三十六
「最近では十二年前、前々回のトオキョオの時ですね。残念なことにその年に帰すことができなくて、前回五年前のトオキョオまで七年間その童禹には相原で暮らして頂きました。そのうち初めの二年を過ごしていたのがこちらです」
ドグを童禹と呼ぶのが耳に新鮮に響いた。
田中は膝に手を添え、入り口の戸の上部に嵌められた白群の磨り硝子に目を投げていた。
「安喜留蒼依嬢が姫願記をここで記していたのは確かなことですが、記されたのは冒頭の数頁だけで残りは五番区にある旧安喜留亭の蒼依嬢の自室で記されました。ですから、ここ安喜留蒼依記念館にはこれといった特別性はないのです」
安喜留蒼依嬢がこの場所を選んだ理由は、すぐ側に五区で一、二を争う大きな七是さんがあったからだった。姫願記に登場する貴方とは当時安喜留蒼依嬢の恋人であった
安喜留蒼依嬢は七是さんの回復祈願に則り、毎日朝晩五時の二回七是さんの汚れを払い、供え物に百合と草餅、酸塊水を用意した。
雨が降っても、風が吹き抜けても安喜留蒼依嬢は一日たりとも欠かすことなく回復祈願を続けた。けれどそれから半年後、安喜留蒼依嬢の懸命な回復祈願も虚しく、恭美縁篠実は病に連れ去られてしまった。
安喜留蒼依嬢は五番区の自宅に戻り、悲しみから逃れようとするように姫願記の執筆に全てを捧げた。そして、姫願記の完成と共に
「一時的な暮らしになったとはいえ、当時の貴族が暮らしていた建物。素敵なくらいに凛としています。古さは感じられてもみすぼらしさはまったく感じさせません」
田中は目を閉じすうっと音を立て鼻を膨らませた。
「安喜留蒼依嬢がここで暮らしていた頃は、今とは違いトオキョオは災いの象徴とされていました。まあ、今でもご年配の方の中にはトオキョオを災いとして考えている方もいますけどね。トオキョオは災いを呼ぶ。童禹は災いを起こす、と」
絆授創が薄いというだけでドグと見なされ重罰を受けた人がいたほどトオキョオは忌み嫌われていた。そうしたトオキョオに対する忌避感はある年のある日を境に次第に薄れていった。
「四十二年前の八月二十九日。歴史的観点から見ればつい最近のことですね」
「『トオキョオ見聞録』……」
つい口を挟んでしまった。それは『トオキョオ見聞録』が発刊された日。
「よくご存じで。今の学生が『トオキョオ見聞録』に目を通しているだなんて驚きです」
田中は大きく手を鳴らした。
『トオキョオ見聞録』は相原からトオキョオとドグを遠ざけた。
誰が信じられるだろう。電気で走る巨大な乗り物が地上だけでなく、地下も駆け巡っているだなんて。一度に数百人が往来する交差点があるだなんて。動物を見世物にした娯楽施設があるだなんて。
『トオキョオ見聞録』はトオキョオに娯楽感を与えることでトオキョオの印象をがらりと変えた。それはまさに吉野狭美南が『トオキョオ見聞録』を発刊した目的の一つだった。
『トオキョオ見聞録』の文体は「だそうだ」「であるらしい」など伝聞として記されている部分がほとんどだ。それは吉野狭美南の実体験によるものではなく、伝聞をまとめた記録であるからなのだけれど、その記し方は絵須加紀行の原書とよく似ている。誤って井戸に落ちたらそこには別の世界が広がっていたというあの有名な空想小説。たとえば、自転車。自転車とは足で踏板を回転させて進む二輪の乗り物のこと。前方に取り付けられた操作棒で進路を決める。自転車はトオキョオでは大衆的な乗り物で子供から老人まで多くの童禹が利用している。人が駆ける程度の速度しか出せないため、普段の買物や仕事場への移動手段として利用されているようだ。相原にあったとしても誰も利用しないだろう。遙米球よりも速くて心地の良い乗り物があるはずないからだ。絵須加紀行の場合はこう。雲駆け。雲駆けとは雲で作られた小型の船のような乗り物のこと。操作は体の重心移動で行う。絵須加では雲駆けが唯一の乗り物で、空を見上げればいつも誰かが雲駆けを操っている。私はその乗り物を相原に持って帰りたいと思った。相原の空はどこまでも高く、いつでも美しい青を見せているからだ。他にも、ラアメンと
『トオキョオ見聞録』が往々にして歴史研究史の棚ではなく空想科学小説の棚に混じっているのは、こうした絵須加紀行と類似しているというのもその理由の一つだ。もちろんこれも吉野狭美南が意図的に行ったことで、その意図は現在もなお生きているということになる。吉野狭美南は絵須加紀行の原書を参考にし『トオキョオ見聞録』を完成させた。空想科学小説の棚の中で相原からトオキョオを遠ざけるために、そしてもう一つの真実を伏せておくために。
