三十五

 

 草把隧道を抜けた先の煉瓦通りは変わらずお菓子を敷き詰めたように華やかだった。

 赤に黄色、橙に緑、白に青。色彩豊かな煉瓦道は曇り空の下でも快活さを振りまき、雨の雫を活き活きと受け止めていた。

 駄菓子屋に通っていた頃、私はその日によって今日は赤だけとか白だけとか、踏む煉瓦の色を決めて緩やに伸びる坂道を上っていた。駄菓子屋は今もまだやっているのだろうか。歩くのも大変そうな老おじいちゃん店主だったから。

 七是さんも煉瓦通りと同じくなにも変わっていなかった。相変わらず見上げてしまうほど大きくて、愉快げに笑うその様は遠くからでもはっきりと確認できた。けれど、その足下に肝心の目印は見つけられなかった。

 七是さんの足下には丸い形の草餅が供えられていた。草餅は綺麗に七つ縦に積まれていた。それはある意味芸術的と言える見事な重なりだった。そして、その草餅の重なりを褒め称えるように、ひびが走る古い足風洗場からぴゅいと面白い音が鳴っていた。


「ここよね? 沙織ちゃん、確かに七是さんのところって言ったわよね」


 言った。それに絶対に遅れるなと。提時計を見てみると八時四十八分だった。一応七是さんの後ろ側にも回ってみたけれど、元気すぎる雑草が生い茂っているだけだった。

 これでもかと山芋を乗せた荷車が苦しそうな音を鳴らしながら過ぎるのを眺め、冷玉売りのおばあさんに炭酸入りの冷玉を買わないかと声をかけられ、着物の裾についた泥を払っていると九時の報せ鼓が鳴った。まさか、沙織にいっぱい食わされてしまったのでは? そう思ったのは亜紀さんも同じだったのだと思う。亜紀さんは着物に醤油を零してしまったような苦い表情を浮かべていた。


「もう少し待ってみましょう」


 待つしかないのだけれど。とは、もちろん言わなかった。

 武清さんはそんな亜紀さんを見て両の眉をすっと近づけた。

 私たちは皆揃って不安を感じていた。だから、それから少しの間を置いて目印の唐傘が坂の上に見えたときには、ほっとした。隣からも、その隣からも不安が吐き出される音が聞こえた。

 私たちを蜻蛉とでも思っているのか、唐傘の持ち主は安喜留蒼依あきるあおい碑の前でくるくると渦模様を回転させていた。私は駆け出したい気持ちを抑え、これまでよりもずっと足早になった大人二人の歩幅に合わせて煉瓦を踏んだ。

 腰で揺れる一本に結った髪の毛。白い羽織に羽根を広げた最流奴の地紋。杜若色の雪駄に白の巾着。雪駄を履いているのだから男の人だとは思うけれど、長すぎる髪の毛と細すぎる体が私の判断に霞をかけた。


「すみません」


 武清さんが声をかけると、回転していた唐傘はぴたりと回転を止めた。


「沙織さんから聞いてやって来たのですが」


「ああ」


 返ってきたのは男の人の声だった。端正で色白で女の人と言われたら信じてしまいそうな綺麗なお兄さんだった。齢は武清さんたちと同じくらいだろうか。


「早朝からご迷惑をおかけしました。鈴木のことですから、騒々しくしてしまったのではないでしょうか?」


「すずき?」


「はい。ああ。そうでした。すみません。沙織です。二本柳沙織のことです。僕たちの間では沙織は鈴木で通っているんですよ。あの音の鳴る鈴に樹木の木で鈴木です。言いやすくないですか? 鈴木」


 言いやすいもなにも財布の製造会社しか思い浮かばない。鈴木。誰が耳にしても名前だとは思わないだろう。


「武清さんに、亜紀さん。そして、心咲さんですね。すず、ああ。沙織からよく聞いています。遅れてしまいましたが、僕は田中と申します。どうぞお見知りおきを」


 田中は両手をお腹に回し一礼した。


 た、なか? すずきと同じくらい変な名だ。たなか、さん。やっぱり、変だ。


「変わったお名前ですね。初めて聞きました」

 

武清さんの言葉に田中は口元を押さえくすくすと笑った。笑い方も外見と同じくすらりとしていた。


「違いますよ。田中は名前ではなく名字です。田んぼの田に、中に入るの中で田中です」


「名字? ですか?」


「ええ。渾名ですけれど」


 田中が名字でそれが渾名。わけがわからない。


「あの、田中さん。沙織から、ここに来れば陽都に会えるって聞いたんです。陽都は、どこですか?」


 私は田中に一歩近づき言った。


「大丈夫ですよ。心咲さん。心配しないでください」


 田中は両の腰に手を添えて言った。


「すぐそこにいます」


 田中が指さしたのは安喜留蒼依記念館だった。

 生前安喜留蒼依嬢が姫願記ひがんきを執筆するために利用したとの謂われを持つこじんまりとした建物。

 訪問者が少ないせいで一年のうち決まった期間にしか開かれることのない記念館。もちろん今だってそう。建物の戸を塞ぐように休館中の札が掛けられている。

 田中は私たちに背を向けると唐傘を一回りさせ建物の裏手へと回り込んだ。そして、そこが自分の家であるかのように裏口の戸を開け中に入った。私は亜紀さんを見て、亜紀さんは武清さんを見た。武清さんは首を傾げながら田中の後を追った。

 梁が剥き出しの天井、年輪の浮かんだ柱、ぷつりぷつりと穴の空いた漆喰の壁。想像していたとおりの造りだった。

 木の優しい香りと黴臭さがよく混ぜた砂糖水のように見事に相俟っていて、その香りは二番区で暮らしていた頃よくお世話になっていた隣のおじいちゃんの家を思い出させた。目を閉じるとどこからか波の音と鴎の鳴き声が聞こえてきた。


「陽都!」


 部屋の中央にある大きな柱のせいで気づくのが遅れてしまった。

 陽都は部屋の隅に置かれた筆記机の脇の長椅子に腰掛けていた。私と目がぶつかると陽都は目をぱちくりさせ、それからぎゅっときつく閉じた。


「ごめん、心咲。すぐ戻るはずだったんだけど、色々あって。本当に、ごめん」


 陽都は続けて亜紀さんと武清さんにも同じく謝った。


「謝罪は僕がすべきことだよ。美成くんはなにも悪くない。美成くんをすぐに帰してあげられなかったのは僕側の事情によるもので、僕の責任です」


 田中は深く、長く頭を下げた。


「その僕側の事情も含めてこれから皆さんにお話ししたいことがあります。少し長くなってしまいますが、美成くんに関することですので、どうかお耳をお貸し頂ければと思います」


 私は陽都の隣に、武清さんと亜紀さんは私たちの向かい側の長椅子に腰掛けた。田中は筆記机の椅子を手に取り、私たちと武清さんたちの間に置いた。


 たぶん、誰かに聞かれていたとしても、その誰かはいつかの不思議番組の話をしていると思ったことだろう。田中の話は切り口からして信じがたいものだった。


 美成くんは、相原を訪れた十七人目の童禹どううです。


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