三十

 

 夢殿に戻るまでの道すがら、私は陽都との出会いから昨日までのことを全て武清さんに話した。武清さんは一度だけ「陽都くんは心咲に会いにトオキョオからやって来たのかもね」と冗談を言ったけれど、ふざけて見せたのはそれきりだった。

 話を終えると、武清さんは陽都のことではなく、沙織と出会った時の話をもう一度聞きたいと言った。私はまた梢町で沙織と出会った時の話を繰り返した。落とした頬紅を沙織が踏んで割ってしまったこと。傷の手当てをしてあげたこと。沙織が自分のことを探し物の専門家だと言い、なくした筆記帳を見つけてくれたこと。ヒマワリをくれたこと。


「この間も言ったけれど、探し物の専門家と聞いて僕が思い浮かべるのは薫。薫の他に探し物の専門家は思い浮かばない。心咲が落とした筆記帳をすぐに見つけられた。筆記帳があったのは米屋の中。迷うことなく米屋に向かって訊ねるなんて、心咲の匂いを記憶して辿ったとしか考えられない。一才の嗅力でね。それに地下市場のことも。どうして沙織ちゃんが僕たちを助けてくれたのか。心咲の匂いを記憶していて、その匂いを辿りあの場に現れた。そう考える方が偶然と考えるよりも信じられる。でも、沙織ちゃんが薫だとは思えない。薫になるためには特別な訓練を要するというのはこの間話したよね? 五年間の訓練が必要だって。沙織ちゃんはどう見ても二十三歳以上には見えない。それに、薫だとしたら印があるはずだから。訓練を終えて薫になった証として絆授創の脇に八枝やつえだの印を打つんだ。小さくて目立たないものなんだけどね。沙織ちゃんの右腕にはその印がなかった」


 薫にそんな印があるなんて知らなかった。

 確かに沙織の右腕には蜘蛛の巣みたいな印はなかった。沙織の絆授創は、私のような煙を線に変え、その線を筆で払ったような複雑なものとは違って、とてもわかりやすくて単純だった。筆で赤く上からなぞれば猫に引っかかれた傷にしか見えないだろう。八枝のような印があったのならきっちり覚えているはずだ。


「どこでどう身につけたのかということは置いておくとして、沙織ちゃんは薫と同じくらい優れた嗅力を持っていると考えてまず間違いない。そして、心咲の匂いを記憶していたのなら、陽都くんの匂いだって記憶しているはず」


「陽都の匂い?」


「そう。ドグには独特な匂いがある。『雨揺街録うようがいろく』にそう記されているだろ? 知らない?」


『雨揺街録』は文体が古くて硬すぎて、始めの数頁をめくっただけで疲れて読むのを止めてしまった。トオキョオは雨揺街という名で語られ、私は我だし、言うが申すだったり、なんでもかんでも遠回しに記されていたり、とにかく少し読んだだけで胸が痩せてしまった一冊だった。『トオキョオ見聞録』は『雨揺街録』の後に手にしたこともあって、私はすんなりと導かれ、引き寄せられるように夢中になった。


「『雨揺街録』はだいぶ昔の文献だから内容もどこか想像ごとを記したようなところがあるけれど、ドグの匂いに関してはしつこいくらいに記されているんだ。雨の匂いがするってね」


「雨の匂い?」


「そう。雨の匂い。それは燦求花さんきゆうかの香りをずっと薄くして、そこに水光みずひかりをほんの少し落としたような香りらしい」


 それがどんな匂いなのかよくわからなかった。燦求花の香りはなんとなくわかる。薄荷のようなすっきりとしたあの香りだ。けれど水光に関しては理科一般の教科書でその文字を眺めたことしかない。


「『雨揺街録』ではその香りを雨香うこうと名付け記している。その香りはとても弱く、香索者こうしゃくしゃでも側に寄らないと気づけない。香索者というのは今で言う薫のこと。薫でも側に寄らないと気づけない香り。ということは、薫にしか気づけない香り。一才の嗅力を持っていなければ気づけない香りということになる」


 ドグだけが持つ香り。そういえば、沙織は陽都にこんなことを言っていた。


「陽都から白雨の匂いがするって。沙織、そう言ってた。珍しい練香を使ってるねって」


「白雨? にわか雨のこと?」


「それは、わからないけど。でも、確かにそう言ってた」


 武清さんは雨に手を濡らし、濡れた手を鼻に近づけた。


「白雨と雨香。きっと、匂いの専門家なら答えに近づけてくれるはずだ」


 人と唐傘でいっぱいの通りの向こうから紫陽花柄の羽織が揺れるのが見えた。

 唐傘も差さずに駆け寄ってくる亜紀さんを濡らしてしまわないように、私は人と唐傘の間を駆けた。



    *  *  *



 白雨。

 

 それは香りに携わる職業の人間ならば誰でも一度は耳にしたことがある練香。燦求花をはじめ七種の花から抽出した香りで作られている。

 その香りはとても薄く、練香として使われるのではなく、安眠用の寂香のように使われていた。

 原料となる花々については知られているけれど、配合については知られていない。 白雨を作るには爪先一つの微妙な配合が必要とされる。最後に作られたのはもう数十年前のことで、今では幻の練香としてその名だけが残されている。



