二十五

 

 通りから路地に入り、路地からまた細い路地に入り沙織が案内してくれたのはあられというかき氷専門店だった。けれど、かき氷専門店という看板を掲げながらも、品紙にかき氷は苺、杏、おぼろの三種類しかなく、ほとんどが酒と肴料理だった。

 

 店内は全て壁で仕切られた個室になっていて、天井から下がる媼羽おうなうを模した灯り細工が硝子の食卓の天板を虹色に輝かせていた。

 媼羽は本でよく目にする姿よりも可愛らしかった。深い空洞のような黒い瞳からは虹色の光が零れ、鎌のような鋭く長い爪はくるくると上手にまとめられていた。

 私は泣き腫らし重くなった瞼を懸命に持ち上げ、かき氷屋というにも呑処というにも似つかわしくないその雰囲気を目から吸い込むように眺めていた。


「心咲は? やっぱり朧?」


 かき氷といえば朧。朧といえばかき氷。前に一度亜紀さんとそんな話しをしたことがあった。


「亜紀さんもだよね?」


「かき氷といえば朧でしょ?」


 亜紀さんに微笑まれると、胸が飛んでいってしまいそうなほど嬉しくなった。


「陽都くんも朧でいい?」


 亜紀さんの問いに陽都は首を傾げた。


「朧っていうのは?」


「朧? 朧は……」


 亜紀さんは一瞬はっとした表情を浮かべたけれどすぐに和らげた。


「ああ。そういうこと? 大丈夫よ。ほら、この印画にあるのも皮はしっかり剥いてあるでしょ?」


 陽都は亜紀さんの機転に気づいていないようで、裏側でも覗こうとしているように品紙に顔を寄せていた。


「本当に陽都って変わってるよね? 朧は好きなのに皮は嫌いだなんて。私なんて朧の皮だけでも嬉しいけどな」


 食卓の下、私は膝で陽都の足を二度打った。

 私の合図に気づいてくれたのか、陽都は、「朧の皮を思い出すだけで気持ちが悪くなるよ」と顔を曇らせた。陽都の演技がなかなかに良かったせいか、武清さんも沙織も疑問を持つことなく、武清さんは杏を、沙織は苺のかき氷を選んだ。

 店員に注文を告げると、亜紀さんは着物の袖をまくり両肘を食卓の上に置いた。


「できれば簡潔に、でも大事なところは省かないでなにが起こったのか説明してもらえる?」


 亜紀さんは、沙織を見て、武清さんを見て、最後に私を見た。


 私は輝煌屋のところから話を始め、気づいたら沙織に助けられていたというところで話を終えた。

 亜紀さんは私の髪の毛を撫で、頬を撫で、自分の胸に私の顔を引き寄せた。


「ごめんね。心咲。怖かったでしょう」


 私は亜紀さんの着物の中で首を振った。


「申し訳ない。心咲がそんな目に遭ってしまったのは僕が不甲斐なかったせいなんだ。心咲が由衣清さんの後をつけていたように、僕も心咲の後をつけていたんだ」


 武清さんは私に話したときと口調が違っただけで、私が聞いた話を繰り返した。


「本当に情けない。保護者失格だ」


 武清さんは眼鏡を外し赤くなった鼻筋を指で摘まんだ。


「僕がもっと早く心咲に声をかけていたら、こんなことになんてならなかった。今回のことの責任は僕にある」


「過ぎ去りし時に嘆くなかれ。今を尊び、明日に願いをかけよ」


 沙織は小節を効かせ歌った。 


「ずいぶんと元気な佐奈賢友邦さなさとしともくにね」


 亜紀さんが笑うと沙織はもう一度歌った。今度はさっきよりももっと大袈裟に小節が効いていた。 


「お兄さん。なんとかかんとかじゃなかったとか、あれとかこれとかしていたのにとかされていたのにとか。反省は自分の胸で一人でするものでしょ。口に出したらただの同情買いになっちゃうよ」


「ああ……」


 武清さんは唖然とした表情で沙織を見た。


「そう。反省は一人でするもの。口に出したらそれはただの同情買い。吉野狭美南の言うとおりだ」


 吉野狭美南? 

