第4話 歪んだ世界
人目を避けるようにして寮の裏庭までたどりついた晃は、「ふう」と息をついてベンチに腰を下ろした。
白桜学園の学生寮は、男子寮と女子寮が同じV字型の建物の中にある。
V字の頂点が真南を向いていて、エレベーターのある正面玄関になっている。そこから右半分が男子で、左半分が女子の区画だ。
日当たりを考慮した寮の間取りは全室が南向きで、北側には廊下しかない。
地上十階、地下二階。全校生徒を収容する巨大な建物は、マンションやアパートというレベルを超えて、ホテルといってもいい豪華さだ。
願いの木がある裏庭は北側にあって、部屋の窓からは見えない。
さらに正面玄関からも遠いため、このあたりはとても静か。
周辺には他の施設もなく、驚くほど人の気配がしない。
たまに訪れる生徒がいるとしたら、今の晃のようにのんびりしたいか、願いの木の力にあやかろうとしているか、そのどちらかだ。
「それにしても、さっきは大変な目にあったな……」
緑の枝葉からのぞく、夕闇の赤に染まりつつある空と、ときおり聞こえる鳥のさえずり。
おだやかな雰囲気を楽しみながら、晃は牛乳パックのストローに口をつけた。
あの女の子のこともそうなのだけど、見世物のように見物人が集まっていたことには驚いた。
有名になってしまったことの弊害が、まさかこんな形で現れるとは。
(そりゃ俺だって、テレビに出てるような芸能人や歌手が口論してたら、なにごとかと思って野次馬になるだろうけどさ)
抜きんでた才能を持ち、注目されるというのは、こういうことなのか……。
自分がそこまでの扱いをされているとは、晃は思っていなかった。
あらためて、自分が置かれている状況を実感するのだった。
そして、冷静になった晃は、気付く。
あのとき、自分が感情をむきだしにしていたことに。
この学園に来て――いや、この姿になり、完璧な『俺』を演じるようになってから、はじめてのことだ。
「最低男、か……」
あまりに完璧すぎる晃への、嫉妬やねたみの言葉なのかもしれない。
そうした言葉や風評が、遠まわしに晃の耳に入ることはあった。
不幸の手紙なんてものをもらってしまったこともあるし、トイレの落書きで罵詈雑言を書きなぐられたこともある。
けれど、あの女の子は本音でぶつかってきていた。
壁を作るわけでもなく、真正面から。
(……いやいや。なに考えてんだよ、俺)
また会ったところで罵られるだけなのは、火を見るより明らか。
それなのに、もう一度会いたいとちょっとでも思ってしまうのは、まったくおかしな感情だった。
晃はずずずっと一息に牛乳を飲み干すと、空になった容器をゴミ箱へむかって投げた。
けれど、容器はゴミ箱のふちに当たって入らない。
「……やれやれ」
しかたない、といった感じで、晃はゆっくりと立ち上がる。
落ちた容器をひろってゴミ箱に捨てようとした、そのとき。
「ん? クランさん……?」
木立の向こうに、クランの姿が見えた気がした。
人違いかもしれないが、少なくとも彼女一人だったのはまちがいない。
なにかとやかましい、あの明乃の姿はないということだ。
なんとなく二人セットのイメージがあったので、クラン一人というのは珍しい。
もしかしたら今なら、彼女といろいろな話ができるかもしれない。
これは――またとない機会だ。
「……よし」
思えば、女の子から声をかけられることは日常茶飯事でも、こっちから声をかけたことは一度もなかった。
深呼吸。自分を落ち着かせて、晃はクランらしき生徒のあとを追った。
彼女は裏庭を奥へと進んでいく。
風になびくサラサラの金髪は、まちがいなくクラン・L・フォーテルだった。
晃がクランに呼びかけようとした、そのとき。
クランは、すっとその場に膝を折った。彼女の目の前にあるのは――願いの木。
教会で祈りをささげるように両手を組み合わせ、きつくまぶたを閉じている。
