も踏まれた足はぼろぼろになってしまった。


 じんじんと痛む足をおさえて、晃は非難の視線を冬華に送る。


「だっておまえ……。ずっと黙ってちゃ、なにが症状なのかわかんないだろ? それで、おまえの反応が返ってきそうなことを――うぎゃおうっ!?」


 言葉の途中で振り下ろされた冬華の凶器(足)は、晃の手ごと足を撃ちぬいた。想像を絶する痛みに、晃は情けない声をあげてしまった。


 冬華も連撃で疲れたのか、肩で息をしている。


「だからって普通、あんなこと言う!? 信じられないわ、このバカ!!」


 なおも冬華の怒りはおさまらずに足を振り上げたところで、マーシャが「いい加減にしないか」と、たしなめてくれた。


 ここまで踏まれる前に言ってほしかった……そんなことを思わないでもなかったけれど、止めてくれただけ助かった。


「冬華よ。元はと言えば、あなたが不適切なバグを再現したからだ。我は忠告したはずだぞ?」


「で、でも……!」


「神尾晃がとった行動は、バグの検証方法としては間違っていない。それは、我が断言する」


 そこで言葉を区切ると、マーシャは晃に視線をうつした。


「適性検査は中断されたが、非常に優秀な結果だった。経験を積んでいけば、すぐにでも中級セカンダリデバッガーに昇格できることだろう」


「……そっか。ならよかったよ。がんばったかいがあったからさ」


 なにしろ、いろいろと手を焼かされた。

 もしもスイッチの力がなかったら、今頃どうなっていたか……。


 マーシャに褒められたことで、晃はすこし気をよくしていた。

 ようやく立ち上がり、どんなもんだとばかりに冬華を見下ろす。


 けれど――。


「……ずるい」


 冬華は一言だけ、ぽつりとつぶやいた。


 そしてそのまま、せきを切ったように感情のまま言葉を並べる。


「ずるいわよ! なんでもすぐにできて、きっと苦労なんかしたことないんでしょ!? がんばった? そんなの甘いわ! 世の中にはね、がんばってがんばって、それでもどうにもならなくて、くやしい思いをしてる人だっているのよ!?」


 今までのような嫌味とは、なにかが違っていた。


 もっと、こう……言葉ひとつにまで、たとえようのない重みが感じられたのだ。


 晃はなにも言うことができず、ただ冬華の言葉を聞く。


「あんたを見てるとね、思い出すのよ! なんで同じ名前なのに、あんたと『晃』は、こうまで違うの!? なんでもできるからっていい気になってるあんたより、あの『晃』のほうが、ずっとずっと、かっこいいんだから!!」


 ――同じ名前。


 晃は、ようやくわかった。


 冬華にとって神尾晃という名前は、『僕』だった頃の晃のものなのだ。


 なにをやっても普通で、得意なものなんてひとつもない。

 背も低く、コンプレックスだらけで歯がゆい思いをしていた、あの『僕』の……。


 きっと冬華は、晃が完璧だから嫌いなんじゃない。

 神尾晃という名前の人間が完璧だから、嫌いなんだろう。


 たしかにあの頃は、なにをするにもがんばっていた。


 けれどそれは自発的なものじゃない。がんばらないと、なにひとつとしてできなかったからだ。

 がんばって、がんばって……それでも『僕』だった晃は、人並みだった。

 冬華の言うくやしい思いなんか、それこそいくらでもしてきた。


 だから、『僕』は『俺』になった。


 どんなに手をのばしても、けっして届かなかったものをつかむために。


(そうだよ……。いったいそれの、なにが悪いんだよ!?)


 心から、そう叫びたかった。


 それを言ったら、自分がバグだと白状するのだと、わかっていても。


「ぐ……」


 出かかった言葉をどうにか飲み込み、晃はうめいた。


 冬華はうつむいていた。思いのたけを言葉にしきって。


 そのまま、お互いなにも口にしないまま数秒が過ぎ。

 やがて冬華は、晃に背中を向けてしまった。その背中に、マーシャが心配そうに呼びかける。


「冬華よ……」


「ごめん。ちょっとだけ、一人にして……」


 マーシャは一瞬だけ考えるような素振りを見せ、すっと消えた。


「お、おい、冬華……」


 この状況でなにを話したらいいか、そんなことはわからない。


 けれども、晃は冬華の名前を呼んでいた。なぜ呼んだのか、自分でもわからないまま。


 晃は一歩だけ踏み出すが、冬華に「こないで」と言われて、それ以上は動けなくなってしまう。


「……帰る。今日はもう、あんたの顔、みたくないから……」


 晃は怒ることも、謝ることも、慰めることもできず。


 ちいさくなる冬華の背中が見えなくなるまで、そこに立ち尽くしていることしかできなかった。



「……はぁ」


 冬華と別れたあと、寮に戻って食事を済ませた晃は、自室のベッドにうつぶせで倒れこんだ。


 なんだか今日は、こんなことをしてばかりな気がした。疲れた……。とても疲れた一日だった。


 明乃には捕まりそうになり、クランには盛大に誤解され、そして冬華とは――。


(ケンカ……なのかな。これは)


 ごろりと身体を転がして、天井をあおぐ。


 とはいえ晃は悪くないはずだ……たぶん。


 そもそも、冬華がわざと難度の高いバグを再現するからいけないのだ。

 晃がバグを見つけるためにとった行動の正当性は、マーシャも認めている。


 それなのに……。


『あの晃のほうが、ずっとずっと、かっこいいんだから!!』


 冬華の言葉が、耳から離れない。


 凡庸な『僕』を嫌い、完璧な『俺』になった晃にとって、凡庸な『僕』のほうが評価されているのは複雑だった。


 不思議、不可解といってもいい。

 冷静に考えて、『僕』が『俺』より秀でているところなど、まったくないのだから。


「くそっ……。わけがわからない!」


 ――そうだ。なんだかんだ言って、ただのひがみなんだ。


 自分が発見するのに手間取ったバグを簡単に発見されたから、冬華はそれがくやしいだけなんだ。

 証拠ならある。あの負け惜しみの言葉だ。


『……な、なによ。調子に乗らないで。これくらいじゃ、ぜんぜん認めないわよ!』


 バグの基本形式を当てたとき、冬華はいつものように嫌味を――。


 そこまで考えたとき、晃はふと気付く。


(待てよ。たしかあのときは、バグが発症してなかったか!?)


 まちがいなかった。あの言葉は、冬華がバグを再現したあとに言ったもの。


 だとすると、あれの本当の意味は……。


『……な、なによ。やるじゃない。ちょっとは見直してあげてもいいわよ!』


 そのことに気付いた晃は、冬華が自分をどう思っているのか、本当にわからなくなってしまった。


「なんだよ……。『俺』を認めるのか認めないのか、はっきりしてくれよ……」


 つぶやいた晃は、目を閉じる。

 全身を疲労によるけだるさが包みこみ、晃の意識は闇に沈むような深い眠りに落ちていった。

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