三十三


 白雨の匂いがして、朧を知らず、絆授創がなかった。それが沙織が陽都をドグだと思った理由だった。


「霰ではるくんが髪をかき上げた時にね、じっと、じいっと、腕に穴を開けちゃうくらい見てたのよ。そうしたら、腕がつるつるなんだもの。本当はね、びっくりしすぎて叫んじゃいそうになってたのよ」


 沙織は大きく開けた口を両手で塞いで見せた。


「そしてね、ヒマワリ」


 ヒマワリのことを知っていたことでその思いは確信となった、と沙織は言った。


「ヒマワリ?」


 亜紀さんは驚いたように言った。


「そのヒマワリについても、教えてもらいたいんだけど」


「それは、別に知らなくてもいいんじゃないかな」


「そんなようなことを蒔璃野屋さんで言われたわ。この香りについては知らないほうがいいってね」


 なにがおかしいのか沙織は声を出して笑った。そしてお腹を押さえながら、「納得、納得。そこにあったんだ」と笑い交じりに言った。


「ヒマワリって、なに?」


 亜紀さんの問いを払うように沙織は着物の衿元を引きぱたぱたと扇いだ。


「見えた?」


「なにが?」


 首を傾げる亜紀さんに沙織は衿元を裏返して見せた。

 衿の裏側にはたぶん花であろう刺繍が施されていた。

 細くて長い茎。

 その茎と均衡の取れていない大きすぎる黄色の花。

 それは花というよりも毛の生えた一つ目さんみたいだった。


「これがお姉さんが知りたがっているヒマワリ」


「花?」


 沙織は衿を戻すと親指を立てて振った。


「お姉さんのお陰で一つ私の中のもやもやがなくなったから、今晩、うん? 今朝か。今朝は特別ね。特別にヒマワリを見せるだけでなく、ヒマワリについても教えてあげる」


 どんなもやもやがどうやってなくなったのか、なにがなんだかさっぱりだった。沙織は浮かれた様子でこっぽり下駄をかたかた鳴らしながらヒマワリについて語った。


 ヒマワリ。

 それは水鏡ほどもある丸くて大きな黄色い花を咲かせるトオキョオの夏花の名。

 背が高く、外灯に届くほどまで成長する。

 花が開くまでの成長期の間は、陽の光を追うように顔の向きを変える。

 花の中央には何百という種子がびっしりと詰まっている。種子は楕円形で白黒の縞模様、または黒色。種子は食用油として多く利用されているが、栄養価が高いことから食用としても利用されている。

 

「トオキョオの花? どうしてトオキョオの花が相原にあるの?」


「お姉さん。話を飛ばしすぎだよ。まず訊くのはこうでしょ? あたしが心咲ちゃんにあげた練香はそのトオキョオの花から作られているの? でしょ? もう。お姉さんったら、急きすぎよ」

  

 ヒマワリが相原に持ち込まれたのは四十年ほど前のこと。

 その時から現在に至るまで沙織の友だちのおじいちゃんが電陽を使い地下で百本ほどのヒマワリを栽培している。


「練香もね、そのおじいちゃんが作ってるの。もちろん、非売品。一年に三つしか作れないからね。稀少も稀少。そんな稀少な練香がね、盗られちゃったことがあったのよ。犯人はすぐに見つけられたんだけど、時すでに遅しで、どこかの誰かの手に渡っちゃってたんだ。世の中には考えているよりもたくさん悪者がいるのよね」

 

 話を聞いて訊ねたいことがいくつも生まれた。

 友だちのおじいちゃんはどうやってヒマワリを手に入れたのか、どんな人物なのか、ヒマワリが栽培されている地下というのはどこにあるのか。けれど、その問いが言葉を成す前に、ヒマワリについて教えられるのはここまでと沙織に先手を打たれてしまった。


「それじゃ次は二人が私にはるくんのこと教えてくれる? いつどこでどうやって出会ったのか。そのときはるくんはどんな感じだったのか。どんな装いをして、どんな様子だったのか」


