三十八
遙米餅と黒糖煎餅。それが陽都が望んだ昼食だった。
私のおじいちゃんが聞いたら長い長い説教を始めたことだろう。昔の人であるおじいちゃんは三食必ずご飯を食べる。成長の素はご飯で、ご飯を食べなければ立派な大人になれない。そう育てられてきたからだ。だから、私がお昼ご飯を抜くのはもちろん、遙米餅や黒糖煎餅をご飯代わりにしていると、「まともな大人になりたきゃ飯を食え」から始まる長い説教を聞かされることになる。自分だって、遙米餅や黒糖煎餅が大好きなのに……。
射駒通りの餅屋さんで武清さんに小倉餡と抹茶を三つずつ、黒糖煎餅を二袋、それに店の前のセシイヒですももシェイクを二本買ってもらった。
竹ノ坂通りの入り口に戻ると武清さんは「じゃあ」と手を振った。
じゃあの意味も手を振る意味もわからなかった。武清さんはその意味がわからない私がわからないと眼鏡の奥の目を怪しく輝かせた。
「牧野帳公園のきのこ椅子で遙米餅と黒糖煎餅をそれぞれ三つ食べるとなんか良いことがあるらしい」
「嘘」
「嘘かどうかは食べてみればわかるさ。それに、二人だけで話したいこともあるだろう。夕方くらいまでに戻ればいいからさ」
なんか少し目を細めたくなるような言葉だった。
手を振り坂を上っていった武清さんに手を振り返す陽都に倣い、私は唇を尖らせながらも手を揺らした。
トオキョオ越しに眺めるトオキョオ観測中の人たちの姿はなかなかに見物だった。その様子はまるで、あの百人の学生が教室でぎゅうぎゅう詰めになっている学習塾の電映機広告のようだった。
一番小さなきのこ椅子しか空いてなかったせいで、陽都がすももシェイクを飲む度に着物の袖がかさりと揺れた。
「これ、これまでに飲んだ飲み物の中で一番美味しいかも」
陽都は食べたいと求めた遙米餅と黒糖煎餅よりもすももシェイクを気に入ったようだった。すももシェイクといっても、セシイヒで買ったすももシェイク。それなのに、これほどまで気に入るだなんて意外も意外だった。専門店の本格的なすももシェイクを飲ませてあげられたらどんな感想を聞けるのだろうか。
「トオキョオにはないの? すももシェイク」
「どうなんだろう。ありそうといえばありそうだけど、僕は飲んだことがないよ。シェイクといったら大体バニラかストロベリイかな。あっ。ストロベリイっていうのは苺のこと」
なるほど。全然連想できない。
私はめくれた着物の袖を直し、もう一つのバア、ニラについて訊ねた。
「ううん。バアニラじゃなくて、バ、ニ、ラ」
バニラというのは甘い匂いを持つ香料のことなのだけれど、その香料を利用したアイスクリイムという氷菓のことをバニラと呼ぶのが一般的なのだそう。アイスクリイムは丸くて白くて柔らかくて匂いと同じくとっても甘いのだそう。
「あれ? そういえば、シェイクもエイゴだと思うけど」
「シェイク? ん?」
「振るって意味なんだけど」
陽都はすももシェイクを振りながら一緒に首も振った。
「私が子供の頃からシェイクはシェイクなんだけどね。昔と一緒で今でもこうやってセシイヒの定番の飲み物だしね」
「セシイヒ?」
「うん。セシイヒ。それ、セシイヒで買ったでしょ、さっき」
「セシイヒって、自販機、のこと?」
「ジハンキ?」
「自動販売機の略だよ。このすももシェイクが出てきたあの機械」
セシイヒが自動販売機?
話を聞くと自動販売機は形も使い方もセシイヒと同じだった。
私は新たに仕入れたトオキョオ情報を記すために鞄から筆記帳を取り出した。陽都も私と同じだったようで、苦しそうに手を縮こめ羽織の内隠しから筆記帳と鉛筆を取り出した。
「ねえ、陽都。交換して記してみない?」
どうしてわざわざそんなことを言い出したのか、自分でもよくわからなくて、そんなよくわからなくなっている自分に頬が熱くなった。
陽都は私の突然の突拍子もない提案をすんなりと受け入れてくれた。しかも、「面白そうだね」なんて嬉々としながら。
セシイヒ=自動販売機
ジドウハンバイキ⇔セシイヒ
筆記帳は陽都の文字の分だけしっかりと重くなって私の手に戻って来た。
昨日いなくなっていた間、陽都は田中とトオキョオについて話をしていたと言った。
陽都の話を聞いた田中は十年前と随分と変わっていると驚いていたようだった。特に田中が興味を示したのはスマアトフォンで、音声から文字変換できる万能筆記帳的機能について熱心に訊ねていたようだった。田中の知っていたスマアトフォンは利用できる機能も限られていて、筆記帳的機能については単純に文字を入力し保存しておくだけの機能しかなかった。と、陽都はそう田中に教えられたのだと笑った。
「田中はそのことを十年前に来たっていうドグから聞いたの?」
「うん。そう言ってた。僕よりももう少し年上の男の人だったって」
「七年も帰れなかったのよね? すごく大変だったでしょうね」
「でも、そうでもなかったみたいだよ。相原で普通に生活してたって。もちろん、戻りたいとは思ってたみたいだけど、相原での生活に馴染んでたって」
「陽都も、もしもそうやって相原に長い期間いることになったら、相原での生活に馴染めるかな」
