四十五


 目を細めると雨の間に薄らとトオキョオが見えた。

 それは湖の底から散り散りになった雲を眺めるように、不確かで見逃してしまいそうな姿だった。そしてそのトオキョオの足下には、昨日見つけられなかった目印があった。渦模様の唐傘は今日も華麗に回っていた。


「陽都、田中が来てる。早く行こう」


 武清さん、亜紀さんとも一緒に行きたかった。

 武清さんが坂道を上がってこないだろうか。亜紀さんが後ろから追いかけてきてくれないだろうか。

 私はそんなことを思いながら陽都の手を引き坂道を下った。

 顔に髪の毛が張り付き、着物の袖が重くなった。今頃、気象会に苦情が寄せられているに違いない。きっと電映機の画面には『二十年ぶりに外れた気象会の予報』みたいな字幕が浮かんでいるのだろう。

 振り返ると陽都は濡れた前髪を払い、雨に目を細くしていた。胸に抱いた紙袋は必死に雨を弾いていた


「だい、じょうぶ?」


 私は吐く息に乗せて言った。


「大丈夫」


 陽都は頭を振り、雨雫を振り払った。


 私は頷き、陽都の手を握った。



 牧野帳公園の入り口で私たちを待っていたのは沙織だった。

 沙織は、私たちを見つけると唐傘を通りの端に放り駆け寄ってきた。


「心咲ちゃん!」


 あまりにも勢いがあって、あまりにもきつく抱きしめられたので、思わず女の子らしい驚きの声を上げてしまった。


 沙織は今日も良い匂いがした。ヒマワリに甘さを加えたような誰でも嫌いになれない香りだった。


「良かった。伝言がちゃんと届いて伝わってるか心配だったの」


 沙織は私から離れると陽都に向き合い手を広げた。


「あっ。心咲ちゃんに怒られちゃうね」


 沙織は、にたりと横目で私を見ながら広げた手を下ろした。


「どうして、私が怒らなきゃいけないのよ」


「ほら、もう怒ってるし」


 目を細くすると、沙織と一緒に陽都まで笑った。


「楽しそうですね」


 後ろから聞こえた声に振り返ると田中が立っていた。

 白い巾着がなかっただけで、一昨日会った時と同じだった。最流奴の地紋が入った黒い羽織に杜若色の化矛雪駄。


「ずっとそこの木の下にいたのですけどね。気づいてもらえなくて残念です」


 田中は唐傘をくるりと回しながら閉じると、居住まいを正し私を見て、陽都を見た。そして、私たちの方へ一歩前に出ると深く頭を下げた。髪の毛が生き物のようにするりと肩から流れ落ちた。


「申し訳ありませんでした。昨日はのっぴきならない事情がありまして、約束を守ることができませんでした。心咲さん、美成くん」


 頭を下げる田中に私はなにも言うことができなかった。


「美成くん。不安にさせてしまいすみません。ですが、ご安心を。遅れ雲が一つこうしてやってきました。間に合います。いつになるかわからない次を待つことはありません」


田中は陽都の頭の上にすっと唐傘を寄せた。


「田中……」


 沙織は唇を曲げて田中を見た。


「檀。それにアサガオも来ちゃってるよお」


 マユミ、アサガオ?


「少々急がなければならないようです。行きましょう」

 訊きたくても訊くことができなかった。田中は歩き出し、沙織は困り顔のまま私の手に唐傘を握らせた。

 


 沙織は牧野帳公園をあちらへこちらへと駆け回った。田中はそんな沙織の様子を真剣な面持ちで見つめていた。一体なにをしているのか、そんな私の疑問を陽都が代わって口にしてくれた。


「探しているんです」


 探して、いる?


