第3話 牛乳と少女と記憶の糸
「……でも、どうしても、これだけはやめられないんだよな」
寮の地下にある購買。
その一画に設置された自販機のボタンを、晃は押した。
がこん、と出てきたのは、紙パックの牛乳。
少しでも身長を伸ばそうと毎日飲み続けていたら、いつの間にか好物になってしまっていたのだった。
今ではもう、一日に一回は飲まないと気がすまない。
自販機の口から牛乳を取り出した晃は、ご機嫌で容器にストローを刺す。
手にしたら飲まずにはいられない――そんな気分だった晃は、歩きながら飲むことにした。
と、そのとき。
「……おっと」
どん、と、なにかにぶつかった衝撃と、視線のはるか下、胸の下あたりから聞こえた「きゃっ」という女の子の声。
見下ろすと、まるで小学生のようにちいさな女子生徒が、そこにいた。
晃の半分……というのは、さすがに言いすぎか。
けれど晃には、それほどちいさく感じられた。
本来の晃の身長と比べても、余裕で晃のほうが高いだろう。
しかもどうやら、ぶつかった拍子に牛乳がこぼれてしまったらしい。
ほとんど真上を見上げるようにして晃をにらむその顔は、運悪くふりかかった牛乳でべとべとに汚れていた。
「あぁっ、お、俺の牛乳! くっそー、もったいない……」
心から残念そうにつぶやく晃。
するとその子は自分の顔をふくよりも先に、晃の足をげしっと力任せに踏みつけてきたのだ。
ちいさな身体に似合わぬなかなかの破壊力に、晃は「い、いってー!」と悲鳴をあげてしまった。
「お、おまえ……なにするんだよ!?」
「それはこっちのセリフよ! まったく、信じらんない! 人の顔を汚しておいて、謝りもしないで自分の心配するなんて……!!」
女の子は顔を牛乳まみれにしたまま、まだ幼さが残る――というより、まんま幼い、くりくりの瞳をつり上げて怒っている。
子供のように柔らかそうな髪の毛が無事だったのは、不幸中の幸いだろう。
しかし、まったくもってこの子の言うとおりなのだけど、足を踏まれた恨みもあって、素直に謝る気などまったくない晃だった。
「あぁ、悪い悪い。この高さからじゃぜんぜん見えなくてさ。人がいるなんて思ってなかったから、ついびっくりして」
そう言いながら、挑発するように肩をすくめる。
頭に血が上っていた晃だったが、口に出してしまって急に冷静になる。
(……そういや俺、同じようなことを言われて傷つかなかったか……!?)
それは、『僕』だったころの『俺』が、確かに感じていたこと。
だけど今なら、そんな言葉を吐いた相手の気持ちもよくわかった。
これだけの伸長差があると本当に見えないのだ。
相手の立場になってみて、初めて実感できることもある。
今の晃にはなんてことない言葉でも、昔の晃――そして、目の前の女の子にしてみれば、ひどく心を傷つける言葉なのだ。
「あ。ち、違う。今のはちょっとした言葉のあやで……」
けれど晃の謝罪もむなしく、女の子の瞳はさらに険しくなっていき、全体重を乗せた渾身の踏み下ろしが二度三度と炸裂した。
「ぐ、ぐあっ!?」
たまらずうめき、足を抱えてその場にかがみこむ晃。
この体勢になってようやく、晃が彼女を見上げる形になる。
とはいえそれも、頭ひとつくらい高いだけ。
女の子は勝ち誇ったようにすました顔で晃を見下ろしながら、ようやく顔の牛乳をふく。
「あんたが神尾晃ね? ちょっと頭が良くて、ちょっと運動ができて、ちょっと背が高いからって、調子にのってるんじゃないわよ。そうやって人を見下ろしてばかりだと、いつのまにか性格もゆがんじゃうのかしら? うわさどおりの最低男ね!」
「な……なんだって!? そんな失礼なこと、初対面のやつに言われたくない……って、あれ?」
晃はふと、女の子の顔に見覚えがあるような気がした。