「答える前に沙織も答えてよ。陽都はどこにいるの?」


「大丈夫。もう少ししたら会えるから。本当だよ。実は、はるくんはもう……。なんて、最近流行りの割れた太陽みたいなことにはなってないから安心して」


 割れた太陽? そんな大人向けの放送を沙織は見ているのだろうか。少しだけ見たことがあるけれど、思い出すだけで恥ずかしくなってしまう。接吻が多くて、しかも長くて。大人になったら、そんな恥ずかしいことにも目を背けなくてよくなるのだろうか。そうなのだとしたら、子供と大人の境目は千黒谷くらいに深いということになる。


「安心して。はるくんは元気だし、それにね、あたしの友だちが一緒だから。たとえ、獅那狭しなさが襲ってきたとしても大丈夫だよ。私の友だちが追い返してくれるから」

 

 象の体に獅子の顔を持つ凶暴な獣をも追い返せる友だち。

 私の頭に浮かんだのはもちろん、黒く長い刀を持った逞しい体躯のお兄さんだった。

 だから私は余計に心配になった。

 希吏夏きりかは最後に反旗を翻す。一太刀で獅那狭を切り倒した刀を共に戦った仲間に向ける。その友だちのことが心配で不安だ。

 そう伝えると、沙織は獅那狭なんて一刀両断と刀を振るう仕草をした。


「はるくんにいつどこで会えるのかは後でちゃんと教えるよ。だから、心咲ちゃん。はるくんにいつどこで出会ったのかをあたしに教えてくれる」


「約束だよ」


「うん。約束。あたしは約束は絶対に守る女だから」


 私だってそうだ。約束は絶対に守る女だ。私は小指を立てた。


「誓うよ。あたし程度の命でいいならね」


 ぎゅっと指に力を入れると沙織も負けじと力を入れてきた。ここで負けるわけにはいかない。私は思いきり指に力を込めて言った。

 

 この契り果たさぬは、この命散らすに同じ――――


 沙織も相当頑張っているようで、歯を食いしばりながら続けた。


 ――――果たすべき契り、今ここで交わさん


 小指を解くと指がじんと痺れ、上手く動かすことができなかった。私は小さく震える指をゆっくりと伸ばし、それから陽都を見つけた時のことを沙織に話した。竹ノ坂通りの入り口の側にある外灯の下。服を着たまま川で泳いだようにびしょ濡れだった。不安そうにあたりを窺っていた。声をかけてきたのは陽都の方だった。


「心咲ちゃんがはるくんを見つけた時、はるくんはどんな装いだったの?」


 肌着に膝下までの下履き。踝まで包む白い履き物。私は簡単に説明した。


「それって、今あるかな」


 私は亜紀さんを見た。


「あるわよ。しまってあるわ」


 沙織はぱちりと指を鳴らし、思がけと呟くように言った。


 亜紀さんは帳場の後ろの葛籠から陽都が着ていた服と履き物を取り出し帳台の上に乗せた。沙織は着物屋で気に入った品を見つけたように、嬉しそうな表情で一つ一つ手に取って眺めた。


