二十七

 

 別れ際、亜紀さんにヒマワリを貸して欲しいと言われた。断る理由なんてどこにもなく、私は喜んでその頼みに応じた。


「ヒマワリの秘密がわかったの? 蒔璃野屋さん、だよね?」


 亜紀さんは雨に口吻をするように唇を膨らませた。


「まだ、ひ、み、つ」


 ひ、み、つ。右頬、左頬、鼻。

 亜紀さんの指先は柔らかくて優しかった。

 私は逃げるように武清さんの隣に並び、可笑しそうに笑う亜紀さんと陽都に手を振った。



 家までの道すがら、武清さんは何度も大丈夫かと心配の言葉をかけてくれた。傾き、ひびが入った眼鏡。私は声をかけられる度に武清さんに同じ言葉を返した。

 家の前で改めて礼と謝罪をし、別れの言葉を口にすると、武清さんは私を一人にさせるのが心配だと言った。とても心配だから、触屋に泊まりに来ればいいと。それはとてもありがたくて、嬉しい申し出だったけれど、私は丁寧にお断りした。


「心咲、本当に、大丈夫? こんなことが遭ったんだから、遠慮なんか要らないよ」


 大丈夫。私は髪の毛を右に左に揺らした。


「ほら、それに親父も心咲が来たら喜ぶしさ」


「武清さん、ありがとう。本当に。でもね」


 明日の朝にはおじいちゃんが帰ってくる。その時に私がいなかったらどうなってしまうことか。今日だって何度も電声が鳴っていたはずだ。昨日も出られなくて、今日も出られなくて、しまいに明日の朝家にいないだなんてことになったら。怖すぎる。どれだけ長い間お小遣いを減らされることになるのか。考えるだけで目が潤む。私はもう一度丁寧にお断りした。


「そう。電声の件なら心配しなくていいよ。政嗣さんには僕から上手く言っておくから。心咲と一緒に区立図書館まで出かけたのだけれど、帰りになって突然僕の中から方向感覚が消えてしまったってさ」


「無理。絶対、怒られる。お小遣いを減らされるどころかなくされちゃうかも」


「大丈夫、大丈夫。心咲はなにも心配しなくていい。明日、政嗣さんが帰ってきたら政嗣さんの話に合わせればいい。大丈夫。絶対上手くいく」


「絶対だなんて、どうしてそう言えるの?」


「これまで大丈夫だと思って、大丈夫じゃなかったことは一度もなかったからさ」


 武清さんがそう言うのならそのとおりなのだろう、きっと。私は人差し指を立てた。


「ううん。やっぱり心配だな。でも、まあ。そうだね。うん。それじゃ、今晩は早く寝るんだよ」


 私は立てたままの人差し指を持ち上げ頷いた。


 武清さんは、亜紀さんが貸してくれた乙女色の水玉模様の唐傘をくるくると回しながら帰って行った。

 

 家の中に入ったと同時にお腹が鳴った。風動船の中で武清さんが買ってくれた胡麻団子を四つも食べたというのに、私のお腹はまだまだ食べ物を求めているようだった。手っ取り早く煎餅に水飴を塗って食べようと茶箪笥を開いたところ、なんという思がけ。私の大好物の栗羊羹が四つも入っていた。おじいちゃんたら、四つも買ってきていたなんて。栗羊羹好きは影響ではなく遺伝なのだろう。

 中の羊羹を傷つけないようにゆっくりと慎重な手つきで皮を剥き、私は切り分けもせずかぶりついた。栗羊羹を一個丸ごと食べるのは私の数ある夢の中の一つだった。栗と餡の絶妙な調和。私はあっという間に夢の一つを叶えることに成功した。


 風洗を浴び布団に潜ると、今日一日の出来事が一つ、また一つと印画のように浮かび上がってきた。どれもこれも自分が体験した出来事とは思えなかった。きっとそれは、明日になっても私ではない誰かが体験した出来事のように、私の記憶を曖昧に、するのだろう。


 歌観町通り。地下市場。百々香。遊羅さん。沙織。


   霰……。錠護守…………。

               かお…………る。

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