三十七


 トオキョオ観測にやって来た人たちと時綿を待っていた人たちで夢殿の前はちょっとした恐慌状態となっていた。


「忙しい時なら手伝ってもらうんだけど、今は忙しすぎるから。落ち着いた頃に戻ってきてね」


 手伝う気満々でいたのだけれど、役に立たなければ邪魔になるだけ。私は陽都と一緒に夢殿を出た。


「時綿六十本今から販売します。お一人様一本限りでお願いします」


 亜紀さんの姿はあっという間に見えなくなった。

 


 私は陽都の袖を引き人波の中へと潜り込んだ。

 東屋の中程まではなんとか進むことができたのだけれどそこから先は厳しかった。

 私は謝罪の言葉を通行証に顔も胸もお尻も潰しながらじりじりと東屋の先を目指した。

 顔が抜けた先は特等席のすぐ側だった。

 やっぱり、トオキョオはここから見るのに限る。

 眼下に広がるトオキョオ駅。トオキョオ駅の背後に聳え、空を埋める数多のビル。駆ける自動車と足早なドグ。夢よりももう少し現実に近い、あり得ない景色。

 振り返ることができなかったので、私は袖の上から陽都の腕を二度強く握った。大丈夫だろうか。人に挟まれ、揉まれ、透紙とうしのようにぺらぺらになっているかもしれない。と、そんな私の不安は一抹のものだった。すぐ隣から陽都の顔が飛び出してきた。

 きつく挟まれたのか左耳が赤くなっていた。


「大丈夫?」


「やばかった。死ぬかと思ったよ、本当に」


「やばかった? それって、どういう意味?」


 私は陽都の赤くなった耳に言った。


「危なかったってこと」


「ん? それって、危機的状況だったってこと?」


 陽都は顔の前で親指を立てて振った。


「そっか。それじゃ、今がまさに危機的状況って場合はなんて言うの? やばかい?」


「ううん。やばい」


「へええ。格好良いね。やばい。トオキョオの言葉って響きがいいよね。たくさん言いたくなる」


 やばい。やばい。やばい。

 言いやすくて、暗号的で、密偵にでもなったような気分になる。

 陽都も相原の言葉を耳にして、どこか不思議に感じるのだろうか。たとえば、そう。アメコルだとか。


「そうだね。不思議な感じはするね。アメコルはなんか可愛い感じに聞こえる」


 アメコルが可愛く聞こえるだなんて、意外も意外だった。

 どう聞いても電映機や携帯電声の仲間にしか聞こえないのに。

 ア、メコルでも、アメ、コルでも、アメコ、ルでもどこで区切っても電化製品を想像させる。トオキョオはやっぱり相原とは別の町。私の知らない物や事が毎日を回している。


「陽都。明日帰るんだって実感湧く?」


「全然。逆に、本当に戻れるのかなって。あそこに自分がいたっていうのも、なんか信じられないよ」


「本当にいたんだよね?」


 私は冗談めかして言った。


「たぶんね」


 長い前髪のせいで陽都が笑ってくれたのかわからなかった。

 


 私たちは周囲の喧噪に隠れるように黙ってトオキョオを眺め続けた。

 トオキョオ駅の後ろでは玩具の鼠のように電車が走り去っては、流れ込み、また走り去った。信号機は緑から黄、赤と色を変え、ドグたちはその色に従いオウダン歩道を渡り、自動車を走らせた。

 トオキョオの空は曇天で一秒後に雨粒が灰色の地に黒点を打ってもおかしくなさそうだった。そんな曇り空から舞い降りるように、たぶんハトという名であろう鳥がトオキョオ駅の屋根の上に足を下ろした。陽都は見上げることも見下ろすこともせずにただ真っ直ぐに顔を向けていた。

 赤いタクシイの前に三列に並んだ黄色いタクシイの行方を追おうとしている時、喧噪とは少し違ったざわめきを背中に感じた。。


「薫だ」


 薫?


 振り返っても振り返る人たちの後ろ姿が見えるだけだった。

 

 事件でもあったのか?

  錠護守もいる


    電映機で見るのと同じだ

本当に綺麗な菫色ね


   そういえば、昨日も錠護守が多かったな

 やっぱり、なにか事件でも起こってるんじゃない?