「そう。めにいめん。そう。めにいまいんず」


 沙織は陽都の肌着を指でなぞりそう言った。


「ん?」


「考え方や嗜好は人それぞれ。十人いれば十人それぞれに違う。十人十色ってことよ」


「ん? なんの話?」


「って、そう記してあるの。ここに」


「沙織、エイゴ読めるの!?」


「ええ!? 心咲ちゃん、エイゴのこと知ってるの!? 驚きだよ」


 本当に驚きだった。


「陽都から教えてもらったの。沙織は、どうして?」


「知り合いから教えてもらったの」


「読むこともできるんだ……」


「ちょっとはね。これは有名というか、知れたエイゴだからね。でも、わからないことの方が全然多いよ」


「さっきから言ってるそのエイゴっていうのはなに?」


 そうだった。亜紀さんにはエイゴのことをまったく話してなかった。

 陽都から聞いた話を思い出しながら説明してみたものの、話をしているうちに私もよくわからなくなってしまった。そんな私を見て、沙織は声を出さずに肩を揺らして笑った。


「エイゴっていうのは、トオキョオの外の地域の言葉。こっちでいえば、都筑とか才田で言語が違うって感じ。簡単に言えばね。トオキョオがあるあちら側では暮らす地域によって言語が違うの。だから、いくつもの言語が存在するのね。で、そのいくつもの言語の中でも一番多く使用されているのがエイゴ。エイゴはあちらとこちらを繋ぐ共通的な言語なの」

 

 私は忘れないように沙織の言葉を頭の中で繰り返した。

 後で筆記帳に記しておかなければ。それにしても沙織は、沙織の知り合いは一体どうしてエイゴを? 答えてもらえないのを承知で訊ねてみたのだけれど、予想通り肩をすくめられ躱された。


「この履き物はね」


 沙織は私に片目を瞑り、亜紀さんに向かって言った。


「スニイカアっていうの。スニイカアっていうのはトオキョオでは性別年齢関係無しに履かれているの。相原にもこういう履き物があればいいのに。そうすれば、もっともっと楽になるのにね。そう思わない?」


 そう。スニイカアと陽都は言っていた。トオキョオではスニイカアが一般的なのだと。

 トオキョオのことを知っているどころか、まるでトオキョオに行ったことがあるような沙織の口ぶりに私は驚くよりも感心してしまった。


「ちょっと履いてみようかな」


「沙織、なにしてるのよ。やめなよ」


 沙織はスニイカアに足を入れると蝶結びの紐を締め直し、とんとその場で何度か飛んで見せた。


「最高! 想像以上だわ」


 軽くて、衝撃吸収に優れている。沙織は最高の理由をそう説明した。履いてみる? との誘いに、断りを入れながらも実際のところ私も履いてみたかった。その履き心地は私の知っているどんな履き物とも全然違っているのだろう。

 沙織は亜紀さんにもスニイカアを履いてみないかと勧めた。やっぱり、亜紀さんもきっぱりと断った。


「こんな機会そうないのに。もったいないな、二人とも」


 私は沙織の手からスニイカアを取り上げ肌着と下履きと一緒に葛籠の中に戻した。


「あっ。そうそうそうそう。一つ訊き忘れちゃってた。はるくんと出会ったのは四日前の何時?」


「九時半くらいだと思う」


 九時半くらい、だと思う。沙織は私の言葉をそっくりそのまま繰り返した。


「ありがとう。訊きたいことは全部訊けたよ。それじゃ、小指の契りに応えるね。九時にくさは隧道を抜けた先の七是ななぜさんのところに来て。目印は白地に黒の渦模様の唐傘。時間を守って、目印を見落とさないで」


「くさは? そうばじゃない? 草把隧道」


「えっ。そうばって読むの? なんだか、言いにくいわね。まあ、でも、その草把隧道を抜けたところに七是さんがあるでしょ? すっごく大きな。そこに来てくれれば、はるくんに会えるわ」


 九時に草把隧道の先の七是さんのところ。白地に黒の渦模様の唐傘。

 私は頷いた。


「はるくんのこと知ってるのは心咲ちゃんとお姉さんだけ?」


「武清さんも」


「ああ。お兄さんね。それじゃ、みんなで一緒に来大丈夫だと答えた。


「うん。これでばっちり。役目は果たしました。ではでは、ばいばい」


 ばい、ばい?

 沙織は、大きく手を振りながら竹ノ坂通りの方へと去って行った。


 ヤコウジョヤコウジョ

  ジョヤコウジョヤコウ


 遠くからまた最流奴の鳴き声が聞こえた。笑っているようにも泣いているようにも聞こえる細くて高い鳴き声だった。


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