四十一
「これ、どうしたの?」
亜紀さんも私たちと同じく印画機を見て驚いた。
「撮ってみてもいいかしら?」
「あとね、二枚しか撮れないよ」
「そうなの? それなら、ほら、心咲。陽都くんと並んで」
その一枚はついさっき武清さんに撮ってもらったと言うと、亜紀さんは自分のいない間にと頬を膨らませた。亜紀さんのその表情は大切な一枚を使っても惜しくないほど可愛らしかった。
朝一番の報鼓が慎ましげな音を七回響かせると、その報せに引き寄せられたようにトオキョオ観測にやって来た人たちの声が聞こえ始めた。けれど、そのざわめきはそれ以上騒がしくなることはなかった。
トオキョオの最後を目にするとトオキョオに攫われてしまう。そんな話があるのだと武清さんが教えてくれた。それはとっても面白い話だと、私は唇を突き出した。
亜紀さんは朝食にと握り飯を作ってきてくれた。胡麻鰹、鮭昆布、大入豆と鹿尾菜、大葉と肉味噌。時間がなくて適当にしか作れなかったと亜紀さんは恥ずかしそうにしていた。
胡麻鰹を頬張り、陽都と一緒にその味を褒め称えていると、亜紀さんに時綿の感想を訊かれた。私はあの広大な草原と壮大で優しい景色を伝え、綿毛に乗ってほどなくして目が覚めたのだと肩を落とした。
「ここからって時に目覚めちゃったのね。ごめんね、心咲。半分じゃちょっと足りなかったみたいね。次はきちんと一本贈るから。もう少しだけ待ってね」
私は大きな瞬きで応えた。
「陽都くんは? どうだった?」
「僕は、駄目だったみたいです。夢を見たには見たんですけど、心咲の夢とは全然違う夢で」
亜紀さんがどんな夢だったのかと訊ねると、陽都は見た夢について話をした。
「誰か、知っている人とか現れなかった?」
私は亜紀さんを見た。亜紀さんは私と目がぶつかるとぷくりと唇を膨らませた。
「心咲が出てきました」
陽都は頭を掻きながら言った。
「心咲が現れたのね?」
「はい」
「そっか。そうだって、心咲」
亜紀さんの手が私の頬に伸びた。
「陽都くんの夢にまでお邪魔するなんてね」
私は亜紀さんの掌を跳ね返すように頬を膨らまし、握り飯に手を伸ばした。
残り二枚の印画は武清さんの提案と陽都の希望から夢殿で撮影することになった。
そのうちの一枚は私が撮影鋲を押した。帳台の前で陽都を挟んで武清さんと亜紀さんが並んだ一枚。三人とも晴れ晴れしい表情で、これが別れの一枚になるとはとても思えなかった。
最後の一枚。それは四人で写ることができた。撮影鋲は七時になり夢香の配達にやって来た配達人さんに押してもらった。
「どんな写真になってるのか、見たかったな」
陽都は何気なしにそう言ったのだと思う。けれどその言葉は私の胸を重くした。できることなら私がトオキョオに届けに行ってあげたい。陽都にもずっと忘れて欲しくないから。相原のことを、私たちのことを。
武清さんと亜紀さんに半ば追い出されるような形で私は陽都と二人で東屋に向かった。やっぱり東屋には人は数えられる程度しかいなく特等席も空いていた。
節水中の雨浴機のような雨のせいでトオキョオはぼやけ揺らめいていた。
「もうすぐ、この景色の中に帰って行くだなんて、実感ないな」
「私もだよ。トオキョオがなくなって、陽都もいなくなるだなんて、全然信じられない」
目がぶつかると私たちはどちらからともなく笑った。
どうして笑うのか、自分でもよくわからなかった。けれど、笑う陽都を見ながら一緒に笑うのはとても心地が良かった。
「陽都、トオキョオに戻ったらまずなにをしたい?」
「そうだね。まずは、友だちに謝りに行かなきゃ。僕が来ると思ってずっと待っていたと思うから」
「すごく怒ってるんだよね、きっと」
「かなり、怒ってるだろうね」
「雨の隧道を抜けて相原に行ってたって正直に言ってみたら?」
「たぶん。もっと怒らせちゃうよ」
「だよね」
困り顔を見せたのもほんの一瞬で、陽都は声を出して笑った。
私が笑ったから、笑ってくれたのかな。そんな風に勝手に思うと、目を開けていられないほど嬉しくなった。私は倒れ込むように陽都の腕に肩をぶつけた。陽都は苦情を言うことなく、私の声に声を重ねてくれた。
「心咲? あのさ……」
「ん? なに?」
陽都は今更ながらに肩をさすり、その手で髪の毛かき上げた。
「本当に、ありがとう」
「感謝される覚えなんて、全然ないけど?」
陽都は首を振った。
「心咲に出会えたから、こうやって戻ることができるし、それに……、うん。短かったけど心咲と一緒にいられた時間は楽しかった。ありがとう」
一緒にいられて楽しかったのは私の方。初めてだらけの毎日だった。男の子とこんなに長く話をしたのも、背中を叩いたのも、手を握ったのも。あいざしを見たのも、歌観町通りに行ったのも、地下市場で大変な目に遭ったのも。エイゴは面白かったし、トオキョオの話はどれも魅力的だった。そして、そのトオキョオの話をする陽都もトオキョオと同じくらい魅力的だった。
「田中が言ってたように、いつか本当に相原とトオキョオを行ったり来たりできるようになったら、今度は陽都がトオキョオを案内してね」
「もちろん」
「本当に?」
「本当だよ」
「それじゃ、約束」
小指を立てると、陽都も同じくそうした。トオキョオでも小指の契りは変わらないようだった。小指を絡め、私は言った。
この契り果たさぬは、この命散らすに同じ――――
「うん?」
陽都はお腹が痛くて困っているような表情で私を見た。
「小指の契り、知ってるんじゃないの?」
「小指の契り?」
「うん。だって、私が小指を出したら陽都もそうしたから。だから、陽都も知ってるのかなって思って」
「指切りかと思って」
「指切り?」
陽都は指切りについて教えてくれた。
話を聞く限り指切りは名前と掛け声が違うだけで小指の契りと変わらなかった。それならば指切りにしようかと言うと、陽都はここは相原だから小指の契りにしようと小指の契りの文句を訊ねた。
「この契り果たさぬは、んと、次なんだっけ?」
「それは私が言う台詞。陽都はその次の、果たすべき契り、今ここで交わさん。いい? オウケイ?」
陽都は親指を振って頷いた。
私が小指を出すと、陽都は私の指に小指を絡めた。私は息を一つ吸い込み契りの言葉を口にした。
「この契り果たさぬは、この命散らすに同じ」
ぎゅっと小指に力を込めると、陽都も私の小指に応じるように絡んだ小指に力を込めてきた。
「果たすべき契り、今ここで交わさん」
この約束がいつか必ず叶えられますように――――
私はもう一度小指に力を込めた。
そんな私の願い事を聞き入れてくれたかのように、遠くで雷音が轟き、一回り大きくなった雨の雫が目の前を落ちていった。
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