「願いの木さん。お願いがあります。……わたし、晃さんのことが好きなんです」
その言葉を聞いた晃は、反射的に手近な木の陰にかくれてしまった。
すっかり忘れていたのだ。この裏庭の奥に用があるとしたら、それは願いの木くらいしかないことを。
(聞いちゃいけないよな。やっぱり……)
もちろん彼女は、ここに晃がいるとは夢にも思っていないだろう。
今の彼女の告白は、晃に対してではなく願いの木に対してのものだ。
それならば、晃にはこの告白を聞く権利はない。
いくら晃の名前が出ていようと、これ以上の言葉を聞くことはただの盗み聞きでしかないのだ。
願いの木に背を向けた晃は、静かにその場を立ち去ろうとする。
だが、風に乗って聞こえてきた嗚咽に、晃は思わず振り向いた。
クランは背中をちいさく震わせ、涙ながらに言葉をつむぐ。
「……でも、わたし、明乃ちゃんのことも同じくらい好きなんです。なのに、このままじゃいつか、明乃ちゃんを裏切っちゃう……。だってわたし、もっと晃さんと仲良くなりたいもの! 恋人として、あの人のとなりにいたいの!!」
叫ぶような、悲痛な声。
夕焼け空を吹き抜けた風が枝をゆらし、うつむき丸まったクランの背中に葉を落とす。
「……ねぇ、教えて。わたし、どうすればいいの……?」
「クラン、さん……」
知らなかった。
クランがそんな気持ちで晃と、そして、明乃と接していたなんて。
晃に寄せる好意が憧れではなく、恋愛感情に近いものだってことは気づいていた。
だけどそのために、クランがここまで悩み、苦しんでいたことは……。
もしもクランと親しくなったら、彼女は今以上に苦しむことだろう。
それでも声をかけるべきか、否か。
伸ばした手が、悩みで止まる。
――そのとき。
「ん? なんだ……これ?」
指の先。そこに、一枚の木の葉が宙に浮いていた。
いや。正確には、空中にぴたりと張り付いたように停止していたのだった。
おそるおそる指でつついてみるけれども、まったく動かない。
首をかしげながら指で押してみると、ゼリーを押したようなやわらかい抵抗で、ずずっと横滑りした。
「な、なんなんだよ……。おかしいだろ、こんなの……!?」
底知れない不気味さを感じた晃は、おもわず周囲を見回した。
するとこの一枚どころか、いたるところで同じように木の葉が空中停止している。
「……木か? あの木がおかしいのか!?」
振り仰いだ晃はそこに、さらにありえないものを見た。
さっきまで夕焼けで赤く染まっていた空が、雲ひとつない青空に変わっていたのだ。
しかもその色は、ペンキで塗ったようなのっぺりとした濃密な青。
真夏なら青が鮮やかに見えるが、それでもこんな色にはならない。
一言で表現するなら――異常な青だった。
知らないうちに異世界にでも迷い込んでしまったような恐怖に、「ひ……」と、絶叫がのどまで出かかったとき。
「あっ!?」
という別の声に、晃は振り向く。
そこには、さっきぶつかって牛乳をかけてしまった女の子が、驚きに目を見開いて晃を指差していた。
「う、動いてる? この……
その言葉から、晃は直感的にこの子はなにかを知ってると感じた。
今にも出そうになっていた叫び声をなんとか飲み込むと、すがるように切実な声で女の子に疑問をぶつける。
「おまえ、なにか知ってるのか? 教えてくれよ! いったいなんなんだよ、これ!?」
けれど、女の子は困ったように視線をそらしてしまう。「あ、えと、これは……」と、もごもごと言葉を濁すのだった。
「あー、もう!」
業を煮やした晃は彼女に詰めよろうとする。
すると女の子のとなりに、女性の姿が突如として現れた。
「う、うわっ! なんだ!? いったいどこから!?」
驚く晃をちらりと一目見たその女性は、女の子に視線を移して口を開く。
「教えてあげてもいいのではないか?