「もう一つの真実?」
「そう。それはトオキョオを相原から遠ざけねばならなかった理由でもあります」
「あっ。ドグ?」
「はい?」
「の、存在?」
ぱちり。
どうやったのだろう。田中は親指と中指? いや、人差し指? 指を擦り合わせるようにして音を鳴らした。
「素晴らしい。そのとおり。童禹の存在です。もしかして、心咲さんは把握を持っていらっしゃいますか?」
持っていると言葉にするのは恥ずかしくて、私は小さく素早く頷いた。
「羨ましい。僕は小さな頃から把握に憧れを持っているんです。物事を素早く的確に理解できる能力。それはその他のどんな能力よりも素晴らしい。そうでしょう。人は往々にして時を無駄に捨ててしまう。把握があれば、時の全てを無駄にすることなく生きることができる。限られた生を余すことなく満喫することができる」
大袈裟だ。把握の有り無しで人生が劇的に変わるとは到底思えない。私の把握なんて、把握を持っていない武清さんの把握力の十分の一にも満たないと思う。ただ、私の中にそれがあるだけの話。それは私が百合に見えなくもない絆授創を持って生まれたのと同じこと。本物でなければ意味がない。
羨ましい。田中はもう一度吐息を吐くように言った。
「童禹を守ること。それは吉野狭美南がすべきことでした。守るというのは直接的な保護という意味ではなく、トオキョオを災いとして考えていた相原の中で童禹が安心して暮らしていける環境を作るということです」
大井艾通りの早急なる廃止。
それは約束だった。ドグからトオキョオについての話を聞き出すための。それはすなわち『トオキョオ見聞録』を記すための取引だった。トオキョオから迷い込んできたドグたちは当時四番区の主要街道であった大井艾通りからほど近い兎浪町(うなみまち)という今はなき小さな町の片隅でひっそりと人目を避けるようにして暮らしていた。ドグと知られないために腕に絆授創を描き、できるだけ言葉を発しないよう気をつけて過ごした。
大井艾通りから来生丙通りへの大通り移転には歴史研究家たちが強く反対していた。吉野狭美南もそうした他の歴史研究家たち同様、大井艾通りの廃止には反対だった。歴史と伝統と文化。歴史研究家たちにとって歴史を辿るべき材料が大井艾通りにはまだまだ眠っていた。そうした歴史ある通りを電力供給所のために廃止にするのは馬鹿げている。そう考えるのは歴史研究家として当然のことだった。けれど、目の前で風に揺れ、煌びやかで涼しげな音を鳴らす風言の魅力に抗うことができなかった。
「今はどこにでも風言がありますよね? ええ。この記念館にもそこに一つ。この今では当たり前のように飾られている風言が登場したのは今から四十年ほど前のことです。風言の歴史はまだとても浅いんです。同じ風を利用した
知らなかった。風言がそんなにも最近登場したものだったなんて。ずっとずっと昔からあるものだと思っていた。昔の人ほど風情や趣を大切にするから。私のおじいちゃんみたいに。
「風言はトオキョオでは風に鈴と書いて風鈴と呼ばれています。その風鈴を相原に広めたのもまた吉野狭美南です。話が前後してしまいますが、その風鈴がきっかけで吉野狭美南は童禹との接触に成功したんです」
一番区地下市場の奥まった路地にある雑貨屋。そこで吉野狭美南は風鈴を見つけた。長い尾鰭を持った赤い二匹の魚の絵が描かれた丸い硝子の器に、その器を鳴らす細い金属の錘、その錘に下がる暗号のような文字が記された短冊。音はとても澄んでいて胸を静の中へと鎮めてくれた。
吉野狭美南は迷うことなく風鈴を購入した。その帰りすがらのことだった。吉野狭美南は風鈴の持ち主だという人物と遭遇し風鈴を返すよう言われる。風鈴の持ち主は風鈴が自分の手元から盗まれ地下市場に流れてきたのだと言った。支払った分の倍のお金を払うから風鈴を自分に返してくれと。
風鈴。
そのとき吉野狭美南は持ち主だという相手の言葉から自分が購入した硝子の器が風鈴という名だと知った。
自分の記憶、知識の中には風鈴と呼ばれる物は存在しない。吉野狭間美南は風鈴がどこで作られたのか相手に訊ねた。
