二十九
竹ノ坂通りを下り、射駒通りから牧野帳公園を抜け、遙米球乗り場を見渡し、糸井蹄第一公園を周り、
まさか、なにか事故にでも巻き込まれてしまっているのでは。
帰り道がわからなくなって迷子になってしまっているのでは。
浮かぶのは悪い考えばかりで、胸の焦りは不安へと変わっていった。
陽都はどこでなにをしているのか。今すぐに陽都のところへ行けたら。そう強く思ってみても私は当てにならない勘しか持ち合わせていない。
そう。勘といえば、
どうすればいいのだろう。「困った、困った」と独り言ちてしまうほど私は困り果てていた。
笹乃坂通り入り口を過ぎ、
苔が生え、ところどころが割れた石段を上がり、朽ちた紙柳を身を低くして潜ったその先の神社は、壁も屋根の瓦も苔に覆われ草木と一つになろうとしていた。
神抜き前は他区からも神見に訪れる人がいたと以前荒木県武則さんに聞いたことがあった。祀られていたのは病気平癒で有名な
ここに陽都がいるわけがない、か。
私は一応礼として呼鈴を鳴らし掌を合わせ、かつての誰かがそうしていたように「陽都と会えますように」と声に出し願いをかけた。
「その願い聞き受けたもうた」
声に驚き振り返ると、武清さんが立っていた。
眼鏡が黒縁に変わっていた。そのせいで私のよく知る武清さんに似た誰かのようだった。
「武清さん?」
武清さんは眼鏡の縁を大袈裟に持ち上げた。
「どうかな? これ」
「なんか、似合わないよ。前の方が良かったな」
「それはとても残念。心咲が気に入ってくれると思って選んだんだけどな」
私はふうんと鼻を鳴らし、ここにいる理由を訊いた。
「たまたま近くを歩いていたら、心咲が神社に入っていくのが見えたからさ」
じっと目を見つめると武清さんは両手を挙げて笑った。
「というのは少し嘘で、実は心咲を探していたんだ」
少し嘘。というのが武清さんらしくて私も笑ってしまった。
「由衣清さんのところを訪ねたんだよ。そうしたら陽都くんがいなくなって、ついでに心咲までどこかに行ってしまったって慌てていてね。それで由衣清さんに代わって僕が探しに出たんだ。そうそう。陽都くんのことも聞いたよ」
「陽都のこと?」
「聞いたというか、言わせてしまったというか」
陽都がいないと慌てていた亜紀さんに、陽都の家から連絡があったのかと訊ねたところ、亜紀さんは違うと答えたのだそう。違う? それならばどうして陽都がいなくなったとわかるのかと続けて訊ねると、亜紀さんは言い淀みながらも陽都が夢殿で寝泊まりしていると口にした。どうして、陽都が夢殿で寝泊まりを? 亜紀さんはしばらく黙った後、陽都がドグだということを武清さんに打ち明けたのだそう。
「ドグだって聞いて、顔を引っ張られるほど驚いたよ。でも、その後、ああ、だからかって納得した。色々気になっていたことがあったからね」
「気になっていたこと?」
「そう。まずは朧。陽都くんは朧を知らなかった。相原で暮らす人間なら誰だって朧は知ってる。知らないわけがない。舌がぴりぴりするだなんて、学校に上がる前の子供の口からだってなかなか聞けないよ。それとね」
武清さんは立てた人差し指を私の鼻先にすっと寄せた。
「心咲」
「ん?」
「半年前まで、男の子なんてみんないなくなればいいだなんて言っていた心咲が突然男の子と二人でうちを訪ねて来たんだから。それにその時の陽都くん。自分の名字を間違って言ったし、美成栄なんて珍しい名字にもなんか引っかかるものを感じたていたんだ」
武清さんに隠しごとをすること自体無理なことだったようだ。私は嘘がとても下手だし、武清さんはそんな私のことをよく知っている。もしかすると、私の知らない私も武清さんなら知っているのかもしれない。
「ごめんなさい。嘘吐いて……」
