三十四
『雨脚は午前六時には再び強まり、今日も一日トオキョオ観測日和となるでしょう』
気象会の予報通り、六時を過ぎたあたりから雨脚が強くなった。さすが気象会だ。私の蜜柑以上に雨を知っている。
トオキョオは圧倒的な様を見せていた。どう眺めても、もうすぐ消えてしまうようには全然見えなかった。
朝早いせいかドグたちの姿は少なく、そのいつもより閑散とした様子もまた素敵だった。
七時少し前に武清さんが特等席に座る私のところにやって来た。開口一番はやはり「陽都くんは?」だった。
私は沙織が来たこと、そして沙織が話していったことを武清さんに伝えた。そんな私と武清さんの元へ亜紀さんが駆け寄ってきて、「沙織ちゃんが来たの」と私が考えていた言葉と一字だけ違った言葉を口にした。
臨時休業の札をかけるために亜紀さんが硯で墨を擦っているのを見ていると、帳台の上で携帯電映機がぴりりと短く鳴った。速報の報せだった。
私は亜紀さんの隣に並び電映機の画面を見つめた。
朝から相原区民の目と耳を占領したのは、カガナミだった。朝早いせいなのか、急いで来たからなのか、六番組の報道者は息を切らしながら話していた。錠護守により就縛されたカガナミが逃走したのは、同じカガナミの一員と思われる二人の人物に就縛所が襲撃されたからである、と。
錠護会は日をおいてこの情報を明らかにしたことを謝罪したそうだ。
『結果、錠護会は面子を守ろうとして、面子を潰してしまうことになってしまいました』
報道者は残念そうというより、面倒くさそうにそう締めくくった。
もしかすると、私が地下市場で見た錠護守たちはそのカガナミの件で動いていたのかもしれない。あの物騒さを振りまいたただならぬ雰囲気。思い出すだけで胸が粟立つ。
『誠に申し訳ありません。本日臨時休業とします。時綿は今日の分も含め、明日百本販売致します。店主』
亜紀さんは筆で紙にそう大きく記し札に貼り付けた。
「怒られちゃうな。昨日買いそびれた人がたくさんいたから」
ごめんなさい、と亜紀さんは札に手を合わせた。
亜紀さんが札を戸に掛けていると、そこに配達屋さんがやって来た。亜紀さんは配達屋さんから木箱を受け取り帳場に置くと、中から時綿を取り出し見せてくれた。煌粉が混じった鮮やかな萌黄色。鼻を近づけると、その色とは違って桧に甘橙と言成草を加えたような匂いがした。
「陽都くんと無事に会えたら、心咲に一本あげるわ」
亜紀さんは、私の前髪をくるりと指に巻いて微笑んだ。
私は、甘くて、優しい、素敵すぎるその香りに目を伏せた。
* * *
もう三年くらい前になるだろうか。隧道を抜けた先の煉瓦通りの終わりにある駄菓子屋に缶詰人形を買いに出かけたことが何度かあった。私の知っている草把隧道は色とりどりの花が織りなす幻想的な光と緑の道だった。だから、私は自分の記憶を疑ってしまった。
灰色の空と大粒の雨は、生い茂り隧道を成す草花の緑門を御伽は御伽でも奇々怪々な雰囲気に仕立て上げていた。ここを抜けたら……、二度とこちら側には戻れない。子供の頃怖くて怖くて仕方がなかった
「なんか気持ち悪いわね。こんな雰囲気だったかしら」
「妖界への入り口という感じがするね」
武清さんも亜紀さんも私と同じ意見を持っているようだった。
木漏れ日に代わって緑門から零れる雨の雫はぼたぼたと品がなく、足下の雑草はびちゃりびちゃりと潰れた蕃茄みたいな音を立てていた。
道の端には白粉花や
道が狭すぎて武清さんを先頭に一列になって進んだ。向こう側から人がやって来ると唐傘を横に倒して進んだ。その度に垂れ落ちる雫に頭と肩を叩かれた。
「遠い昔のことだけれど、ここは恋人たちにとって縁起の良い場所であり、同時に恐れられる場所でもあったんだ」
私は武清さんの背中に頷いた。
「恋人と一緒に、隧道から漏れる陽の光を踏んで出口まで抜けることができれば倖せになれる。今で言う
確かに。こんな狭いところに恋人たちがこぞって集まってきたら迷惑すぎる。私がこの隧道の利用者だったなら、恋人たちを睨めつけすぎて目の形が変わってしまうことだろう。
「と、そうした倖儀的な部分があった反面、恋人と二人で陽の光を踏むことなくこの隧道を抜けてしまうと悲劇的な別れが訪れるという話も信じられていたんだ。ただ恋仲が終わってしまうのではなく、その悲劇には死や病が付き従っていたから、陽の差さない曇りの日や今日のような雨の日には、恋人たちはここに近づくことさえしなかった」
きっと、陽の差さない日は隧道の利用者にとって倖せな一日となったのだろう。雨を心底から願い雨乞いをしていた人もいたかもしれない。
「草把隧道が恋人たちにとって、倖せと恐れの場であったのは約五十年の間。今ではごらんのとおり、恋人たちとの間に縁はない。それはもちろん、恋人たちが足を運ばなくなったからなんだけど、さあ、その足を運ばなくなった理由がわかるかな?」
私は考え中の意を示すためにううんと鼻を鳴らした。
「あっ。わかった! 恋人たちに、通行料がかけられるようになった、とか?」
「残念。確かにね、通行料をかけて欲しいと願っていた人たちもいただろうけどね」
私は振り返り亜紀さんを見た。
「倖儀を行ったのに悪い別れ方をした恋人が、いた?」
「残念」
武清さんは手をひらひらと振った。
「正解は、心咲の大嫌いな毛虫。今はもうないけれど、当時は周りに椿が多くあってね、そこから大量発生したんだって。記録によれば、それはもう足の踏み場もないくらい毛虫でいっぱいになってしまったそうだよ」
考えたくもないのだけれど、その光景が勝手に頭に浮かんでくる。もしも今この場がまさにそうだとしたら、私は……、たぶん、震えて、泣いて、叫んで、ぱたりと気絶してしまうだろう。
「うわああ」
背中に嫌な感触が走った。振り返ると亜紀さんが人差し指を揺らし嬉しそうに笑っていた。
「もうっ」
私は頬を思いきり膨らませ、着物をきつく合わせた。
前を向くと武清さんの背中が震えていた。私は無言の苦情として背中を三回叩いてあげた。
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