長身で、髪をアップにした、スーツ姿の知的な印象の女性。
社長秘書のような清廉とした雰囲気をただよわせているが、その口から出てきたのは、固い口調と低くおさえた声だった。
その言葉に、女の子はいやそうに口をとがらせる。
「うー。で、でも……」
女性は「困ったもんだな」とつぶやいて女の子に向き直り――晃は、再び驚くことになった。
彼女の身体は紙のように薄く、正面と後ろ向きしかないのだった。
パネルのように、まったくの平面。それがくるりと九十度回転したのだった。
驚きのあまり、金魚のように口をぱくぱくさせている晃を気にもせず、彼女は諭すように女の子に語りかける。
「あなたがこの子を嫌っているのは知っている。だが、それは個人的なこと。我らの仕事を放棄する理由にはならない。……違うか?」
「……あー、はいはい。わたしの負けよ。マーシャの言うとおりです」
わざとらしく両手をあげて降参の意思表示をした女の子は、「……ふぅ」とちいさくため息をつくと、視線をするどくして晃を見すえた。
「いい? いきなり言われても信じられないと思うけど……今、この周辺は時間の流れが止まってるの。『バグ』によって起こった、
女の子は地面に落ちていた小石を拾い、目線の高さまで持ち上げると、手を離した。
「つまり、こういうこと」
小石は地面に落下せず、その場にぴたりと停止した。あの木の葉と同じように。
「どう、わかった? 時間が流れないから、すべての運動も止まるわけ。で、あの空の色は、通称ブルーバック。ここが通常の時間軸から隔絶された、言ってみれば別の世界に来てしまったことの証拠よ」
いまだ謎の平面女性のショックが抜けない晃だったけれど、目の前で行われた実験に、ようやく思考が再開され始める。
「ちょ、ちょっと待てよ。それじゃ、なんで俺やおまえは動いてるんだ? おかしいじゃないか?」
それに答えたのは、女の子がマーシャと呼んだ平面女性だった。
マーシャは再び晃に向き直り、その正面の姿を見せる。
「それがすなわち、『バグ』を修正する者――『デバッガー』たる素質があるということ。バグの干渉を受けず、客観視し、修正することができる者。それが我ら、デバッガー」
「バグ……? バグってあの、コンピュータに起こるあれか?」
マーシャは表情ひとつ変えず、ちいさく首を横に振る。
「世界もまた、さまざまな
「世界の、異変……」
晃は空を見上げた。異常な青。異常な世界。
これは確かに、世界そのものが壊れてしまったとしか考えられない。
――だけど。
(スイッチ……オン!)
晃は心の中でつぶやくと、『魅力』の値を現状のまま、『体力』を下げ『知力』を引き上げて再設定。
これで今の晃は虚弱体質となった代償として、IQ180の知能の持ち主となった。
気付いてしまった、いくつかの可能性。
それらを検証するため晃の頭脳は驚異的な速さで回転。
自分の望む答えを引き出せる会話の流れを、瞬時に形成していく。
相手の不確定要素を変数Xとした上で、式を構築。
おおよその状況を想定終了。すべて誤差の範囲内と断定。会話――開始。
……しようとしたところで、晃は言いようもないもどかしさに駆られた。
「どうして人間という生物は、テレパシーを使えないんだろうな?」
「は……はい?」
突然のことに、女の子はうわずった声をあげた。
それに構わず晃は続ける。
「ああ、面倒だ。しゃべるのもエネルギーを消耗するし、かといって筆談も疲れる。こうして立っているだけでも、刻一刻とエネルギーを消費しているというのに。非効率はダメだ。効率的にいこう」
晃はちらと視線を向ける。
その先にあるのは、願いの木を囲むように置かれたベンチ。
(距離算出。移動に要する
このまま立ち話をした場合と、移動をしてでも座って話をした場合、果たしてどちらがエネルギーの消費を抑えられるのか……?
