二十四
さらさらと音を立て流れる川を見ていると、ここが地下だということを忘れてしまいそうになった。
飛び越えるには難しいけれど渡るには短いどこでも目にするありふれた川で、そこにはきちんとした橋まで架けられていた。川には魚はいなかったものの、ごつごつとした石がところどころで顔を出し水の流れに悪戯をしていた。
私は沙織の後に続く武清さんの後ろをついて橋を渡り、二番角町屋と天井から吊された看板の通りを進んだ。
沙織は、百年以上前の文献しか扱っていないという
引き戸の前に立つと中から声が聞こえた。武清さんは、引き戸を開けられないでいる私の肩を一つ優しく叩き、それから静かに引き戸を引いてくれた。
「路地に入り込んでしまったのかも。路地の中は探してもらえないのですか?」
どうすればいいのかわからなくて、私は目の前で咲く紫陽花をただ見つめることしかできなかった。
「まだ子供なんです。十五歳なんです。ええ。それはわかってます。私の不注意です」
亜紀さんは私に背を向けた格好で、台座に肩肘をつき、強風の中で唐傘を差すように電声を引き寄せていた。
二番角と記された紺色の半纏を着たおじいさんは亜紀さんの向こう側で一人困り果てたように頭を掻いていた。
武清さんに背中を押され一歩足を出すと亜紀さんの隣で俯いていた陽都が振り返った。
陽都は私を見て目を丸くしたけれど、私が顔を皺くちゃにすると、同じく眉間に皺を寄せ唇をすぼめた。
「最後に見たのは百々香の店主です。はい。そうです。一番角の。はい。四時間前です。だ、か、ら! 一番角の路地から
「亜紀、さん」
「朱雀路に出たのはまず間違いないです。地図も持っていたので。百々香の店主が記してくれたんです。さっきも話したじゃないですか」
「亜紀さん」
勇気を振り絞ろうとするとそれだけ声が小さくなってしまう。
「亜紀さん!」
私がそうしたかったように陽都がそうしてくれた。
振り返り私を見つけた亜紀さんの表情は、想像していたよりもずっと深い場所へと私の胸を沈めてくれた。
亜紀さんの顔には悲しみも喜びも驚きも浮かんでいなかった。平板な眼差しは、まるで胸をすっぽりと抜かれてしまったようだった。
ごめんなさい。
そう口にしたくてもできなかった。
言葉は口の中で散り散りになり、唇の間から抜け出たのは微かな吐息だけだった。私は亜紀さんの表情にも体をきつく縛るこの場の雰囲気にも耐えられず、紫陽花の根を探すように目を下へと下ろした。
「ご迷惑をおかけしました。すみません。もう大丈夫です。はい。ええ。解決しました。本当にご迷惑をおかけしてすみませんでした。はい。失礼します」
声と同じく、電声を置く音もどこか冷たく聞こえた。
通りを行き交う荷車の音も話し声も、壊れかけた電映機から聞こえる音のように乾いて聞こえた。
亜紀さんはなにも言わなかった。
私の胸はぎゅっと絞り上げられたように苦しそうな音を立てていた。許してもらえるようなことではない。行ってはいけない。しかも絶対に行ってはいけないと小さな頃から叩き込まれてきた場所に勝手について行って、勝手に大事に巻き込まれたのだから。怒りたくても、怒りが込み上げてこないほど私にがっかりしているのだろう。
私に悪気があったわけではないと武清さんは弁明した。二人がどこに行くのか気になってついてきてしまっただけなのだと。けれどその言葉も私には苦しかった。
亜紀さんは着物の袖をすっと広げただけで武清さんの言葉にはなにも言わなかった。そして、無理矢理報せを読み上げさせられたような抑揚を欠いた声で私の名を呼んだ。亜紀さんがずっと遠くに感じられた。肩が震えて、鼻の奥がつんとした。私は涙を零してしまわないように上を向いた。
「私がちゃんとしてあげなかったから。こういうことになったのね」
そうではない。それは私以上に亜紀さんがわかっているはずだ。突き放すようなその言葉が辛くて、痛くて、悲しすぎた。
「今度ゆっくりとちゃんと教えてあげるから」
亜紀さんは私の頬に触れ、そっと顔を持ち上げた。一つ涙を零してしまうと、咳を切ったようにぼろぼろと涙が頬を滑って落ちた。
「白粉は叩きすぎだし、目張りの量は多すぎるし、眉墨も少しはみ出ちゃってるわ。紅も塗りすぎよ。せっかくの化粧もこれじゃちょっとね。一度落とさなきゃ。化粧落とし、あったかな。次に化粧するときはちゃんと私に教えてちょうだいね。私がきちんと綺麗にしてあげるから。心咲をもっともっと」
素敵な女の子にしてあげるから――――
ごめんなさい。
亜紀さんに届いただろうか。声はきちんと言葉になっただろうか。
私は亜紀さんの胸の中でそう考えていた。
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