 陽都と目がぶつかった。私たちは同時にたぶん同じくらいの速さで目を瞬かせた。そんな私たちを見て、田中は小さく「あっ」と声を出した。


「失礼。言葉が足りませんでしたね。雨の隧道を探しているんですよ、鈴木は」


「沙織が?」


「ええ。鈴木にしかできないことです。今は。一見こうして見ると適当に駆けているように見えますが、鈴木はああやって雨の隧道の匂いを探しているんですよ。雨の隧道はその時々で場所を変えるんです。だから、探すのには少々時間がかかります」


 匂い……。

 探し物の専門家。武清さんの推測どおりだ。沙織は一才の嗅力を持っている。もしかすると、一才以上の嗅力なのかもしれない。


「今日の鈴木はそれなりに元気そうですから、それほど時間をかけずに見つけてくれることでしょう」


「田中!」


 遠くから沙織が叫んだ。


「後ろから! アサガオ」


「困りましたね」


 田中は全然困っていなさそうな顔でそう言った。


「あの、田中さん。さっきも沙織が言ってた、そのアサガオって言うのは?」


「もうまもなくわかりますよ」


 田中は人差し指で宙を叩いた。


 沙織は足を止めなかった。端から端へと一人牧野帳公園を駆けていた。雨は変わらず優しく、しっかりと地を濡らしていた。トオキョオは雨を濁すようにまだそこに浮かんでいた。


「心咲さん、美成くん。これからなにが起ころうとも僕たちを信じてください」


 田中は深く息を吸い込むと、目を閉じゆっくりと吐いた。そして、唐傘と一緒にくるりと振り返った。


 赤い羽織に桔梗色の羽織。


 錠護守が六人、いや七人。そして薫が一人。鮮美な集団は私たちを目がけるようにずかずかとした足取りでこちらへと向かっていた。


「田中! こっち!」


 沙織は化矛の木が並ぶ遊具場の前で大きく手を振っていた。


「行きますよ。駆けます。二人が先に行ってください。距離を空けず寄り添うように」


 私は頷いた。


「心咲」


 陽都は私の手を握った。驚いて目を丸くする間はなかった。私は陽都に手を引かれ手を振る沙織を目指した。

 

 ――――待て!


 後ろから聞こえた怒声は駆ける足に力を与えた。

 沙織は顔に黒い布を巻いていた。顔まで黒ずくめのその出で立ちはまるで盗賊かなにかのようだった。

 沙織のもとに辿り着くと、田中も着物の隠しから沙織と同じような黒い布を取り出し、目だけを残して顔を覆った。

 

 けむりか!

   止まれ!


「うるさいね。ほんと」


 長い睫毛と布のせいで沙織がどんな表情をしているのかわからなかった。


「はるくん。よく見て」


 沙織は腕を真っ直ぐ前に伸ばした。あのときの傷はすっかり消えていた。


「私が合図したら今私が差している方向へ駆けて欲しいの。そうね。あの遠くに見える大きな木。わかる? あそこに向かって思いきり駆けて」


「そこに雨の隧道があるの?」


 沙織は指先で私の唇に触れた。


「ううん。そこにできるの」


 できる? 私は眉間に皺を寄せた。


「そう。雨の隧道はあたしと同じで落ち着きがないのよ」


 沙織はちろりと舌を出した。


 なんだかわからなすぎて、私は微笑む沙織をただ見つめていた。


「美成くん。気をつけて。と、いっても特に気をつけるべきことはありませんが。出会えたことに感謝します。美成くんから聞いたトオキョオの話には本当に胸が騒ぎました。また、いつか会えることを楽しみにしています」


 田中は小さく頷いた。


「心咲ちゃん。はるくん、行くよ。これが最後だよ」


「うん」


 最後。

 そうわかっていても私はまったく実感が持てなかった。それよりも、この胸が慌てる今の状況に私は奪われていた。


「心咲さん。美成くん。ここからはただ俯いていてください」


 田中は真っ直ぐ前を見て言った。

 その目の先には肩を揺らした錠護守と薫が立ち並んでいた。

 どうして息せき切っているのか。どうして、酷く威圧的な目をしているのか。


「けむりだな」


 薫が言った。


 瞼の上から額にかけての傷。あのときの……。地下市場で見たあの薫だった。


「就縛する」


 薫が一歩前に出ると、錠護守たちも同じく一歩足を踏み出した。


「この状況で? 就縛?」


 田中は笑った。そして――――

 突然のことになにがなんだかわからなかった。田中に乱暴に引き寄せられ、首筋に冷たく硬い物が触れた。横に目をやると、短刀を握った沙織がその刃を陽都の首元に立てていた。


