四十二
着物とスニイカア、それに『相原見聞録』。
陽都は持ち物を紙袋に詰めると、亜紀さんに「お世話になりました」と頭を下げた。亜紀さんは、私と比べたらお世話してないも同じだと私の唇を尖らせ、陽都を笑わせた。
「武清さんも本当にありがとうございました」
武清さんは、自分もトオキョオの話をたくさん聞きたかったと陽都の肩を優しく叩いた。
『時綿 本日正午より販売いたします 店主』
亜紀さんに代わって陽都が店の戸に札を掛けた。
唐傘を広げると頭の上でばらばらと砂利を蹴ったような音が鳴った。
私は陽都の持ち物が入った紙袋を誤って落としてしまわないよう、きつく胸元に引き寄せた。
竹ノ坂通りを下る前に東屋に寄り最後のトオキョオの姿を目に収めた。
雨脚が強くなっているというのに、トオキョオは私を虜にしたあの日の凜々しさをすっかり失っていた。輪郭は中空に滲み、聳える超高層ビル群はずっと遠くに見えた。
誰もなにも言わなかった。だから私も、名残惜しさや寂しさを口にしなかった。
射駒通りに出ると雨は雷音を伴いさらに勢いを増した。雨の雫は地で痛そうに弾け私の着物の裾を濡らした。そういえば、陽都に会った日もこんな雨だった。
「ここに来た時のことを思い出すんじゃない?」
私は大きな声で隣の陽都に話しかけた。
「うん。あんなに雨に打たれることはもうないだろうね」
陽都の目の先には、あの日陽都が立っていた外灯があった。
「私もたぶんもう、あんなに雨に濡れた人を見ることはないと思う」
笑う陽都に遅れて、私も笑った。
牧野帳公園に着いて間もなく九時の報鼓が鳴った。
田中と渦模様の唐傘はどこにも見当たらなかった。
いつあの渦模様の唐傘がやって来るのか。屋根から漏れた雨水に頭を叩かれ、水溜まりで跳ねた雨の雫に着物を濡らされながら、私は黙って目の前を落下する雫を眺めていた。
田中は言っていた。陽都をトオキョオに帰すのは十時くらいになると。雨の隧道を探すのに少し時間がかかるからと。
「まだかな……」
誰も私の言葉に答えてくれなかった。
時間と共に不安が膨らんでいった。もしも……。そんな悪い考えが浮かんでは追い払った。
私は少しでも早く田中が来てくれることを、少しでも長く雨が降り続けてくれることを、胸の中で強く願っていた。けれど、予感というのは悪いものほどよく当たるもので、私の胸の奥底からの願いも虚しく十時の報鼓が鳴り響いた。
私は唐傘を広げ陽都の着物の袖を引いた。
「陽都、行こう」
「うん? どこに?」
陽都は目をぱちくりさせていた。
「雨の隧道、一緒に探そう」
もう時間は残り少ない。正午には、トオキョオと一緒に雨雲が去ってしまう。唐傘を叩く雨雫はさっきよりも少し弱くなった。急がなければ。陽都はトオキョオに戻れなくなってしまう。
陽都は足を踏み出そうとしなかった。私は袖を腕に代えて強く引いた。
「田中さんが、来ないと……」
「来なかったら? 来なかったら、陽都トオキョオに帰れないんだよ」
陽都はなにも言わなかった。
武清さんがなにかを言おうとして私に手を伸ばしたけれど、私は陽都の腕を引き雨の中へと飛び出した。
目には見えなくてもここのどこかに雨の隧道がある。たとえ闇雲でも、出鱈目でも、牧野帳公園を駆け回っていれば見つけられるかもしれない。ただじっとしているよりはずっとましだ。
「私も一緒に行ってあげる」
私は陽都の手を握り牧野帳公園を駆け続けた。
目の前に雨の隧道がトオキョオへの道を開いて待っているかもしれない。そう思えば、お腹の横が痛くなっても、足が高く上がらなくなっても、目に見えないその先へと足を向けられた。
大きく息を吸い、吐き出す度に雨は弱くなっていった。雲は薄く、山の向こう側の空を見ると、雲の隙間から陽の光が漏れていた。雨なのか、汗なのかわからない雫が額から頬をするすると流れ落ちていた。
「陽都、大丈夫?」
陽都は顔に張り付いた前髪を横に払い流し、大丈夫と細い声で言った。
私は唐傘を閉じ、近くの木の根元に転がした。陽都も私に倣って閉じた唐傘を置いた。
「行こう」
私はまた陽都の手を握った。そして、足の先が導きにより示された場所であると信じ、あちらへこちらへと駆け回り続けた。
* * *
気がつけば細い陽の光が地を刻んでいた。
空を見上げると、煙のように薄い雨雲が最後の灰色を消し去ろうとしているところだった。
そこにあったはずの景色は、私の記憶違いだったようにすっかりと消えていた。
私は足を止めた。
喉が震えて、唇が上手く重ならなかった。目の前がぼやけて、頬に熱いものを感じた。
ごめん、陽都。
ごめんね。
陽都……。
その声は発した私自身にも聞こえなかった。
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