二十八


「起きろ、起きろ。いつまで寝てるんだ。いい加減にしろ!」


 私は避難するように夏布団に潜り込んだ。


「起きろ!」


 布団を引き剥がされ、もう一度今度はもっと大きな声で同じ言葉が繰り返された。 

 これ以上の抵抗は私自身を苦しめることになる。私は布団を放棄し、重い瞼を押し上げた。


「おは、よう」


「それは朝にする挨拶だ。今何時だと思ってるんだ? まったく」


 何時? 

 新鮮味を欠いた古ぼけた光に、私は慌てて蛙時計を手に取った。


 十二時半。


 蛙時計を設定しておいたはずなのに……。止めた記憶がまったくない。

 しかめ顔のおじいちゃんを見て、私は足を揃え体を小さくした。怒られるのにも準備が必要だ


「さっさと顔を洗え。夏休みももう終わるんだぞ。しっかりしろ」


 おじいちゃんはそれだけ言うと部屋から出て行った。


 どうして? 

 三日分くらいの説教が用意されていたはずなのに。なにがなんだかわからなすぎて、思がけとも思えなかった。


 顔を洗い居間に向かうと、座卓の上におにぎりと酸塊水、それに二番区名物の漣饅頭が置いてあった。


「なんだ? 食わないのか?」


 おじいちゃんはこの状況を訝しむ私を疑わしい目で見た。なにがなんだかという感じだったけれど、私は腰を下ろしおにぎりに手を伸ばした。


「分析もそうだが、洞察の方もおろそかにするなよ」 


 おじいちゃんは漣饅頭を一口囓ってそう言った。


「期末試験でも把握が低いと出たろう。お前のような三才はとにかく均衡が大切だ。均衡を保つことで発揮される力もある。把握を磨きながら、そこに追いつかせるように分析と洞察も鍛えていかんとな」


 一体なんの話をしているのだろう。

 さっぱり、まったく、状況を把握することができなかった。

 私はおにぎりを頬張りながら、とりあえず頷いておいた。私の頷きが見事だったのか、おじいちゃんは得心を得たように一度、二度、三度と頷いた。そして、「武清の両才はな」と話始めた。

 武清さん? そうか。武清さんがおじいちゃんになにか言ってくれたんだ。私は背筋を伸ばし神妙な顔つきで、おじいちゃんの話に耳を傾けた。


「分析も推測も昔から鋏で切り揃えたように均衡が取れていた。周りから見たら、それも才能なのだろうと思うかもしれんけど、それはあいつが努力したからだ。武清は両才であることをよく理解していた。理解していて、努力もした。だから、今ああやって、やりたかったことをやれてるんだ。お前もそろそろ、自分のことをよく理解してだな、将来のために、自分のためにと懸命に努力するんだな」


「わかった。がんばっ、……るよ」


 危なかった。頑張ってみる、と言ってしまうところだった。おじいちゃんの顔が明るくなったのを見て、私は私を誉めたくなった。同じような話に頑張ってみると答えて怒られたのは三ヶ月前のことだ。同じ過ちを繰り返さなかった私は愚か者ではない、ということになるだろうか。緩む頬を押し上げるのはなかなかに大変だった。

 それからもおじいちゃんは説教をするどころか注意の言葉さえ口にしなかった。二番区には送風管技師が少なすぎるだとか、最近の若い技師からやる気が感じられないだとか、そうした仕事の愚痴を一通り零し終えると、少し休むと言って自分の部屋へと戻っていった。

 さすが武清さん。改めて武清さんのことを尊敬した。おじいちゃんから怒りを取り払うことができるだなんて。しかも、すっかり、すっきりと。きっと、あと十年経っても私にはそんなことできそうにもない。


 武清さん、ありがとう。私は触屋の方角に向かって深々と頭を下げた。



     *  *  *



 東屋は変わらず人でいっぱいだった。

 多くの頭越しに超高層ビルの圧倒的な様を堪能してから私は夢殿を訪ねた。


『時綿売り切れました。明日十時より五十本販売予定です』


 入り口の扉にはそう記された札が下がっていた。

 明日もきっと今日と同じで、やっぱりなと思えるような売り切れ方をするのだろう。

 札を見てがっかりして帰って行く人たちを横目に私は戸を潜った。

 亜紀さんは帳場の奥で空き箱の整理をしていた。


「あら、お帰りなさい。どこに行ってきたのかしら?」


 寝坊して来るのが遅れてしまったと伝えると、亜紀さんは片眉を上げた。


「陽都くんは?」


「ん? 陽都?」


「一緒に出かけてたんじゃないの? ほら」


『ちょっと出かけて来ます』


 亜紀さんから受け取った紙にはそう記されていた。ばらばらの大きさの文字。それは確かに陽都の文字だった。


「どこに行ったのかしら。今日は時綿の入荷があったから八時には店に来たんだけど」


「亜紀さん」


 私は陽都が記したその紙を内隠しに入れた。


「ちょっと、辺りを見て来る」


「辺りって。ちょっと、心咲。心咲! どこに行くのよ」


 私は駆け出していた。どこに行けばいいのか、検討なんて皆目付かなかった。

 私は足に身を任せただどこかへと全力で駆けていた。

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