四十四
私は待った。
陽に赤味が加わり、虫の声が減っていった。
アメコルは寝息すら立てず私の手の中で眠っているだけだった。
気象会の報道番組でも雨という言葉は一度しか出てこなかった。
『明日からは雲一つない快晴が続き、今後しばらくの間雨に注意する必要はないでしょう』
武清さんと一緒に陽都も私を家まで送ってくれた。
赤橙の空と安い綿菓子みたいな薄い雲。細く長く伸びる影とぷいいと鳴る豆腐売りの喇叭の音。
終りかけた夏を引き戻そうとしているような夏らしいその光景には、ほんの一滴でさえ雨が入り込む余地はなかった。
「心咲。信じることは待つことでもあるから」
私は空を見上げ、わざとらしく溜息を吐いた。
「見るべきものは空だけではないだろう? 陽都くんがいて、僕もいる。由衣清さんも側にいる」
武清さんは私の肩をぽんと叩いた。そして、もう一つ。私の肩に伸びたのは陽都の
手だった。
「ありがとう、心咲。正直、不安はあるけど、その時が来るまで相原を満喫しようと思うんだ。だから、それまで相原のこと、たくさん教えてよ。『相原見聞録』だってまだ完成してないしね」
陽都は親指を振った。
陽都を見て誰がドグだと気づけるだろうか。
仕草も甚平羽織の着こなしも学校の男の子たちと変わらない。
「それじゃ、陽都くん。僕たちはこれからお菓子でも買い込んで男同士朝まで語り合うとするか」
二人の後ろ姿が家々の影に溶け始めてから、私は二つの背中に手を振った。
* * *
天気予報のお姉さんは、喜びを隠すことなく嬉しそうに明日からの晴天について語っていた。そのお姉さんと同じくらいおじいちゃんも明日からの天気に嬉しそうにしていた。
「雨は人の胸まで濡らすからな。この雨続きからもやっと解放されるか」
「人によるでしょ。そんなの」
私にとって、雨は喜びで癒やしだった。
私はおじいちゃんに聞こえないようにぼそりと呟いた。
「トオキョオが消えても早起きは続けるんだぞ」
「できたらね」
私は、番組をおじいちゃんの嫌いな御笑いに変え、食べ終えた茶碗と皿を流し場に運んだ。
雨が一日でも早くやって来ますように。
布団に潜ると、私はアメコルを握り空神様にそう願った。
『私を信じて。アメコルを信じて』
紙片に記されていたエイゴが薄闇に浮かんだ。
お尻のような胸のような形をした文字から始まるエイゴ。
陽都はビリイブミイ。ビリイブアメコウ。そう読んだ。ということは、そのお尻的な胸的な文字はビと読むのだろうか。それともビリだろうか。ビリイはないような気がする。
沙織は田中が言っていた相原に一人いるというドグからエイゴを教えてもらったのだろうか。変わった人であるようだけれど、私にも教えてくれないろうか。相原とトオキョオを自由に行き来できるその日に備えて。
アメコルが鳴り出すのではないかという淡い期待と後を絶たない考え事のせいで、眠りに落ちたのは鳥の鳴き声が聞こえ始めてからだった。朝が来たと思うと、鍋で蕩ける牛酪のように体から力が抜けていった。
私はアメコルに手を伸ばし、夢の中へと落ちていった。
* * *
目を覚ましたと同時に慌てた。
アメコルは鳴らなかっただろうか。今何時なのだろうか。私は蛙時計を掴もうとしてアメコルを取り、アメコルを置いて蛙時計を探した。
『ゴゼンハチジサンジュウイップン』
全然眠っていないのに、頭の中は二日分眠ったようにすっきりとしていた。
おじいちゃんは掃除をしているようで、ガアガアと喚くような掃除機の音が廊下から聞こえた。
私は起き上がり、窓帷を払い窓を開けた。外は燦々とした陽の光で満たされ、雨の雫が落ちた形跡も落ちてくる気配もなかった。気象会の予報はここ二十年間ほぼぴったりと当たっている。そう、荒木県武則さんは言っていた。口から漏れた細い溜息はなかなか終わりを見せなかった。
卵かけご飯と味噌汁の朝ご飯を済ますと、おじいちゃんに掃除の手伝いを頼まれた。子供のうちから家事を学んでおけば大人になってから家事を苦とは思わなくなる。死んだお母さんも子供の頃からお婆ちゃんの家事の手伝いをしていたのだと、おじいちゃんは差し棒よろしく掃除機の管を振って力説した。お母さんの話を出すのはずるいと思ったけれど、私は反論も抵抗も逃げ出すこともせずにおじいちゃんに従った。
