四十
『最後のトオキョオ観測へ行ってくるね』
座卓にそう記した紙を置き、私はするりと家を出た。
時綿のお陰で気分は最高だった。悩みも不安もどこかに飛んでいったのか、勝手に出て行ったのか、胸の中は一週間眠り続けたようにすっきりとしていた。少し残念な部分もあったけれど、胸の奥底に沈んでいる感情を掬い取ってくれた素敵な夢だった。
私は唐傘を打つ雫の律動に合わせ、水溜まりを踏むのも、捲った着物の裾に泥水が跳ねるのも気にせず足早に夢殿を目指した。
窓をこつりと三度叩くと、すぐに陽都が顔を見せた。人差し指を立て首を傾げると、陽都は一つ頷いてから窓の向こう側に姿を消した。
座卓の上には『相原見聞録』があった。記していた途中だったのか中程に鉛筆が挟んであった。
「『相原見聞録』記してたの?」
「うん。時綿の感想」
「えっ! どうだった!?」
思わず声が大きくなってしまった。
見渡す限り一面の大草原。
風が吹く度に波のように揺れる草花の様子は圧巻だった。
空はどこまでも青く、陽の光は優しかった。時折、ちりちりと鳥の鳴き声が聞こえ、どこか遠くから水の流れる音が風に運ばれ耳に届いた。
そんな自然の景色と音に胸を洗われていると、私をすっぽりと包むほど大きな綿毛が空からふわりと舞い降りてきた。もちろん。私はその大きな綿毛に抱きつくように飛び込んだ。
綿毛は草原にお尻を擦るくらいの高さで辺りをゆっくりと周り、それから胸の高さくらいにまで上昇すると風の気紛れに舵を任せた。
ここからが素敵な夢の始まりだ。そう夢の中で思ったそのとき、私は現実へ追い出された。やっぱり、半分の長さで夢を満喫することは難しいみたいだった。それでも目覚めた時には、がっかりした思い以上に胸がすっきりしていた。
「驚いて、感動して、衝撃だったよ」
「綿毛に乗れた?」
「綿毛? 綿毛って?」
陽都は綿毛が降りてくるところまでも見られていなかったようだ。私は草原に綿毛が舞い降りてくるその場面について説明した。私の説明が下手だったからなのか、陽都は薄塩味の涙の雫を口にしたような表情で私の頭の上辺りに目を投げていた。
「草原? そんな雰囲気じゃなかったよ」
陽都が話してくれた夢は確かにそんな雰囲気ではなかった。
石造りの町。人も馬も食べ物も全て石でできた町の夢。
「そうだ。町の中を歩いていたら心咲を見つけたんだ。周りはみんな石だったから、心咲だけがすごく目立ってて」
時綿は心音系。
心音系の特徴は壮大な自然の景色と自分の他に登場する人がいないということ。石造りの町だなんて、朝倉系で見る夢だ。その夢は時綿が見せた夢ではないと、私は思っていることを陽都に伝えた。陽都はふうっと息を吐き、「そうなんだ……」と残念そうな顔をした。
ドグには夢香の効果が上手く働かないのだろうか。残念。私は言葉を飲み込みちろりと舌を出した。
「でも、すごく良い香りでぐっすり眠れたよ」
「そうだね。桧と甘橙の組み合わせは緊張を解す効果があるし、言成草も陽の香りっていうか、すごく優しいからね」
「あま、だいだい? 言成草っていうのもわからないや」
橙色の蜜柑によく似た果実が甘橙。言成草は二本の茎の先に星形の小さな花を咲かせる夏花。私は陽都の疑問に短く答えた。
陽都は『相原見聞録』を開いたもののすぐにぱたりと閉じた。
「わからないことを書いたら、もっとわからなくなりそうだから」
甘橙も言成草もどこにでもあるものだから、時間さえあれば陽都の手に渡してあげるのに。そう思うと胸がきゅっと痛くなった。
本当に、あかおびなのか?
突然聞こえた声に私ははっと息を飲んだ。
三番区に、なんの用があるっていうんだ?
隠し場所があるんじゃないのか、ここに
どの声も疲れて寝ているところを揺り起こされたように不機嫌でなげやりだった。
どうして菫自身は来ないんだ?
そうだな。探すのは菫の仕事だ
菫は下の公園だ
あかおび。菫。
地下市場でも耳にした言葉。外にいるのは錠護守なのだろうか。声からすると少なくても五人はいそうだった。私はいつ戸や窓を叩かれるだろうと、息を殺しても押さえられない胸のうるささに怯えていた。陽都も同じだったのだと思う。死影でも見えているかのように窓帷を見つめていた。
「なにか、あったのかな……」
陽都は入り口の戸を見て、それからまた窓帷に目をやった。
「わからない。でも、昨日も錠護守と薫がいたから、やっぱり……、なにかあったのかも」
私たちはしばらくの間、息を殺しじっとしていた。
「もう行っちゃったかな」
陽都の言葉に私は首を傾けた。耳を澄ましても雨音しか聞こえない。たぶん、もう行ってしまったのだと思う。けれど、静寂を餌に標的を誘い出すというのは錠護守劇の常套手段。
「一応、もう少し。念には念を入れてね」
私は鼻先に人差し指を立てた。
陽都は真剣な表情で冗談のように唇を曲げていた。その唇はなんなのかと訊ねようと口を開きかけたそのとき、入り口の戸が音を立てた。一度、二度。私は陽都の着物の袖を握った。陽都はそんな私を安心させようとしてか、たぶん一度私の手の甲に掌を重ねた。
戸を叩く音が止み、一呼吸付けたのも束の間、今度は今度は私たちの真横で音が鳴った。窓硝子が鈍い音を立て、窓枠がその音に派手な装飾を施した。体が強ばり、手に力が入った。陽都は険しい表情で窓帷を睨めつけていた。
「心咲。陽都くん」
……?