一瞬にしてその答えを導き出した晃は、女の子に目もくれず歩き出した。
「ちょ、ちょっと! どこいくのよ!?」
「俺は座る。そのほうが効率的だからな」
背中からかけられた声に、振り向きもせず答える。
まるで水の中を歩くようにゆっくりと、実にゆっくりと足を進めた晃は、ようやくといった感じでベンチに腰を下ろした。
(まったく……。なんて身体だ! いつものことだが、鉛のように重いぞ……!)
今の晃の体力は、まったくのゼロに近い。
百歳の老人のほうが、まだ元気かもしれないというほどだ。
「ふぅ……」
「なによ、疲れたの? まったく……だらしないわね」
しぶしぶ、といった感じでついてきた少女が、腕を組んでそう言い放った。
「うるさい。これが最適な方法なんだ。……それより、だ。ちょっとだけ聞いていいか?」
「ええ、いいわよ」
「その、デバッガーだったか? それの素質とは、いったいなんだ? なにか特別な才能があるとか、そういうことなのか?」
晃の問いに、女の子は目を閉じて「うーん」とうなった。
「なんだっけ……? わたしもあんたと同じで、
「……一概には断言できないな。だが、バグに対し……つまりは世界の異変に対し、敏感な人間というのが定説だ。デバッガーの大多数が、感受性の強い思春期の子供であることからも、これはそう間違いではないだろう」
――可能性、その一。
本当にデバッガーの素質があるケース。
思春期というだけなら、この学園の生徒すべてだってそうだ。
確証を得るには、いまだ情報が不足しているが……それは向こうも同様らしかった。
だが、これはさして問題ではない。
真偽はともかく、晃に素質があると相手が思っていること自体が、今は重要だった。
本当に検証すべきなのは、残る二つのケース。
この検証を一時保留。次の可能性を検証開始。
晃は「そう、か……」と意図的に言葉を濁し、思案顔を作って話し出す。
「いや、もしかしたらだぞ。俺のせいでこんなことになってるんじゃないのか……と、そんなことも考えたわけだ。もしも俺が張本人なら、このなかで動けてても不自然じゃないわけだからな」
すると、女の子は「ああ、それはないわ」と即答した。
「このバグを起こした原因は、すでに見当がついてるもの。あんたじゃないわよ」
――可能性、その二。
無意識のうちに、晃がこのバグをひき起こしたケース。
これは完全に否定された。
もっとも、晃自身もこの可能性は低いと思っていたが。
もしも晃が張本人だとすると、デバッガーの素質があるとは言わないだろう。
まずまっさきに、なんらかの追求をされるはずだ。
バグを修正するのがデバッガーだと言うから、その修正というものをされるかもしれない。
と、なると。最初に思いつき、最重要の検証が必要な、最後のケース。
どうやら事態は、晃の予測したとおりの展開を見せ始めた。
しかしそれを確かめるにはまず、バグの性質を知る必要がある。
晃は巧みに会話の流れを変えていく。
「本当か? それならいいんだが……。それじゃ、なぜこんなことになってるんだ?」
「それは……あれよ」
女の子が、すっ、と指差した。その先には――。
「願いの木……? あれが原因なのか?」
「そうよ。バグってのは、人の強い思いが世界の
願いが叶うと言われている、この願いの木。
どれだけの生徒が信じているかわからないが、十や二十ということはないだろう。
さらにそれが何年、何十年と語り継がれているとしたら……。
それは普通ならまず信じられない、突拍子もない話。
けれど、こうして普通ではない世界のただ中にいる晃には、その話を信じる以外なかった。
なによりも晃自身、すでに突拍子もない力を持っているのだから。
(判断材料は……すべてそろった!)
――可能性、その三。
晃はこのバグを起こしていないが、すでに別のバグを起こしているケース。
つまり――スイッチの力こそ、バグだったのだ。
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