三十九
五時の報鼓を合図に夢殿に戻ると、武清さんは浮かない顔をして私に言った。
「今日は七時までに帰ってこい。夏休みももう終わりだ。だって」
短くてとてもわかりやすい伝言だった。
「僕も僕なりに頑張ってみたんだけど。ごめんね」
武清さんが謝ることなんてない。これがいつものおじいちゃんなのだから。私は武清さんに礼を言った。
七時までにと言われたら七時までに帰るしかない。一分でも遅れたら、なかなか酷いことになってしまうだろう。鞄をかけ直し着物を整えていると、帳場にいた亜紀さんに手招きされた。
亜紀さんの掌には、本来の長さよりもずいぶんと短くなった萌黄色の夢香が二本乗っていた。
「ごめんね。折れちゃってるもので。一本取って置こうとしたんだけど、あの状態だったから販売するしかなくて」
亜紀さんは私の手を取り時綿を置いた。
「本当に、いいの?」
「素敵な夢に魅せられてね」
時綿の煌めきを見つめていると陽都が覗き込んできた。
「これが行列の秘密の時綿なんだ。綺麗だね、すごく」
私は半分になった時綿の一本を陽都に渡した。
「陽都も焚いてみたら?」
陽都は時綿を持ち上げ、転がし、鼻に近づけた。
「いいよね?」
亜紀さんを見ると、亜紀さんは少し困った顔をした。
「トオキョオには夢香がないでしょ? だから私は陽都くんに夢香を勧めなかったの。初めて夢香を使う人の中には具合が悪くなってしまう人もいるから」
夢香の初体験。私は十二歳になったその日に初めて夢香を焚いた。
初めてその水遙を使った朝は体が漬物石にでもなったかのように重く感じた。学校でも気づけば居眠りをしていて、先生にだいぶ厳しく怒られた。
「大丈夫だよ。ほら、半分だし。ねっ? 陽都も気になるでしょ?」
「そうだね。気になるね」
「だって、亜紀さん」
亜紀さんは唇を噛み、ううんと迷いの声を漏らした。それでも、最終的には陽都がそう言うのならと時綿を焚くことを認めてくれた。
私は時綿を手巾で包み着物の内隠しに入れた。
「それじゃ、陽都。また明日の朝」
明後日もまた会えるような言い方になってしまったのは、やっぱり寂しいからで、明日陽都がトオキョオに戻ってしまうという実感がまだ湧かなかったからで、もしかするとずっと一緒にいられるのではないかという期待がひょっこりと顔を出したからだった。
「うん。明日」
陽都も同じように返してくれたのが嬉しかった。
「明日の朝、結構早く来るかも」
「オウケイ」
陽都の言葉に私は人差し指を立てて応えた。
* * *
「どうだったんだ? 洞察はしっかり学べたのか? 亜紀さんだったか。今度、礼になにか持たせなきゃいかんな」
漣饅頭ではありきたりだから茜羊羹の方がいいかとおじいちゃんは笑った。
こんなにも上機嫌なおじいちゃんに会えるのは年に一、二度くらい。なにがあったのだろうか。小餌魚の甘煮を口に運びながら、私はおじいちゃんを喜ばせている原因について探っていた。
「美味いだろう? 覚えているか?
赤い色の魚屋さん。
懐かしい。
魚でいっぱいの水槽の前で、松廼例のおじさんが声を張り上げていた。
「たくさん食べろよ。魚は食べれば食べるほど頭の回転が速くなるからな。昔はよく、錠護守になりたきゃ魚を食えだなんて言ったものだ」
おじいちゃんはまた笑った。
錠護守。そう。錠護守といえば…。
「そういえばね。今日、東屋に錠護守と薫がいたの。なにかあったのかな?」
「錠護守に薫? 珍しいな。ここに薫が来るなんて。あれだろ。トオキョオ観測に来たんじゃないのか? 明日で最後だっていうからな。お前のトオキョオ病もようやく鎮まるな」
武清さんもそう言っていたように、薫がいるということは事件解決目前だから、ということなのだろうか。錠護守と薫についておじいちゃんはそれ以上なにも言わなかった。だから私もそれ以上訊かなかった。
おじいちゃんの上機嫌の理由を知ることができたのは、風洗を浴びておやすみの挨拶をした時だった。
「今回の件が終わったら、しばらくゆっくりと休めそうだ。まあ、十日程度だけどな。あと二日もあれば終えられるだろう。お前は学校が始まるが、日曜日にでも風動船で一番区でも行ってみるか? 人混みは嫌いだが、お前の社会勉強ついでにな」
私の社会勉強ついでだなんて、おじいちゃんも正直になれないのだから。本当は、最新の風動船に乗りたいからだ。あの透き通る行嚢的な船に。
楽しみにしてると言い残し、私はそっと襖を閉じた。
部屋に戻り布団を敷くと、私はごろりと転がり筆記帳を広げた。
陽都が突然現れたあの時から今日までのでき事を整理しまとめていると、なんだか一つの物語として記せそうな気がした。
私が体験した出来事をそのまま正直に記したって誰もそれが真実だとは思わないだろう。そう。『トオキョオ見聞録』みたいに。
それならば、『新トオキョオ見聞録』という題名なんてどうだろうか。いや、それは『トオキョオ見聞録』に対して失礼だ。そう。単純に『雨とトオキョオ』なんていいかもしれない。そんなことを一人考えている自分がなんだか可笑しくて、私は夏毛布に顔を埋めた。
時綿を焚く前に香皿を一度綺麗に掃除した。香皿から灰が溢れるまで掃除してもしなくても良いことも悪いことも起きたためしがない。だから私は夢香を変える度に香皿を掃除している。そうした方が気持ち的にすっきりするし、夢香にとっても気分が良いだろうから。
香皿に時綿を立て、部屋の灯りを消してから香火を擦った。萌黄色の光が薄闇に輝き、柔らかく品のある香りが鼻をくすぐった。
私は枕元の蛙時計を叩いた。
「四時。よろしく」
ゲコゲコといつものやる気の感じられない返事を確認してから夏毛布を肩まで引っ張り上げた。
どんな風景が待っているのだろう。私は胸を弾ませながら時綿の香りに身を任せた。
妖睡は気づけばすぐ側にいた。
今日はほとんど寝ていないんだった。沙織が、沙織が……、あんな時間にやって来たから。
体の真ん中がずしりと重くなり、瞼の感覚が遠くなっていった。
そして、頭の中が空っぽになって、
それ、から……、
それ、か……、
ら…………。
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