「心咲。いるんだろう?」
窓の向こうから聞こえた声に体から力が抜け目に涙が浮かんだ。
陽都も安堵して力が抜けてしまったのだろう。立ち上がろうとした拍子に均衡を崩し尻餅をついた。私は陽都に手を差し伸べ、それから窓帷を勢いよく引いた。
「びっくりした。いるんなら戸を開けて欲しかったな。心配しただろ」
「びっくりしたのはこっちだよ。もうっ!」
私は鼻から大きく息を吐いた。
「なにはともあれ、とりあえず僕も中に入れてくれないかな?」
私はぱんぱんに頬を膨らませて見せてから戸口へと向かった。
牧野帳公園に錠護守が集まっている。
武則さんが電声でそう話しているのを聞いて駆けつけてきたと武清さんは言った。本当にそのとおりなのだろう。髪の毛には小枝を立てたような寝癖がついていた。私はついさっきまでその錠護守だと思われる何人もの男の人たちがあたりを歩き回っていたことを伝えた。武清さんは眼鏡をかけ直し、腕を組み、眉間に皺を寄せた。それから突然立ち上がり、外を見てくると化矛雪駄に足を入れた。
「私も行く」
武清さんは駄目だと言ったけれど、下駄に足を入れ立ち上がるとそれ以上はなにも言わなかった。振り返ると陽都が化矛雪駄に足を通しているところだった。
東屋から牧野帳公園を見下ろすと、幾枚かの赤い羽織がトオキョオの足下に染みを落としていた。
「なにをしてるのかな?」
「さあ。さっぱりだね」
武清さんは首を傾げ、訝しそうな目つきで牧野帳公園を見下ろしていた。
「あれ。薫じゃない?」
陽都の指の先を辿ると牧野帳公園の入り口付近に桔梗色の羽織が見えた。
薫は、羅針装置が故障した船のように進んでは引き返し、また別の方向に進んでは踵を返し、その色を私の視界から消した。
「心配することはないさ。薫がいて錠護守もいる。なにか起こっても彼らが解決してくれる。それに大きな事件が今まさに起こっているのなら、この辺りは赤と黄色の帯が張られて入られないようになっているだろうし」
武清さんの手が私の肩を叩き、その手はそのまま隣の陽都の肩に伸びた。
「大丈夫。なにも起こりはしないさ。陽都くんも無事にトオキョオに戻れる」
大丈夫。武清さんはもう一度繰り返した。
「それよりも。特別な物を持ってきたんだ。ちょっと持ってくるから待ってて」
武清さんは唐傘を広げると駆け足で夢殿へと向かった。
戻って来た武清さんの肩には鞄が下がっていた。
武清さんは焦らすようにゆっくりと留め具を開いた。鞄の中から出てきたのはなんと印画機だった。
「どうしたの?」
私が側によると、武清さんは得意顔で印画機を構えて見せた。
「昨日の夜、
「陽都、トオキョオでは写真っていうんだよね? 使う機械はこれと同じなの?」
「うん? これはカメラだよ。カメラで撮ったものを現像してできるのが写真」
カメラ。そうだった。印画機のことをトオキョオではカメラと呼ぶんだった。両手に収まるくらい小さく長方形型なのだと『トオキョオ見聞録』に記してあった。写真は、そう。印画のことだ。
武清さんは印画の撮り方を教えてくれた。取っ手に手をかけ、円筒状の本体の上にある覗き穴で撮影対象を決め、光操鏡の脇にある撮影鋲を押す。
陽都は覗き穴に目を当てたままその場でくるりと一周した。
「それで、ここを押すと撮影できるんだよね?」
「陽都くん。まだ鋲は押さないで。感光膜は三枚分しか残っていないんだ」
陽都から印画機を受け取ると、武清さんはその大切な三枚のうちの一枚を今撮ろうと提案した。
「もう少ししたらまた人でいっぱいになるだろう? その前にここで撮りたいんだ。二人の印画をね」
夢殿を背景にして東屋で撮ろうか、それとも夢殿の前で撮ろうか、いや竹ノ坂通りの下り坂の方が画になるのではないか。私は陽都と並んで武清さんの背中を追った。足が止まったのは周り巡って東屋の特等席だった。
「それじゃ、二人で並んでそこに立ってみて」
「うん。ん? 陽都、こっちだよ。そこに立ったらトオキョオが入っちゃうから」
トオキョオを印画に収められるのは決められた印画家だけなのだと私は陽都に伝えた。
「トオキョオは特別なの。全部が全部ね」
「こっち見て。ほら、人がやって来たから。撮るよ。準備して」
私は着物を合わせ直しお腹で手を組んだ。
「もうちょっと近づいて」
もう半歩分陽都の側に寄ると腕が触れた。
「そうそう。そのまま、そのまま。動かないで、こっちを見ていて。それじゃ、撮るよ」
あさ、ひる、ばん、はい。
かちりと撮影音が鳴り、しゅるると感光膜が巻かれる音が続いた。
「オウケイ?」
私の言葉に武清さんは、「なに?」と訊き返してきた。
私は人差し指を立てて、はっきりと大きな声でもう一度言った。
オウケイ? と。
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