 その名に瞬きが速まった。


「反省は己の内で行うべし。口にすべしは同情買い。『一介の歴史研究家にて』の第二節第一章冒頭」


「あれえ? お兄さん、まさか、歴史研究家だったり?」


 沙織はぽんと手を打った。


「まだ研究に取りかかったばかりだから研究家とは到底言えないけどね」


「研究を始めているのならそれはもう立派な研究家よ。すごい。びっくり。大感動。初めて会ったよ、本物の歴史研究家に。そうよね。吉野狭美南のこの言葉を知ってるのは歴史研究家くらいよね。どうしよう。初めての歴史研究家よ」


 かき氷が運ばれてきても沙織はそれに目もくれず、すごいと感動を繰り返し続けた。

 かき氷はとても個性的な形をしていた。豆腐のように四角く整えられ、真ん中に空いた穴にそれぞれに違った色の砂糖蜜が入っていた。そんな見たこともない豆腐的なかき氷から目を逸らすことができたのは、また吉野狭美南の名が飛び出したからだった。


「歴史研究家の人たちから見たら異端児っていうか、駄目人間でしょ? わかりやすく言えば」


「と、考えている人が多いね」


「あれ? ということは、お兄さんはそう考えてないんだ」


「吉野狭美南が残した功績は目立っていないだけでとても大きい。それは確かなことだから」


「大井艾通りの廃止も?」


「まあ。功績と言えるかどうかは別として、それも彼の残したことの一つだね。あの頃は反感が大きかったかもしれないけれど、来生丙通りは今はとてもよく機能している。あの頃からは想像もできなかったほどにね」


「じゃあ、『トオキョオ見聞録』は? 吉野狭美南の功績と考えていいの?」


「と、僕はそう思っている」


 と、が多いと沙織は笑った。赤い唇から白い歯が零れ、ぱたりと閉じた付け睫毛が目を覆った。


「脱線はそこまでにしていただけるかしら。溶けてしまう前にいただきましょう。そして、いただきながら、次は沙織ちゃんの話も聞かせてもらえるかしら?」

 

 沙織は大きく肩をすくめ大袈裟に驚いたふりをした。

 沙織のその仕草に亜紀さんが髪の毛を揺らすと、沙織は珍しい金属製の匙の柄の部分をつまみ振った。ぐにゃりぐにゃりと匙がねじれているように見えた。


「強みと秘密のお話ね?」 


 首を傾げる亜紀さんに沙織は満面の笑みを浮かべて見せた。


 沙織は私と武清さんに説明した話をそのまま亜紀さんにも伝えた。

 改めて聞いても不意に落ちなくて、理解しがたい話だった。亜紀さんは私と武清さんがそう訊ねたように、どうして兜鼠はそんなにも簡単に引き下がったのかと沙織に訊いた。その問いかけに沙織は「種を明かす手品師は手品師とは言えないでしょう?」と私たちに言ったような言葉で返した。

 その沙織の煙に巻くような答えに、亜紀さんは「そうね」と意外すぎる言葉で受け止めた。

 沙織は嬉しそうに目を細め、「話がわかる大人は大好きよ」と亜紀さんの手を取って、ふっと息を吹きかけた。


 かき氷は時間が経っても全然溶けなかった。

 沙織の話によれば「そういう氷だから」なのだそう。そんな不思議なかき氷は味に関しても普通とは違っていた。それは私がこれまで食べてきたかき氷を否定するかのような美味しさだった。雪綿のような柔らかな氷と朧の甘さの調和は芸術的だった。


「あら? はるくんどうしたの? あまり匙が進んでないじゃない。まさかのまさかで、ここの朧が合わないとか冗談のようなこと言わないわよね?」


 沙織の言葉に陽都は気まずそうに舌で唇を舐めた。


「美味しいよ、すごく。でも、なんかちょっと舌がぴりぴりするっていうか」


「舌がぴりぴり? なに言ってるのよ、はるくん」


 陽都は舌を出し、体をぶるっと震わせおどけて見せた。


 私も子供の頃はそうなったものだ。

 そんな私におじいちゃんが悪い子は朧を食べると舌が痛くなって取れてしまうなんて言ったものだから、私は夜布団の中で何度も舌が取れていないか指で触って確認したものだった。


「子供らしさを販売できるのは十歳までよ。もうっ」


 沙織は匙を振った。匙の先から氷の飛沫が飛び陽都の髪の毛に落ちた。


「あっ。ごめんね、はるくん。ごめん」


 陽都は髪の毛をかき上げ飛沫を払った。


「ごめんね、心咲ちゃんも」


「どうして、私に謝るのよ」


「どうしてなんでしょう?」


 沙織がからかうように片目を細めたので、私は眉間に皺を寄せて見つめてあげた。


「だから冗談だって、じょ、う、だ、ん。本当に心咲ちゃんには敵わないな」


 私の眼力がついに神通力を纏ったのか天井の照明が一瞬ふと消えた。

 唇を曲げ黙っていると、沙織は立ち上がり帯紐を締め直した。


「それではあたしはそろそろお暇しようかしら。心咲ちゃんに本気で怒られる前にね」


 沙織の言葉に提時計を取り出して見るともう五時を回っていた。今すぐに帰路についても家に着く頃には九時近くになってしまう。私たちもそろそろ帰らなければならない時間だった。 

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