二十六

 

 霰を出て一つ目の路地の前で沙織は立ち止まりここでお別れだと言った。

 またね、と言うのもなんだか変だったけれど、さようならと別れの言葉を口にするのもなんだか変な感じがした。

 沙織は亜紀さん、武清さんと握手を交わし、次いで私の右手を握るのかと思いきや、差し出した私の手を躱して思いきり抱きついてきた。そして耳元で、「また会いましょうね」と囁いた。そのくすぐったさに体を離すと、「ヒマワリ大切に使ってね」と沙織は片目をぱちりと瞑った。


「そうだ。はるくん。ちょっとちょっと」


 沙織は陽都を手招きで呼び寄せると、私ににんまりとした笑みを見せながらこそこそと陽都に耳打ちをした。どうせ想像通りの仕方のない冗談を口にしているのだろう。陽都は一度は頷いたものの、はっとした驚きの表情を浮かべ、それから困ったように俯いた。私の想像は的中したようだった。


「それでは皆さん御機嫌よう」


 沙織はお腹で手を組み一礼すると、羽織の裾をひらりと翻し路地の中へと消えていった。


「本当に不思議な子だな。なんだか、狐に道案内された気分だよ」


 武清さんは沙織がまだそこにいるように狭い路地の入り口を眺めていた。


「でしょ? 妖女みたいでしょ?」


「そうだね」


 武清さんは苦笑を浮かべ傾いた眼鏡に手を添えた。そんな武清さんとは違って、亜紀さんは唇をきつく結び真剣な面持ちで武清さんの視線の先を見ていた。



 三番角南町さんばんかどみなみまちの看板を潜り大通りに出ると赤い羽織のはためきが目に付いた。

 亜紀さんと武清さんは、慌ただしく通りを行き交う錠護守の行方を目で追いながらなにかあったのだろうかと話していた。私は陽都に小声で、「あの赤い羽織を着た人たちが錠護守だよ」と教えてあげた。体の線に合わせた細い羽織に黒の野袴。羽織から袴にかけて大きく入れられた白い三本の爪の刺繍。こんなにも錠護守らしく忙しくしている錠護守を見たのはずいぶんと久しぶりというか、初めてかもしれなかった。


「なんか事件なのかな? あっ!」


 つい声をあげてしまった。

 その桔梗色は電映機で見るよりも鮮やかで、真っ赤な錠護守の間で一際目立って見えた。振り返った二人の大人に私は声を潜め言った。


「薫だ」


「ああ。心咲は見たことないか。三番区に薫が来ることなんてないからね。僕も三番区では一度も見たことがないな」


 そう。三番区で暮らし始めてから、薫を必要とするような事件が起こったことは、たぶん、一度もない。

 あまりにもじっと見つめすぎていたせいか薫と目がぶつかった。薫はお兄さんと呼ぶには難しく、おじさんと呼ぶには若く見えた。瞼から眉毛を越え額にかけて深い傷があった。その傷は威嚇的な目に、より鋭さと威厳を加えていた。私は逃げるように目を逸らした。


「心咲。これ以上、初めてのことを増やさないでちょうだいね」


 亜紀さんは柔らかな口調でそう言ったものの表情は険しかった。


 ――――あかおびだ。他にもけむりがいるかもしれない

   本当にあかおびなのか? 


   すみれがそう言ってるんだ。間違いない。気を抜くな――――


 錠護守の手の中で刃銃の鈍色の輝きが見えた。やっぱりここで事件が起きているようだった。亜紀さんを見ると、亜紀さんもその鈍色の輝きに目を引き付けられているようだった。亜紀さんは私に目を戻すと私の着物の袖口を掴んだ。


「急ぎましょう。日が暮れちゃうわ」



     * * *



 入り口の入り口らしくない装いとは違って、地上への出口はとてもわかりやすかった。


『歌観町通り五本目出口』


 遠くからでも一目でわかるほど大きな看板が天井から吊り下がっていた。

亜紀さんが壁の押鋲を押すと、鉄製の三枚扉ががらがらとうるさく開き、広く四角い空間がぽかりと口を開けた。

 昇降機は一度ごとりと大きく揺れ、それからたぶん、ゆっくりと上昇した。多くの買物をする商人たちのために六つある地上への出口のうち三つが自動昇降機になっているのだと亜紀さんは教えてくれた。

 扉が開いた先は護所の目の前だった。


「地下市場の出口は全て護所と繋がっているんだ」


「どうして出口だけなの?」


「ああ。そうか」


 武清さんは手を打ち、大きく頷いた。


「心咲が入ったのは商人専用の入り口だったからね。通行証を持っていればそっちからも入れるんだ。基本はね、入るときも護所の前にある入り口から入るんだよ。この一本目、二本目の辺りにはないけど、三本目、四本目、五本目と三つの入り口があって、僕は三本目の入り口から入ってきたんだ。一般用の入り口は入る前に身分証の提示とか色々必要なことがあるんだけどね」


 武清さんの言葉に応えるように亜紀さんは内隠しから『証』と記された札を覗かせた。


「輝煌屋さんも『あかし』を確認しないで入れるなんて不用心ね」


「なんか、すごく怒られたんだ。連れがはぐれてどうするんだって。ふざけてるのかって」


 亜紀さんは大きな声で笑った。


「ごめんね、心咲。そうね。私が言ったのよ。陽都くんのこと、仕事の連れなんだって。最近、若い子二人に手伝ってもらってるんだって。だから、そのもう一人も来ていると思って入れてくれたのね」


「僕は相手にもしてもらえなかったけどね。その由衣清さんの連れの子を探しに来ているから、僕もここから中に入れてくれないかって頼んだんだけど、まったく応じてもらえなかったよ。しまいにはさっさと出て行けって追い出されちゃって。それで、急いで三本目の護所から入ったんだ」