    *  *  *



 亜紀さんはヒマワリを帳台に置き、そっと蓋を開けた。

 ひらりと落ちる花びらのように香りが鼻先に触れた。


「蒔璃野屋さんの主人にヒマワリのことを訊ねてみたの。そうしたら、蒔璃野屋さんの主人は私にこう言ったの」


 この香りについては知らない方がいい――――


「ただ、それだけ。それ以上のことはなにも言わなかったわ。沙織ちゃん、一体何者なの?」

 

 亜紀さんは、ヒマワリから沙織の正体を見極めようとするように目を細くした。

 武清さんを見ると、武清さんも亜紀さんと同じように眼鏡の奥の目を細めていた。 

 私はそんな二人の考えごとの邪魔と知りながら、訊きたかったことを言葉にした。


「陽都は、沙織と一緒なのかな?」


「そうだね。たぶん、沙織ちゃんと一緒にいる、と僕は思う」


 陽都は沙織といる。たぶん。

 沙織はどうして? 陽都がドグだと知っていたとしても、どうして? 沙織も私と同じトオキョオ病で、トオキョオについて知りたがっているのだろうか。

 沙織の強みと秘密とは一体なんなのだろうか。沙織のことを考えると頭の中がぐるぐるとおかしな回り方をした。 

 

 六時の報せ鼓が鳴ると、武清さんはおじいちゃんに電声をかけ今晩夢殿に泊まる許可をもらってくれた。

 武清さんが言うには、おじいちゃんは喜んで許可を出してくれたらしい。本当にどんな手を使っているのか。これからのためにも是非教えてもらいたいものだ。

 天道座市に夕飯を買いに行くと言った亜紀さんに代わって、武清さんが座市丼を買ってきてくれた。武清さんは予想と期待を裏切ることなく、「美味しい!」と舌鼓を打った。

 陽都も武清さんのように座市丼の味を誉め、こんなに美味しい丼は食べたことがないと箸を持つ手を休ませなかった。


「ねえ、武清さん。陽都、戻ってくるよね?」


「戻ってくるさ」


 武清さんは鶏肉を一つ私の丼に乗せた。


「もう少しで、トオキョオが消えちゃうでしょ。そうしたら、どうなっちゃうんだろう。トオキョオに帰してあげるって、陽都に約束したんだ。約束したのに……、陽都はいないし、これからどうすればいいのか全然わからないし」


「心咲。急いてはいけないよ。確かに、トオキョオはもう間もなく消失するみたいだ。トオキョオが消失してしまったら、そうだね、心咲が思うように陽都くんをトオキョオに戻すのは難しくなるのかも、しれない」


 私は項垂れた。


「でもね、心咲。物事は常に前へ前へと進んでいるんだ。停滞することはない。もしも、停滞してしまっているように見えているのなら、それは見方が良くないということ。物事を見る時は一つのことに目を凝らすのではなく、全体を把握しようと努めることが大切なんだ」


 とってもね。

 武清さんはそう付け加えた。


 把握。

 私の中には本当にその能力があるのろうか。把握という言葉を頭の中で繰り返す度に、把握すべき物事を見失い考えが迷子になっていく。もう一度能力検査を受けて、私の中に把握があることをこの目で確認したい。そうすれば、今よりもほんの少しくらいは物事を上手に捉えられるようになるかもしれない。


「大丈夫さ。陽都くんはきっと戻ってくるよ。僕のきっとはよくそのとおりになるんだ。自分のこと以外はね」


 武清さんの言葉は疑ったことがないけれど、きっと付きの言葉にはすんなりと頷けなかった。


「信じられない?」


 武清さんは、たぶん私の真似をして何度も大きく目を瞬かせた。


「心咲も鍵になる。というか、なっている。今のこの問題となっている物事を解決するためのね。だから、大丈夫なんだよ」


「私、が?」


 鍵? 陽都が戻ってくるための? 陽都をトオキョオに戻すための? 


「そう。心咲が」


「わからない……。どうして私が?」


「考えてみて」


 言われたとおりに考えてみた。これまでのことをまた辿り、糸口となる会話や行動を思い出そうとした。けれどやっぱりなにも浮かんでこなくて、結局また項垂れるしかなかった。


「心咲」


 くすくすとした亜紀さんの笑い声に顔を上げると、亜紀さんは笑みを湛えた表情でもう一度私の名を呼んだ。


「ん?」


 首を傾げると、亜紀さんの白い手が頬に触れた。


「心咲が答えを見つけられそうにないから、私が代わりに答えてあげたのよ」


「答え?」


 親指を立てた亜紀さんに武清さんは立てた親指を振った。

 大人二人が揃って笑う理由がさっぱりわからなかった。謎掛け? なのだろうか。腕を組み、もう一度考えてみようとすると、二人はもっと大きな声で笑った。


「心咲。由衣清さんが答えてくれたんだから、もうそれ以上考えることはないだろう?」


 その答えの意味がわからないから、考えさせられているのに。私は唇を尖らせた。


「心咲は私の大切なお姫様なのよ。大切な人のためならなんだってできる素敵なお姫様なのよ。そしてそれはね、私にとってだけじゃないの。心咲のことを素敵な素敵なお姫様だと思っているのは」


 亜紀さんは私の髪の毛に指を通し梳いた。私はじっと言葉の続きを待った。


「だから、荒木県くんはそう言ったのよ。大丈夫って。心咲が鍵なんだからって。そうでしょ?」

武清さんは亜紀さんに頷き、それから私を見て微笑んだ。


「陽都くんは必ず戻ってくるよ。なぜなら――――」


 心咲がここにいるのだから。

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