かがんだまま彼女の顔を見つめて、記憶の糸をたどる。
けれども、脳裏に浮かぶ記憶はどれもこれもぼんやりとしていて、なかなかはっきりとした像を結ばない。
「……な、なによ。そんなにじっと見て。気持ち悪いわね」
顔をしかめた女の子は、じりじりと逃げるようにあとずさる。
「え? あ、いや、これは……」
晃はしどろもどろになりがなら次の言葉を探したが、いいのが出てこない。
(どこかで会ったことない? なんてのじゃ、まるでナンパしてるみたいだし……)
もしも『知力』が高く頭の回転が早ければ、また状況は違っていたのかもしれないけれど、今の晃は『魅力』を上げているだけ。
ふたつのパラメータを同時に上げると、残るひとつはほぼゼロになってしまう。『体力』がゼロ。それはすなわち、虚弱体質だ。
それだとすぐに疲れる身体になってしまうので、いつもは『知力』を
状況に応じて『スイッチ』を入れることで完璧を演じる晃も、こうした突発的な事態には弱い。
今からでも『スイッチ』を入れなおして、『知力』を上げるべきか……?
案の定。こうして迷っている間に女の子は「ふん」と視線をそらし、晃の横をすりぬけるようにしていってしまった。
「あ……」
つぶやくような晃の声は、すたすたと歩いていく彼女の背中には届かない。
(……なんか気になるけど、まぁいいか)
確かにどこかで見たことがあるはず。
けれど、どうしても思い出せないものはしかたない。
あきらめて、晃が立ち上がると……。
背後から聞こえる、あの女の子の「あっ!」という声。
振り向くと、女の子が自販機のボタンに指をのばしたまま固まっていた。
「お、おい。どうしたんだよ?」
その場に戻った晃が目にしたもの。
それは、牛乳の販売ボタンにのびた女の子の指先と、その先に赤く光る〝売り切れ〟のランプ。
さっき晃の買った牛乳が、どうやら最後のひとつだったらしい。
女の子は油のきれた機械のような、ギギギと音がしそうなぎこちない動きで首だけ回すと、うらめしそうな顔で晃が手にした牛乳パックを見つめた。
その表情と牛乳を交互に見やり、晃はおそるおそるたずねる。
「えと。おまえも牛乳、飲みたかったのか……?」
女の子はなにも答えない。
けれど、残念そうに下がった眉と瞳が、なによりも彼女の気持ちを表している。
それは晃に、まるでちいさな子供をいじめたような罪悪感をあたえた。
「あ……その、なんだ。これでよければ、あげるから……」
精一杯の優しさのつもりで、晃は手にした牛乳を差し出す。
でもそれは、まったくの逆効果だったようだ。
女の子の瞳は再び烈火のごとくつり上がり、本日何度目かもわからない踏み下ろしをくらわす。
「あうっ!?」
「そんなのいらないわよ! バカっ!!」
足に杭でも打たれたように痛みで動けない晃を尻目に、女の子は今度こそ去っていった。ちいさな肩をいからせ、のしのしと。
その姿からは怒りがにじみ出ているのか、海が割れたという伝説のように、彼女の進む先には人垣が割れて道が現れる。
(……え? あれ、いつの間に!?)
そう。晃の周囲には、いまやちょっとしたひとだかりができていた。
それもしかたのないこと。
有名人である晃が、こんな目立つ場所で言い争いを始めたあげく、醜態までさらしているのだ。
十人は軽く越えると思われる見物人たちは、次々とひそひそ声でささやきあう。
内容までは聞き取れなかったけれど、十中八九良い内容ではないだろうと思われた。
「あー、こほん」
わざとらしくせき払いをし、取り囲む生徒たちをぐるりと見回す。
それだけで、ささやき声がぴたりとやんだ。
今がチャンス――晃は、逃げるようにその場を去るのだった。
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