私はお腹に両手を添えて頭を下げた。
「そんな心咲らしくないことされるとこっちが困ってしまうよ」
「でも……」
「まあ、僕は最近蜜柑が入った遙米餅が好きということは伝えておくよ」
笑う武清さんに、私は大きく頷いた。
「武清さんは、信じてくれるの? 陽都のこと」
「もちろん。今僕が話したことも信じる理由だし、なによりも心咲と由衣清さんがそうだと言うのだから、疑う必要なんてどこにもないだろ?」
私は倖せだ。私と一緒にいる男の子はドグです。そんなおかしな話でもすんなりと信じてもらえる大人が側にいるのだから。しかも二人も。もっと早くに打ち明けていればよかった。どうして、武清さんに相談しておかなかったのだろう。逆さ時計を探しに出かけたくなってしまう。
「武清さんにもっと早く相談すればよかった」
「誰にだって秘密にしておきたいことの一つや二つあるものさ。心咲の年頃なら尚更ね」
武清さんにもあるのだろうか。秘密にしておきたいことが。
「そう。秘密といえば、ここの神社も色々と秘密を抱えているんだ」
武清さんは社の戸に貼られた抜き札を汚れを払うように二度撫でると、突然戸を押し開き空いた隙間に顔を押し込んだ。
神抜きされているとはいえ、そこは神の住まいだった場所。目の前で突然なんともなしに行われた神触りに、私は驚きすぎて言葉を発するどころか呼吸することも忘れていた。
「埃がすごいけど、中はそんなに痛んでないね。造りがいいからだな。昔の職人さんの腕には本当に驚かされる」
武清さんは戸を閉じ抜き札を手で撫で戻すと、「失礼しました」と呼鈴を鳴らし手を合わせた。私はそんな武清さんに手を合わせてしまいそうになった。神祟りに遭いませんようにと。
「ここの神社は、トオキョオによってもたらされたと考えられていた当時の流行病への対策として建てられたんだ。今から百六十二年前、いや。百六十三年前か。神社を建設して間もなく流行病は影を潜めた。それは流行病の収束とたまたま時期が重なっただけなんだけど、当時の人たちは錫留紫神の力によるものだと信じたんだ。噂が噂を呼んで、他区からも大勢の人たちが訪れるようになった。歴史文化会館には、その時ここの神社で販売されていた棒札が今でもあの頃のまま保存されているんだ」
トオキョオの厄災避けに建てられたとは知らなかった。それにしても昔の人たちはどうしてあんなにも素敵な光景を恐れたりなんかしたのだろう。どこからどう眺めたって、倖せを与えてくれる美しくて、未来的で、空想的な景色なのに。不思議で仕方がない。
「そして、神抜きされた理由も同じくトオキョオによるものなんだ。神抜きされたのは九十六年前。トオキョオの出現と共にまた流行病が広がってね。流行病から逃れようと、それまで以上に多くの人たちがここの神社に足を運んだ。人の列は連日鳥居の外まで続いていたというから、ここの錫留紫神がどれだけ信じられていたかということがわかる。けれど、それだけ信頼が厚かった分、失うのもまた早かった。流行病は収束するどころか広がりを見せ、さらに追い打ちをかけるように
なんだか悲しくて苛々してしまう話だった。当時に時間遡行できたら、私は大声で叫だろう。トオキョオは厄災なんて招かない。厄災を招くのは人間なんだって。なにかが起こる度に見当違いななにかのせいにしているからなんだって。勝手に祀って、勝手にあやかって。そんなことばかりしているから目の前の災いが大きくなっていくんだって。
私は去ってしまった神を呼び戻そうと、呼鈴をうるさく鳴らした。
それでもやっぱり錫留紫神の足音は聞こえてこなかった。
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