「これは相原の物ではないのではないかと。薄く加工した硝子細工。水草を食む二匹の赤い魚。短冊に書かれた暗号のような文字。相原にはない技術と相原では知られていない魚の絵。暗号的な文字。もしかしてトオキョオで作られた物ではないのかと」
自分は歴史研究家で最近はトオキョオの研究に身を投じている。風鈴について詳しく話を伺えないだろうか。風鈴の持ち主だという人物は吉野狭美南の懇願に応え、風鈴の出所について話して聞かせた。
風鈴は吉野狭美南が思ったとおりトオキョオの物だった。トオキョオでは夏の風物詩として有名な存在であること。尾鰭の長い赤い魚は金魚という名の淡水魚であること。硝子の器に下がっている紙は風を受けやすくするためのもので、暗号のような文字はエイゴと呼ばれるトオキョオとは別の地域の言語であること。
吉野狭美南はどうしてトオキョオの物が相原にあるのかと訊ねた。すると相手は、自分はとあるドグと通じているからだと答えた。そのドグは相原にいて自分たちと変わらない生活を送っていると。
「そこから大井艾通りの廃止に繋がるというわけです。そのドグからトオキョオについての話を得るために、吉野狭間美南は歴史研究家たちを敵に回し、大井艾通りの廃止を唱えます。唱えるといっても、ある触屋に、大井艾通りを廃止にすることで得られる半ばでっち上げながらももっともな意見を伝えただけですが。その触屋が記した報せはあっという間に相原を巡り、結果大井艾通りの廃止を早めることになりました」
ある触屋。
私はその触屋のことをよく知っている。そして、その触屋の今の主人が私にそう教えてくれた。吉野狭美南が大井艾通り廃止を後押ししたのだと。
「それで、吉野狭美南は『トオキョオ見聞録』を完成させた、ということですか?」
武清さんの言葉に田中はゆっくりと頷いた。
「完成させた、ということですね。そしてまた、ドグを相原から遠ざけることができたというわけです」
「今も陽都くんの他にドグはいるんですか?」
武清さんは下がってもいないのに眼鏡の山を押し上げた。
「いますね。一人」
田中は平然とそう言った。
私がそうだったのだからきっと、武清さんも亜紀さんも陽都も驚きすぎて頭の中が空っぽになってしまったに違いない。陽都の他にも相原にドグがいるだなんて。
「ええ。少し変わっている人ですけれどね。トオキョオには戻りたくないそうです。これは本人の意思ですので、僕たちは彼女に対してある程度支援をしています。相原で上手く過ごしていけるための。ああ。そうですね。会ってみたいとは言わないで下さいね。向こうは絶対に嫌だと言うだろうし、僕たちも彼女になにかをお願いするのはできるだけしたくありませんから」
彼女、僕たち。頭がぐるぐるする。
その僕たちの方について訊ねたのは亜紀さんだった。あなたたちは一体何者なのかと。
「すみません。僕たちについては話せません。知らない方が良いということもあります。皆様にとって、という意味ですが。少しだけ話せるのは、僕たちはドグの存在を隠し護っているということです。皆様方を除けば、ドグの存在を知っているのは僕たちだけです」
ドグの存在を知られてしまうのは自分たちにとってとても都合が悪い。ところが一ヶ月前、一人の歴史研究家がドグの存在に近づく研究結果を導き出した。その歴史研究家がドグの存在に近づけたのは偶然のことだった。専門は相原の衣食住文化で、たまたまその先にドグの足跡が残っていた。あと一歩、もう少しだけ遅かったら今頃電映機はドグの存在についてうるさく騒ぎ立てていたことだろう。
「その歴史研究家というのは?」
武清さんの言葉に田中は「言えません」と笑みを崩さず言った。
「答えられないことが多くてすみません。これもまた童禹の存在を護るためなんです。今はまだ童禹の存在について知られるわけにはいかないんです。まだ早いんです。もっと時間をかける必要があります。せめて、トオキョオを災いと見なし玄関に護塩を盛る人たちがいなくなるまでくらいは」
そういえば、玄関先に護塩を盛っている家を目にしたことがあった。一体なにから護られたくて護塩なんて盛っているのだろうと、目にする度に私は首を傾げそうになっていた。まさかそれはトオキョオによる災い逃れのためだったなんて。
ドグの存在が認められて、相原とトオキョオが隣町のように身近な関係になれたら。そうなったら、どれだけ倖せな毎日を過ごせることだろう。もしかしたらトオキョオにも行けるようになるかもしれない。トオキョオ駅で電車に乗り、トオキョオタワアの上からトオキョオの全景を眺められるかもしれない。素敵すぎて、想像するだけで倒れてしまいそうになる。
