第2話 彼女
下肢に力をこめて、ベッドから足をおろす。
触れた足先は冷たさと共に、わずかな弾力を返した。それは、どこか遠くに見た、病室を思い起こさせる。
そう――この思い起こすというものは、どこからやってくるのだ。色という認識、その名前の色がいったいどんな三原色の混合でしめされたものなのか、また、天井、壁、ベッド、サイドボード――それらの名前を、僕はいったいどうして知っているのだ。
ヒトは産まれてからの教育や経験で、それらの物事、知識、認識を得ていくと言われているが、本当だろうか。まず、言葉さえわからないのに、その言葉の理解はいったい、どこから来るのだ。
それとも、ヒトの脳には、最初からそれらの膨大な情報が格納されていて、それを引き出していくだけの事を、教育だ知識だと呼んでいるだけなのか。ならば、頭が良いという解釈は、その格納庫からのピッキングに長けているだけなのか。もしくは、鍵のかかった引き出しの錠を解く術を知ることが勉強なのか。
天才と呼ばれるものは、はじめから脳に、鍵がかかっていないのか。それとも――自前で鍵を精製し持ち得る者が、天才なのか。
ならば――。
僕は一度、溜まる息を吐き出し、その反動で、乾いた空気を吸い込んだ。そして、世界に結論を出す。
――ならば、僕は天才ではない――
なぜなら、僕は僕が誰なのかさえ、わからないのだから。
天才なら、自分が何者かなどと悩む事はしないだろう。わからないままで気にしないはずだ。
世界への結論を浮かべた瞬間に、天井のどこかから、ふやけた音の羅列が染みだしてきた。
それは音楽という――けれど、曲名などは思い出せなかった。それを紐解く鍵を持っていなかった、そういう事だろう。音楽にはインストゥルメンタルと歌があるくらいはわかったし、このふやけた音――音楽には、きっと声が続いて、歌になるのだという確信……いや、希望があった。
だが、一介の望みは打ち砕かれるよう、僕の構築した世界では決まっているらしい。
僕の耳で溶けたのは、歌声ではなく、寒風の、しかし有機的な独特のニュアンスとトーンを持った、声だった。
「覚醒を確認……身体に異常ない場合、そちらへ誘導します」
声の方へ、僕は顔を向けた。上下に真っ白な、東南アジアあたりの民族衣装を想起するセパレイトの長衣を身につけた女性が立っている。体のライン、そして声色から女性だと僕は位置づけたが、もうその認識が正しい世界だったか、意味をもつ世界だったかは、曖昧だった。それよりも、声のニュアンスに僕は訛りを聞き出していた。しかし、それはこの場で彼女が操る言葉が自然で、僕の存在が訛りを感じ取る地域の出身であるせいなのかもしれない。
「意識の混濁はありませんか?」
「あ、うん……」
答えてみたものの、そもそも意識が混濁しているという状況がわからない。意識も、どこを正常とするかでそれはかわってしまうのだ。異常ではなく、何も思い出せない今をニュートラルとするなら、僕は正常である。
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