「昔はもっと自由に出入りできたんだけどね」


 亜紀さんは顔をしかめてそう言った。


「地下市場火災の後からこうなったんだ。もう一度同じ惨事を繰り返さないために、もう一度あのときの失態を晒さないようにね」


 それでは地下市場火災の前はどうだったのかと訊ねると武清さんは両手を広げた。


「通りに地下へと続く大きくて広い階段があったんだ。歌観町通りの三本目のど真ん中にね。蝦蟇の口って呼ぶ人もいたね。二十四時間出入りが自由で、規制なんてものは一切なかった。今はもう埋め立てられてしまってるからその痕跡すら残っていないけどね」


「武清さん、行ったことがあるの? そのときの地下市場に」


「一度だけね」


 武清さんは人差し指を立てた。

 亜紀さんを見ると、亜紀さんは両手を広げ「十度くらいだけね」と言った。


 歌観町通りを歩きながら、亜紀さんは火災以前の地下市場について話をしてくれた。現在と違い入場規制もなかったので歌観町通りよりも混み合う時も少なくはなかった。店の数も今よりも多く、それはまるで闇汁のようだった。一つの店の中に別の店が二つも三つも入っていたり、二階や三階の窓の手すりから商品を吊して販売しているところもあった。誰にお金を払えばいいのかわからない店とも呼べないところもたくさんあり、とにかく全てが混然としていた。


「あの頃は、地下市場で手に入れられない物はなかったんじゃないかな。鍵開け用の道具なんかも平気で店先で売られていたしね。探せば刃銃だって手に入れられたかもしれないわね」


 刃銃と聞いてさっきの錠護守を思い出した。あの刃銃は使用されたのだろうか。刃銃に手をかけなければいけないほどの事件。一体なにが起こっていたというのだろう。

 そういえば、沙織は大丈夫なのだろうか。事件に巻き込まれてしまったりしていないだろうか。沙織のことだから、大丈夫だとは思うけれど……。

 考え事をしていたら、カルメチに足を乗せるのを忘れていた。後ろから聞こえた苦情の声から逃げるように私は一つ先にあるカルメチを追いかけ、しがみつくように手摺りに腕を回した。



 空は灰色に霞み、雨が筋を引いていた。その雨を見て唐傘がないことに気づいた。あの路地で転がっているのだろう。お気に入りの唐傘だったのに。こんなにも早くお別れしてしまうなんて。これで来月のお小遣いのほとんどが唐傘に消えてしまうことになる。私は溜息を吐いた。


「気に入ってたのにな。あの、唐傘」


 胸の声を聞かれてしまったのかと思った。残念。武清さんは雨に片手を濡らし呟いた。


「どうぞ」


 亜紀さんが差し出してくれた唐傘に一度はお邪魔しますと入ったものの、私は隣で唐傘を広げた陽都のところへと移った。


「大人は大人。子供は子供。その方が良いような気がして」


 目を瞬かせる亜紀さんに私は言った。


「行こう、陽都」


 十歩進んだところで振り返ると、そこにはからかいたくなるようないじらしい二人の姿があった。二人の間には私が通り抜けられるくらいの間があって、武清さんも亜紀さんも腕半分を雨に濡らしていた。二人に睨めつけられる前に私は前を向いた。陽都も振り返ってすぐに前を向いた。顔を合わせると、私たちは声を出さないで笑った。体を揺らす私たちを見て二人がもっといじらしい様になっているのが目に浮かんだ。


「心咲。本当に、大丈夫?」


「うん、大丈夫。目を覚ました時はすごい頭が痛かったんだけど、沙織がね、その痛みを忘れちゃうくらい苦い丸薬をくれたの。本当に、びっくりするくらい苦かったの。あまりにも苦くて涙まで流しちゃった。でもね、飲んで十分じっとしていたら痛みはすっかりなくなったんだ。沙織のこと本気で妖女じゃないかって疑っちゃったよ」


「ごめん。僕のせいだよ。もっと早く、亜紀さんに心咲が来ていることを伝えていたら、こんなことになんてならなかった。僕のせいで……。本当にごめん」


「過ぎ去りし時に嘆くなかれ。今を尊び、明日に願いをかけよ」


 私は沙織が借りて言った左奈賢友邦というたぶん偉い人の言葉を又借りして言った。

 陽都は私を見て小さく微笑んだ。


「本当に気にしないで。全然大丈夫だから。ほら、それに、悪いことの後には良いことが待ってるって言うじゃない? これだけの目に遭ったんだから、きっと、ものすごく良いことが待ってるんだよ。ねっ!」


 私は陽都の肩を叩いた。陽都は、「痛いな」と肩を摩りながらもその表情はどこか嬉しそうだった。


 私の言霊が早くも倖運を呼び寄せたのか、乗り場に停車していた三番区行きの風動船は最新の型だった。旧式と比べると船体が細くなり、丸みを失った分長さが増していた。客席を覆う蓋は汚れ一つなく、中の様子をはっきりと見ることができた。

 人差し指を握ると、私が言うよりも早く陽都が「思がけ」と口にした。私は立てた親指を振りながら笑った。


「お倖せそうで、お二人さん」


 振り返り、そこに立つ二人の大人を見て私は顔を手で覆って笑った。武清さんも亜紀さんもさっきとは違って唐傘の中にしっかりと体を収めていた。誰が見たって、私と同じ事を思うはずだ。唐傘に収まる二人の姿は恋人にしか見えなかった。それも、恋人は恋人でも素敵すぎる恋人だ。


「いえいえ。そちらこそ、お倖せそうで」


 私は着物の袂を握りそう言った。

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