台所と洗面所の掃除を終えると、おじいちゃんがお茶と抹茶大福を持ってきてくれた。そしておまけに、苦労賃だとお小遣いまでくれた。私はお茶を啜っては美味しいと声を煌めかせ、抹茶大福を囓っては倖せと声を弾ませた。
電映機の報道番組を見ていると突然緊急報道が間に入った。『三番区』の第一声に私は湯呑みに伸ばした手を引っ込めた。
『その足跡を確認されたカガナミですが、昨日三番区梢町にて再びその足跡が確認されました。その後、梢町から阿佐町、時丁町方面へ移動したことも明らかになっております。錠護会は早急なる就縛に向け三番区全域に錠護守を増員し対応に当たるとしています。ええ。繰り返します。三番区でその足跡を確認された――――』
「またあの悪漢共か。好き勝手やりおって、まったく。それにしても、薫も錠護守もなにをやっとるんだか。顔も匂いも知っとるというのにな」
もしかすると、カガナミは再びこの辺りに戻って来ているのかもしれない。
「今日はどこか出かける予定があるのか?」
「うん。ちょっとまた夢殿までね」
「今日は止めておけ。心配には至らんだろうが、万が一ということもある」
「それはそうだけど……。武清さんもいるんだよ」
「武清にも言っておく。今日は家から出るなとな。とにかく、今日は家にいろ。また明日学校帰りにでも寄ればいい」
「でも……」
ずずずっとおじいちゃんはお茶を啜った。これ以上聞く耳を持ってくれないようだった。
『三番区在住の皆様は、本日はできるだけ外出を控え、不審な人物を見かけた際にはすぐに最寄りの護所に一報を入れるようお願い致します』
おじいちゃんは得意顔で私を見た。
陽都も武清さんもきっと私のことを待っているはずだ。まいったな。と、そう胸の中で呟いた………、その時だった。
アメガクルヨ
アメガクルヨ
私は内隠しに手を入れた。
アメガオチルサンジュップンマエ
アメガオチルサンジュップンマエ
縁側に立ち空を見上げると、雲一つない青空に目が細くなった。
「なんじゃ? もう壊れたのか? 買ったばかりだろ」
通知時間の設定を変更した覚えはない。確認してみるとやはり二時間前に設定されていた。
「今日は雨など降らんぞ。まったく。それはいくらしたんだったか?」
沙織。
「おい、心咲! どこに行くんだ!」
私は飛び出した。
アメコルを首にかけ、ただ思いきり駆けた。駆け続ければ雨が降り始めるその時に夢殿に着ける。このまま足を止めなければ。私は私の中の力と名の付くものを全てかき集め足を前に進めた。
竹ノ坂通りに差し掛かると風が吹き始めた。不吉な予言を耳にした群衆のように笹ががさがさと音を立てていた。
アメガオチルゴフンマエ アメガオチルゴフンマエ
もう少し。坂道を流れ落ちてくる風に逆らい私は地を蹴り続けた。
アメガオチルサンプンマエ
どこからやって来たのか、気づけば頭上に灰色の雲があった。雲は小さく、空にできた染みみたいだった。
アメガオチルイップンマエ
竹林が終わり東屋が見えた。昨日までの賑わいはどこにもなく、特等席もすっかりとその価値を失っていた。
アメガオチル――――
――――!
鼻先に落ちたその一滴に私は足を止めた。
頬に、額に、唇に、瞼に。落ちる雨雫は、大きくて重かった。
「陽都?」
私は戸を叩いた。
「陽都!」
顔を見せた陽都はずいぶんとすっきりとした顔をしていた。髪の毛もしっかりと整えられ、今すぐにでも歌観町通りを歩くことができそうだった。
私は陽都の手を引いた。
「陽都、急がなきゃ。……早く」
「うん? どうしたの? すごい汗だよ。ああ。武清さんは、ついさっき印画機を返しに出たよ」
「違うの……」
私は声を振り絞って言った。
アメコルが鳴ったのよ!
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