「僕的には、今もそれなりに相原に溶け込めていると思ってるんだけど……」
私は笑った。
「自分でそう言えるのなら、きっと全然大丈夫ね」
長い前髪の隙間から見えた目は、私の目とぶつかると柔らかく弧を描き、瞬き二つ分の後地に落ちた。
地では四ノ葉の兵団が雨に負けじと葉を逆立て、その兵団を指揮するように背の高い
私は四ノ葉を取り、指先で丸め主脈に沿って小さく切り目を入れた。小さな四ノ葉だったせいだろう。唇で挟み吹くと高くて愛くるしい音が鳴った。
「うん? なにそれ? 草笛?」
ひ、み、つ。と、葉笛で伝えたかったのに、吹いた私自身にもそうは全然聞こえなかった。
自分にも一つ作ってくれないかと陽都は目を輝かせて言った。私は小さな四ノ葉を取り葉笛を作るとその先に鴇羽草を飾って陽都に渡した。
「この切れ目のところを吹くといいんだよね?」
鴇羽草のついた葉笛をぴよぴよと鳴らす陽都の姿があまりにも可笑しくて、私は笑いを堪えることができなかった。
「どうしたの?」
「その葉笛はね」
小さな女の子が使う物なのだと親切に教えてあげた。鴇羽草は女の子の象徴なのだと。そうやって四ノ葉の先に鴇羽草を飾るのは小さな女の子だけなのだと。そう話しているうちまた可笑しくなって私は涙を指で払った。
「じゃあ、こうやって僕が吹いているのはなんか変なんだよね?」
「かなりね」
魚が履き物を履いて水の上を歩くくらいと私は付け足した。
「相当だね、それは」
「そう。相当だよ」
陽都は葉笛を見て、今更ながらに苦笑した。
「この白い花。鴇羽草? こんな真四角の花びらなんて見たことがないよ。貰ってもいいかな?」
もちろん。一個でも二個でも百個でも構わないと私は言った。四ノ葉も鴇羽草も毎日飽くことなく摘んでもなくなることなんてない。陽都は大事そうに何度か場所をずらし筆記帳の間に葉笛を挟んだ。
「相原のこと忘れそうになったら、それを見て思い出してくれるのね」
「そうだね」
私は肘で陽都の腕を突いた。
「それって、忘れちゃうってことじゃない」
「違うよ、そういう意味じゃないよ」
「違わないよ。顔がそう言ってる」
目を細めると、陽都は水馬のようにすっと目を逸らした。
「ほらあ」
「だから、違うって」
もう一度肘で突くと陽都も同じくやり返してきた。肩をぶつけると肩がぶつかってきて、背中を手で叩くと「んん」と不満の声が返ってきた。
「どうせね、私たちのことなんてすぐに忘れちゃうのよ。トオキョオに戻って一日経つごとに一日分忘れて、一週間後には全部忘れちゃうの。陽都はそういう酷い人なのよ」
「そんなことないって。大丈夫だよ。忘れないよ」
「行けないかな、私も」
「うん?」
「明日、陽都にくっついて行けば私もトオキョオに行けるよね? そうすれば、私のことは忘れられなくなるでしょ」
「でも、もう相原には戻って来られなくなるよ。田中さん、そう言ってたよね?」
そう。田中はそう言っていた。奇跡でも起こらない限り戻ることはできないと。
「あっ。ということはさ、トオキョオにも相原の人がいるかもしれないってことだよね?」
攫いの話は昔からある。けれど、攫いに遭って戻って来たという人の話はない。
「そうだね。そういうことになるね」
私もあの日牧野帳公園にいたら、もしかすると今頃トオキョオで相原のことを思っていたかもしれない。
「あのさ、陽都。もしも私たちの立場が逆で、トオキョオで迷子になっている私を陽都が見つけたらどうしたかな」
超高層ビルの足下で、ワイシャツを着たドグたちに紛れ、着物を濡らしていたら。
「通り過ぎるよ」
予想外の言葉に掌一つ分お尻が椅子の外にずれた。陽都はそんな私の反応を見て嬉しそうな顔をした。
「でも、すぐに戻って、大丈夫? って声をかけるよ」
陽都は人差し指を立てて言った。
私はぐっと近寄った眉根を離し、続けて訊いた。
「声をかけて、それから?」
「心咲がしてくれたことをするよ。お腹が空いていたらご飯を用意して、泊まれる場所を探して、夜遅くに大丈夫かなって様子を見に行って、今人気のお菓子を食べながら一緒に音楽を聴くんだ」
「それから何日かして、朝に突然私がいなくなってたら?」
「自転車でトオキョオ中を探すよ。見つけるまでずっと、探し続けるよ」
「見つけたら?」
「ちょっと怒るかも」
「ごめんって謝った後、突然だけど明日相原に帰ることになっちゃったのって言ったら?」
「なんか、質問攻めにあってるんだけど」
私は陽都の言葉を逸らし、長い前髪の間に隠れたがっている陽都の目をじっと見つめた。
「そう、……だね。良かったねって、喜ぶのかな。一応ね。でも――――」
雨の音が少しだけうるさくなって、陽都の声が小さすぎたから私の聞き間違えだったのかもしれない。けれど、もう一度お願いする勇気もなかったし、本当に聞き間違えだったら落ち込んでしまうから、私はふうんとなんでもない様を装い、耳に届いたその言葉を頭の中で繰り返していた。
もう少し一緒にいたい、ってそう思うんじゃないかな。
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