三十一


 八時になり武清さんが帰ると、亜紀さんは茶箪笥の中から大袋の虹柳にじやなぎを取り出し座卓に広げた。


「今晩は女同士、包み隠さずなんでも話しましょう」

 

 亜紀さんは同じ目同じ口で問う側を決めてそれに答えていこうと提案してきた。

 亜紀さんに訊きたいことはたくさんあるけれど、私には秘密なんて一つもない。

 私は迷うことなく賛成した。


「それじゃ、心咲から始めて」

 

 私は一度目をきつく閉じ、唇を突き出してから掛け声を口にした。


「真似したら負けよ。同じ目、同じ口」

 

 右目を瞑ると、亜紀さんはどちらの目も瞑ることなく唇を突き出した。


「残念。次は私ね。行くわよ。真似したら負けよ。はい、同じ目同じ口」


 亜紀さんは左目、私は右目。唇は互いに一文字。私は亜紀さんに掌を向けた。


「勝っちゃった」

 

 亜紀さんは私の掌に掌を合わせ、嬉しそうに笑った。


「では、教えてもらいます。心咲さんがこれまでにした一番悪いことはなんでしょうか?」

 

 亜紀さんは虹柳を二本取り、皿琴を打つように振った。

 私は少し考えてから、お腹が痛いと嘘をついて学校に行かなかったことだと答えた。

 二年ともう少し前のことで、その時人気だった真希の最終巻を読むためだった。

 休みの日は予約でいっぱいで借りられなくて、読むには借り手の少ない平日のお昼を利用するしかなかった。けれど、家を抜け出し本屋を訪ねると、学校はどうしたのかと店員のお姉さんに問い詰められ、結局借りることができなかった。


「最終巻を読んだのはそれから一ヶ月後くらいになっちゃって。その一ヶ月は本当に辛かったな。どんな結末になるんだろうって毎日そればかり考えてた」


「真希は私も読んだわ。一年くらい前に全巻借りて一気に読んだの。最後の真希が優志を見つける場面にはずいぶん泣かされちゃったわ」

 

 本当にどれだけ泣かされたことか。真希は今でも私の中で一番の漫画だ。何度読み返しても、興奮して、緊張して、切なくなって、泣いてしまう。

 それから続けて二回負け、告白されたことはあるのか、男の子の夢を見たことがあるのかとの問いに、ないと答え、やっと私に問いの権利が回ってきた。

 私は以前訊こうとして訊けなかった問いを口にした。


「亜紀さんの、初恋を教えて下さい」

 

 美人で優しい亜紀さんの初恋。それはきっと、真希と優志のように素敵で胸を震わせるものなのだろう。

 亜紀さんは髪の毛で顔を隠し、「恋不知なの」と寂しげな様子を演じて見せた。だから、私はもう一度同じ問いかけをした。


「厳しいのね、心咲さん」


 亜紀さんは髪の毛を指でかき分け顔を見せると、可愛らしい咳払いを一つした。


「私の初恋は十五歳の時。相手は同じ学級の男の子。物静かな子で、いつも本ばかり読んでたわ。私の斜め前の席でね、前を向くといつもその子の横顔が目に入って」


「入って?」


「気づいたら、その子のね、横顔ばかり見ていたの。ずっとね、うん。ずっと、見ていたいって、思うようになって」

 

 亜紀さんの頬は少しずつ赤くなっていった。

 最後には耳まで真っ赤になり、亜紀さんは顔を手で覆い座卓に伏せてしまった。

 そんな亜紀さんがあまりにも可愛すぎて、私も一緒になって座卓に顔を伏せた。

 顔を上げると亜紀さんは「暑い、暑いと」手扇子で顔を扇いだ。そして、とても優しくて、誰からも好かれていてとその男の子の話しを続けているうちにまた顔が赤くなっていった。

 それからも私たちは同じ目同じ口を続けた。一つ問い、一つ答え、亜紀さんのことを知っていく度に私はますます亜紀さんのことが好きになっていった。嬉しいことに亜紀さんも、同じ目同じ口のお陰で私のことを知れてもっと好きになれたと言ってくれた。

 私は、亜紀さんに抱きついてしまわないように、太ももの上の手を丸に変え、ぐっと力を込め押しつけた。

 

 十時になり風洗を浴びると亜紀さんは涙爽を焚いてくれた。

 沈丁花のようなほのかに甘く爽やかな香り。涙爽を焚いたことは何度かしかなかったけれどその香りはよく覚えていた。

 陽都の使っていた布団を敷き、私たちは同じ布団に入った。こうやって誰かと一緒に同じ布団に入ったのは記憶する限り初めてのことだった。 

 動いたら亜紀さんの眠道の邪魔になってしまいそうで、私はじっと枯れ枝のように妖睡が訪れるのを待った。けれど、妖睡というのは本当に意地悪なもので、来て欲しいと望むときにはいつだって知らんぷりをする。


「眠れない?」


「ん? 大丈夫」


 私は天井に向かって言った。


「心咲。もう一つだけ訊いてもいい?」


「一つだけならね」


「初色、焚いた?」


「……まだ、だよ」


 青い薔薇が咲いた細い散歩道。

 私を導くように前を跳ねる蛙。

 空に浮かぶ遙米餅のような雲。


 あの日の夢は今でもはっきりと覚えている。


「そっか。ただ、気になっただけ。心咲はどんな人を好きになるのかなって」


「ないと思うけど、もしもそんな時が来たら亜紀さんにちゃんと知らせるよ」


「そう? それはとっても嬉しいわ。その日を心待ちにしてるわ」


 心待ちにされても困る。本当に、困ってしまう。

 私は薄闇に浮かぶ甚平羽織に胸の中そう呟いた。

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