四十三


 目を覚ますと隣に亜紀さんがいた。

 私と目がぶつかると、亜紀さんは優しく微笑み、私の額にそっと手を乗せた。

 流しすぎて枯れてしまったのか涙は込み上げてこなかった。私は水のように流れた鼻水を啜った。


「陽都は?」


「荒木県くんと一緒。東屋にいるわ」


「うん」


 陽都は今なにを思っているのだろう。トオキョオがあったはずの景色の中になにを見ているのだろうか。


「心咲。今はなにも考えないで。もう少しゆっくりしていなさい」


「ごめんなさい……」


「どうして謝るのよ」


「時綿……。お客さんすごく怒ってた。ごめんなさい」


 きっと、時綿を買いに来たほとんどの人たちはもっと怒って帰ってしまったのだろう。


「大丈夫。心咲が心配することじゃないわ。気にしないで」


 亜紀さんは、再び私を眠りの中へ誘うように私の目を掌で覆った。


「休むときにはきちんと休まないとね。私は少し外に出てくるから」

 

 亜紀さんは立ち上がり着物を直した。


「亜紀さん」


「うん?」


「あのね。私、一つ亜紀さんに嘘吐いてた」


「嘘? どうしたの、突然」


「本当はね……。本当は、初色焚いたの。亜紀さんからもらったあの晩に」


 亜紀さんの掌がすっと私の頬に伸びた。


「うん。そんな気がしてた」


「怒ってる?」


「どうして怒らないといけないの」


「焚いてないって嘘吐いてたから」


「私もね、初めて初色を使った時は心咲みたいに嘘を吐いたわ。恥ずかしさもそうだけれど、言葉にしてしまったらいつか訪れるその初恋を失ってしまいそうな気がして」


 胸が痛くて、泣いてしまいたくなる。


「夢の中で、陽都に会ったの。夢の中でも長い前髪がすごく邪魔そうだった。だから、あの日陽都を見つけた時、本当にびっくりした」


「そう。それはきっと、すごく素敵な夢だったんでしょうね」


 そう。それはとても素敵な夢だった。


「心咲。ありがとう。教えてくれて。すごく嬉しいわ」


 私は窓を眺め、差し込む光にわざとらしく目を細めた。


「あっ。そういえば。昨日、初色一本なくしちゃったのよ。初色を置いておいたところに、どうしてか、半分になった時綿が置いてあったの。そういえば、初色もどうしてか萌黄色に変わってたような。誰かが香色でもしたのかしら。なんかすごく不思議よね」


 時綿……。半分になった時綿? ……初色? 時綿のような色をした初色?


「亜紀、さん?」


 私の声は届かなかった。

 かたりと入り口の戸が閉じる音が聞こえた。

 

 土竜の尻尾のような雲が浮かぶ空は青すぎて、その青すぎる空から落ちる陽の光は痛いくらいに眩しかった。

 陽都は武清さんと並んで特等席に座っていた。なんの話をしているのか、陽都はもうやめてくれと言わんばかりに体をくの字に曲げ笑っていた。陽都の笑い声を聞いて胸がほんの少し軽くなった。陽都はものすごく落ち込んでいると思っていたから。

 どう声をかけようか。かけるべき言葉も浮かべるべき表情もわからなくて、私はしばらく東屋の外から二人の様子を眺めていた。そんな臆病で気の利かない私とは違って、陽都は私に気づくと大きく手を振って呼んでくれた。


「大丈夫? もう少し休んでいたほうがいいんじゃない?」


 陽都の声に鼻の奥がつんとして、唇がきゅっと締まった。


 陽都は、今ここにいるのが当たり前のように、これまで見せてくれた笑顔を向けてくれた。

 武清さんも陽都と同じで、まるで一日分時間を戻したような笑顔で接してくれた。そして、私を半ば強引に自分が座っていた丸椅子に座らせると、少し表情が大人になったのではないかと眼鏡の奥の目を和らげた。その武清さんの言葉に隣からくすりと笑い声が聞こえた。私は動け、動けと強く念じて、撫でるように陽都の背中を叩いた。

 

 過ぎ去りし時に嘆くなかれ。今を尊び明日に願いをかけよ――――


「佐奈賢友邦さんの名言、なんだよね?」


 私は頷いて、武清さんを見た。


「武清さんに教えてもらったんだ。過ぎちゃったことに後悔するよりも、今を大切にして明日を思って生きる。そうしないと、たぶん、なにも変わらないし、どこにも行けないから」


 私も、そう思う。そう思うけれど、その時が過ぎたのはついさっきのことだから、まだ上手く気持ちを切り替えられない。たぶん、明日になればもう少しは前を向けるようになって、明後日になればそこからもう少しだけこれからのことを考えられるようになるのだと思う。だけれど、やっぱり今はまだ駄目。胸が痛い。