「下がらなければ、命はない」


 沙織の声とは思えない低く力強い声だった。

 私の首にあたっているのも短刀なのだろうか。その冷たさにぐっと首筋を押された。

 薫を見ると目がぶつかった。あのときよりも目は鋭利で、脅迫的だった。私は目の逃し場を見つけられずきつく瞼を閉じた。


「あかおびだな?」


 薫のその言葉に錠護守は一斉に刃銃を抜いた。


「忘れてはいないだろう。もう一度繰り返したいのか? これが最後の忠告だ。刃銃を戻して、下がれ!」


 耳元で響いた怒声に体がびくりと震えた。


 薫は地に唾を吐いた。


「下がれ!」


 田中の声に薫は舌打ちをしながらも、言われたとおり後ろに下がり刃銃を下ろした。錠護守たちもそれに倣い、私たちとの間に距離を空け刃銃を収めた。


「下手なことはするな。このままここで退けば人質は解放する。向こうの錠護守も下がらせろ。早くしろ!」


 薫は内隠しから携帯電声を取り出した。そして、一言「下がれ」とだけ言った。


「約束は守れ。人質を解放しろ」


「約束は守る」


 田中の手が緩んだ。


 私は放られるように田中の後ろへと手で払われた。沙織は陽都に短刀を立てたまま私の側に来た。

 田中の手にあったのは刃銃だった。錠護守のとは違い銃身の短い小型の刃銃だった。


「心咲ちゃん」


 沙織は小声で言った。


「時間よ。今から三十秒後」


 沙織は短刀を下ろし、陽都を離した。そして、私たち二人に後ろを向くように言った。


「人質を解放しろ!」


「約束は守ると言っただろう!」


 田中が叫んだ。


「心咲」


 陽都の掌が私の手の甲に触れた。


「本当に、ありがとう。心咲に会えて、よかった」


「私もだよ。陽都に会えて、本当によかったと思ってる」


 自分でもびっくりするほど落ち着いていた。こんな状況の中で、これが最後の瞬間だというのに、私の胸は水を打たれたように静まっていた。


「なんかこんな慌ただしい別れになるなんてね」


 陽都は困りながら笑っているような、そんなどちらともとれない表情をしていた。


「本当にね」


「心咲。いつか、また」


「うん。いつか、またね」


 それはとても簡単な挨拶だった。いつかがすぐに訪れるような、そんな。


 ――――はるくん。今よ


「はる――――」


 陽都は駆けだした。真っ直ぐに沙織が示したその場所へと。


「心咲ちゃん。離れて」


 沙織に突き飛ばされ、私は尻餅をついた。

 沙織は陽都の背中に向かって黒い筒のようなものを投げた。ばちりと火花が弾け、煙が勢いよく吹き出した。

 雨に打たれた煙は深い霧のように辺りに霞を広げた。陽都の姿はあっという間に霞の中へと見えなくなった。陽都を追うように沙織もその向こう側へと消えた。


「動くな!」


 田中の刃銃の先が私の頭をこつりと打った。


「人質は解放する」


 田中は私に刃銃を向けながら、ゆっくりと後ろへ後ろへと下がっていった。そして、田中も霞の中へと消えていった。


 

 霞が晴れると、そこには誰もいなかった。

 いつもののどかで穏やかな牧野帳公園が冗談みたいに広がっているだけだった。

 私は錠護守の腕の中でその見慣れすぎた景色に目を細めた。

 けれど、どれだけ目を細くしても、そこにはもう、トオキョオの空さえ見つけることはできなかった。


 

  了

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