 人波の流れに逆らい東屋から離れるにつれ、ざわめきは確かな言葉へと変わり、辺りに不穏な空気を撒き散らしていた。

 錠護守が四人に薫が一人。錠護守は赤い唐傘を薫は白い唐傘を、それが決められた姿勢だというように揃って右肩に乗せていた。薫は、地下市場で見たあのときの薫と同じく、鋭く、威嚇的な目で辺りを睥睨していた。私は誤って目をぶつけてしまわないよう、伏し目がちに夢殿へと向かった。

 夢殿の前には時綿が売り切れたことを知らせる札が大きく掲げられていた。その札の効果は大きく、夢殿の中は外の混雑ぶりとは隔離され、疲れた様子の武清さんと亜紀さんの二人だけしかいなかった。私は二人に薫が来ていることを伝えた。


「なんか外が賑やかになってるとは思ったけど。なにかあったのかしら? 薫が来るだなんて」


 亜紀さんは帳台の下から携帯電映機を取り出し電源を入れた。


 映った画面を見て、私は思わず声をあげてしまった。流れていたのは、この間霞朝広場で見たあいざしの紫窓公演の様子だった。硝子皿の下で演奏するあいざしの姿は格好良すぎて、霞朝広場を埋める色とりどりの唐傘は魅惑的だった。


「あれ? これって。この間心咲と陽都くんが見た梢町の紫窓公演よね?」


「そう!」


 私は胸を張って答えた。


 すごい。すごいな。との二人の大人の驚きの声に私はなんだか誇らしい気分になった。そう。私は確かにそこにいた。

 映像が変わり続いて映ったのは昨日行われた四番区の砂炉烏(さろからす)工場街の中にある緑地広場での紫窓公演の様子だった。工場街での公演とあって、鉄紺の作業衣と鳥の子色の使い捨て唐傘が目立っていた。

 羨ましいことに雫の他にも叶という新曲が演奏されていた。叶は叢雨に近い激しい演奏に切なげな旋律を乗せた曲で、来月の半ばに発売される音盤の代表曲なのだそう。来月の半ばに音盤が発売されるなんて、霞朝広場での公演では一言も言っていなかったのに。と、そう唇を尖らせたい気持ちは、拡大された柚乃の顔にすっかりと払われた。編み込まれた前髪から覗かせるきりりとした力のある目。柚乃はいつだって私の胸を騒がせる。

 あいざしの紫窓公演の報道の後に流れたのは浅見丁海水浴場で海月に刺された人がいたという報せで、その後も発条を増やし柔軟性を強化した新型のカルメチが来月歌観町通りに導入されるといった話や、中央裁定所で行われている現教育制度についての討議の様子が映るだけで、三番区でなにか事件が起こったという報道は一切なかった。


「事件の報道はないわね。薫もトオキョオ観測に来たんじゃないかしら」


 トオキョオを眺めたいと思うのは薫だって同じだと思う。けれど、あの目はトオキョオ観測をする目ではなかった。誰かを疑い、その誰かを見つけたらすぐに手枷をかけようと、そのことだけを考えている目。私にはそうとしか見えなかった。


「いや。薫の在るところに事件有りっていうくらいだから。なにもないところに薫が菫の羽織を着て現れることはないよ。起こったばかりの事件で報道にまだ情報が回っていないのか、それとも、公にされたくない事件なのか。そのどちらかだと思う。でも、たぶん、公にされたくない事件なんじゃないかな。地下市場でのことも未だに報道されていないしね。あのときの様子は、まさにそこでなにかが起きているって感じだった。薫だけでなく、錠護守も緊迫した様子だったし。もしかすると、地下市場でのことと関係しているのかもしれないね。そうは思いたくないけど」


 鈍色の輝きが頭をよぎった。刃銃まで握られていたのに、報道されていないだなんて確かにおかしい。もしかしたら、あの刃銃から刃鉄が飛ばされていたのかもしれないのに。あのときの錠護守はいつ引き金を引いてもおかしくはない様子だった。


「なんか、怖いね」


 私の言葉に武清さんは笑顔を浮かべた。


「大丈夫。なにも起きていないだろう? 怖がることはないさ」


 私にはその笑顔の理由がまったくわからなかった。


「どうして?」


「なぜなら、薫がいるということは事件はもう解決目前ということだからね」


 腕を組みそう言った武清さんは、武則さんを柔らかくしたみたいでとても格好良かった。

 私がそのままを伝えると、武清さんは肩をすくめて片笑んだ。

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