「心咲に伝えたいことはたくさんあるんだ。お礼も言いたいし、謝りたいこともあるし。でも、それはまた今度にするよ。とりあえず、心咲。今日から」


 今日からまた、よろしく。



   *  *  *



 糸井蹄通りで報道番組の撮影が行われている。紙袋を提げた亜紀さんは開口一番そう言った。


「天道座市のおばさんがそう言ってたのよ。カガナミだって」


「カガナミ?」


 私よりも先に武清さんが声を上げた。


 亜紀さんが携帯電映機の電源を入れると見慣れた景色が画面に映った。


『――――ですが、薫により昨日から今朝方までここ三番区牧野帳公園付近にいたことが確認され、その後東山町方面へと逃走したとのことです。本日正午前にトオキョオが消失したことから現在はこのようにのどかな雰囲気となっていますが、昨日は消失前、最後のトオキョオ観測に多くの見物人が集まり、東屋があります高台の観測地点だけではなく、牧野帳公園にも多くの人たちが足を運んでいました』


 薫と錠護守がいた理由がカガナミだったなんて。

 薫にカガナミ。三番区の誰もが驚いているだろう。きっと、荒木県武則さんだって驚いているはずだ。 


「田中さんが来られなかったのもカガナミと関係があるのかしら。まさか、なにかに巻き込まれたりしたんじゃないわよね」

 

 亜紀さんは頬に手を添え、心配げな表情で電映機に目を落としていた。

 

 田中になにかが起こったというのは確かなこと。田中の言葉に嘘はなかった、はずだ。田中は陽都をトオキョオに帰してくれると言った。相原に迷い込んだドグをトオキョオに帰すのが仕事であり使命だと田中はそう言った。陽都にはトオキョオに大切な家族がいる。だから、急がなければならない。田中はそうも言った。それなのに……、田中は現れなかった。雨は去り、トオキョオは消えた。陽都をトオキョオに帰すには田中の力が必要だ。私たちには雨の隧道を見つけることはできないから。どうすれば、もう一度田中に会えるのだろう。どうやって田中を探せばいいのだろう。武清さんと亜紀さんに加わるように私は眉根を寄せ唇を真っ直ぐに結んだ。

 

 ごめんください。


 声に顔を上げると、入り口の戸の前に私と同じくらいの齢の女の子が二人立っていた。


「あの、引換券持ってきたんですけど」


「引換券?」


 亜紀さんは首を傾げながら、女の子たちが差し出した紙片を受け取った。


「これ、って?」


 亜紀さんは紙片を鼻先に近づけ、それから透かして裏側を読むように持ち上げた。


 女の子たちは顔を見合わせ、困ったような表情を浮かべた。


「ここの夢殿にこの紙を持ってくれば夏空をもらえるって聞いて……」


 そんな宣伝活動はしていない。

 どこかの誰かの悪戯だ。もう! 一体誰がそんなことを。亜紀さんの夢殿にそんな悪戯をするなんて。絶対、犯人を見つけてやるんだ。私は亜紀さんに頬と鼻を膨らませて見せた。


「……あっ。ちょっと、まってね。そうね。夏空だったわね」


 亜紀さんは帳台の後ろの引き出しから夏空を二束取り出した。


「実はね。夏空の引換は昨日で終わってたの。でも、こうやって来てくれたから今日は特別。はい。五本ずつね」


 私は、どうして? と口の外へ出たがる言葉を必死に飲み込んだ。どこかで誰かが笑っているかもしれないのに。


 女の子たちは揃って頭を下げ、礼の言葉と共に帰って行った。


「亜紀さん」


 私が呼びかけると、亜紀さんは「しい」っと唇に指を添えた。そして、女の子が持ってきた紙片を私の鼻先で揺らした。

 あまりにもはっとしすぎて、息が詰まってしまった。それは私が好きな香りであり、秘密を抱えた香りだった。


「ヒマワリだ!」


 亜紀さんは帳台の上に紙片を置いた。

 そこには記号のような文字が記されていた。そう。エイゴだった。

 

 Believe me

 Believe Amekor


 私は陽都を見た。


「ビリイブミイ、ビリイブアメコウ?」


 妖女が煙と共に翼の生えた三ツ目の巨人を呼び出すために唱える文句のようだった。


「どういう意味?」


「私を信じて、アメコウ? を信じて」


「アメ、コウ?」


 雨の香り? 匂い?


「アメコウル? かな……?」


 アメ、コウル。アメ……。あっ。


「アメコル!」


「アメコルだ!」


 私は奥の間に駆け鞄から蜜柑を取り出した。最近は雨続きだったからその声をなかなか聞けなかった。 

 アメコルを信じて。

 大丈夫。そう言われなくても私は蜜柑のことを信頼している。

 私に何度も特等席を用意してくれたのだから。


 そして、貴女のことも。筆記帳を見つけてくれて、私のことも見つけてくれたのだから。

 

 沙織。

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