上手にドグやトオキョオのことを説明できれば、今からでもそんな私の想像は可能になるかもしれない。トオキョオ観測にあれほどの人たちが他区からやってくるくらいなのだから。そう田中に伝えてみたのだけれど、田中は首を振り、まだ早いを繰り返すだけだった。
「全てを説明するには僕たちのことも話さなければなりませんし、さきほども言いましたがそれはできません。いつか、話せる時が訪れるとは思います。ですが、今は無理なんです。それに時間的な意味でも急がなければなりませんし。美成くんのためにも」
田中の頷きに陽都は叱られた子供のように目を伏せ、頷いたのか俯いたのかそろりと顔を伏せた。
「皆様もご存じかと思いますが、トオキョオはもう間もなく消失します。気象会の予報どおり明日の午後には消えてしまいます。トオキョオが消失してしまったら、美成くんは次のトオキョオまで相原に留まらなければなりません。いつになるかわからない次のトオキョオまでです。美成くんにはトオキョオに大切な家族がいます。今頃きっと大変な騒ぎになっていることでしょう。機会は明日一日しかありません。ですから、急がなくてはなりません。とても。もっと早くに美成くんの存在に気づけたらよかったのですが……」
田中はそれが自分の失敗だと言わんばかりに言った。
「どうやって、トオキョオに」
私の言葉に田中は下がった頭を指先で上げ戻し、「来たときと同じですよ」と言った。
「雨の隧道を抜けるんです」
「雨の、隧道?」
「ええ。トオキョオと相原を繋いでいる雨を抜けるんです。周りから見たら、突然消えてしまったように見えるでしょう。そう。雨の隧道を抜けることを相原ではこう呼んでいます。攫い、と」
攫い。
昔々から攫いについての話は多く残されている。その中には目の前で忽然と消えてしまったという話もある。そう武清さんは言っていた。それが本当なのだとしたら。トオキョオに行くこともできるということになる。トオキョオに……。
「それは、行ける、ということですよね? 私たちもトオキョオに」
「行けますよ」
「本当ですか!?」
前のめりになった私を押し戻すように田中は両手を広げた。
「まず戻ってくることはできないでしょうけど」
大袈裟な溜息はけっしてわざとではなかった。そんな私の溜息にくすぐられたように田中は声を出して笑った。
「トオキョオが好きですか?」
好き。どころではない。私は、そう。
「トオキョオ病です」
田中はまた笑った。
「自分でトオキョオ病というだなんて。よほどトオキョオに魅せられているのですね、心咲さん。今度、機会があればトオキョオについてお話をしましょう。僕もトオキョオが大好きなんです。トオキョオの全てに胸を動かされます。いつか、そうですね。心咲さんが倖せな家庭を築く頃には相原とトオキョオを自由に行き来できるようになっているかもしれませんよ。遙米球に乗って区間を移動するように、雨を抜けてさっとトオキョオへ遊びに行けるようになっているかもしれません。それはけっしてあり得ない話ではないのです。その時を期待していましょう、一緒に」
心配そうな顔で私を見る武清さんと亜紀さんとは反対に、陽都は笑いを堪えているように口元をむずむずさせていた。唇を尖らせ目を細めると、陽都も真似をして返してきた。いつか。わかっている。いつか、その時が来たら。そのいつかを思えばどんなことだって乗り越えられそうな気がした。
「それでは最後に、明日のことについてお話しします」
田中は膝に顔を擦るように深く頭を下げた。
「明日大きな雨雲がやってきます。トオキョオの終わりを告げる大きくて厚い雨雲です。午前九時あたりにその雨雲はやってきます。入り口を探すのに少し時間を必要とするので、美成くんをトオキョオに帰すのは十時くらいになります。ですから、そうですね。雨雲がやって来たらにしましょう。午前九時に牧野帳公園の入り口で待ち合わせましょう。突然のことになってしまって本当に申し訳ございません。美成くんとお話ししたいこともたくさんあるでしょう。時間は限られていますが、どうかそれまで」
田中はそこで言葉を終わらせた。私たちもそれ以上なにも訊ねなかった。
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