二十三


「心咲! 心咲!」


 うるさい声に頭が酷く痛んだ。

 精一杯の力で瞼を持ち上げると、目の前に武清さんの顔があった。


「大丈夫か?」


 大丈夫? 心配されている? 私が? 

 どうして武清さんがいるのだろう。

 眼鏡にひびが入って瞼に傷が付いている。頬にも赤い擦り傷がある。

 どうして、怪我をしているのだろう。

 疑問が浮かぶ度に頭が割れそうになった。


「はいはい。うるさく話しかけない。どいてどいて」


 黒地に浮かぶ赤い蓮の花。


「わかる? 心咲ちゃん」


 さすがに昨日のことまでは忘れられない。

 相変わらず化粧がしっかりと決まっている。付け睫毛も桃色の頬紅も赤い紅も昨日見たままだ。私は遅い瞬きで返事をした。


「これ。飲むとすぐに楽になるから」


 茶色の、丸薬? だろうか。白い指先から唇で受け取り口に転がし入れた、のだけれど。あまりの苦さに吐き出してしまった。それは衝撃的というに相応しい苦さだった。その苦さに重かった瞼もぱっと跳ね上がった。


「駄目よ。ちゃんと飲み込まなきゃ。ちょっとだけ我慢して。飲み込んじゃうまでの我慢だよ。良薬口に苦しっていうじゃない? 苦ければ苦いほど良く効くのよ、薬は」


 苦くなくてもよく効く薬はたくさんあるし、わざわざ苦みを前面に押し出す必要はない。苦ければ膠嚢に入れればいいのだし。これほど耐えがたい苦さなのだからそうするのが当然だ。私はきつく口を閉じついでに目も閉じた。


「もう。心咲ちゃん。子供じゃないんだから、薬くらいちゃんと飲みなさい!」


 頬を摘ままれ開いた唇の間から丸薬を放り込まれた。舌に触れた瞬間反射的に吐き出してしまったのだけれど、飛び出した丸薬を掌で押し返され、そのまま口を塞がれた。

 苦すぎて剥がれ落ちる鱗のように涙がぼろぼろと頬を流れ耳を濡らした。意識が頭から離れてどこか遠くへと出て行ってしまいそうだった。


「心咲ちゃん、水。いい? 水飲ませるね。一気に行くから。絶対に吐き出しちゃ駄目だよ」


 水呑の水で溺れてしまわないようにするには口の中いっぱいの水をとにかく飲み込んでしまうしかなかった。ぐっ、と詰まった音を立て喉を水が通り過ぎる度に苦さは薄れていった。そして、去った苦みと入れ替わるように再び頭痛がやって来た。


「はい。頑張ったね、心咲ちゃん。それじゃ、これからもう十分だけ頑張ってね。十分経ったらお話ししましょう。はい。それまで、目を瞑ってなにも考えない。十分経ったら呼んであげるから」


 私は言われたとおりに目を閉じた。

 目を閉じると余計に頭が痛んだ。まるで頭の中を大蛇が這い回っているかのような律動的で重い痛みだった。

 たったの十分でこの痛みが去るだなんて、冗談にしても大袈裟すぎる話だった。けれど十分後、私は別の人間になったようにすっかりと痛みから解放されていた。


「沙織。本当に妖力使いとかじゃないよね?」


 私が飲まされた丸薬は、蜥蜴の尻尾や鼠の髭なんかを混ぜた妖力使いの秘薬だったのではないか? と、本気でそう思ってしまうほど私を苛んでいた痛みは綺麗さっぱり消えていた。


「二本柳沙織、十七歳。至って普通の女の子です。どうぞよろしく」


 沙織は私にちらりと舌を見せて笑うと、武清さんに頭を二度下げた。そして、「心咲ちゃんのお兄さんですか?」と武清さんに向かって首を傾げた。


「実の兄ではないけど、兄のような感じかな」


 武清さんは困ったような顔を私に見せ、それから「荒木県武清です」と沙織に向かい合った。


「まさかの恋人じゃないですよね?」


「違う」


 私は間髪入れずに言った。


「いや、だって。心咲ちゃん、昨日会った時と全然違うから。昨日は化粧なんて全然してなかったじゃない? それも、結構しっかりしてるし。だから、大人のお兄さんと釣り合うように背伸びしてるのかなって思って」


「違う」


「でもさあ」


「違う!」


 私は沙織を睨めつけた。


「武清さんは小さな頃からお世話になってるお兄さん。うちのおじいちゃんと武清さんのお父さんが昔からの知り合いなの」


「そうなの? それならそうと最初から言ってくれればいいのに」


 ふうん、と鼻を鳴らした沙織を私は閉じてしまうくらい細い目で見た。


「そういう話は後にして、まずはこの状況を説明してくれる? なにがどうなってるのか全然わかんないから」


 どうして沙織がいるのか。どうして武清さんがいるのか。


「僕からもお願いできるかな。なにがなんだかさっぱりわからないんだ」


 武清さんは眼鏡を手の甲で押し上げた。こうやって近くで見ると、割れているだけではなく、全体的に左に傾いてしまっている。


「そう? そんなにまでお願いされたら話さないわけにはいかないわね。それじゃ、二人の気持ちに応えて、話させていただきましょう」


 沙織は胸を張り、得意げな表情を浮かべた。


「私があの路地に入った時」


 沙織はそう話し始めた。


 そこには四人の人間がいた。私と武清さんと二人の男。

 私と武清さんは地面に横たわっていた。男のうちの一人は私と武清さんの体を物色し、もう一人は鞄を逆さにして中身を地にばらまいていた。化粧道具が財布が筆記帳がアメコルが、そしてヒマワリが地に散らばった。

 兜鼠かぶとねずみ。最近地下市場を中心に窃盗を繰り返している一味だと沙織はすぐに気づいた。私と武清さんの体を物色していた男の腕に兜鼠の印である兜を被った鼠の入れ墨が見えたからだ。鼠は髭と歯が異様に長く歪形され、兜にはその入れ墨を説明するように鼠と彫られていた。


「兜鼠は最近できた窃盗団でね。なにを考えているのか名前を売りたがっているの。あの落書きみたいな鼠の入れ墨もその一つ。牛蒡ごぼうにもしっかりと悪戯鼠が掲載されているわ。馬鹿よね。歌観知らず丸出し」

 

 牛蒡というのは裏手配紙の隠語なのだそう。牛蒡は月に一度一日だけ地下市場の四番角と呼ばれる場所にある触屋に掲載される。牛蒡に掲載されているのは、錠護守が就縛に難航している危険かつ足取りの掴めない手配犯や手配団なので、町で目にする手配紙の三倍以上の報奨金がかけられている。そのため、牛蒡に掲載されている手配犯や手配団と同じような悪党が報奨金目当てで錠護守に協力し、牛蒡抜きと呼ばれる手配犯探しを行うことも珍しくない。悪は悪で制す。錠護会は追う悪の数を減らした方がより効率的に悪を滅することができると考えているらしい。


「それで、あたしは鼠さんたちに言ったのよ、やめなさいよって。あたしの知り合いなのって」


 すると、二人の兜鼠はわかりましたと言って去り、沙織は私たちのことをここに運んで手当をした。


「それで現在に至っているの。よくわかった?」


 私は武清さんを見た。武清さんは沙織の話を続きを待つように神妙な顔つきで沙織を見ていた。

 沙織は私に顔を寄せると、「今回のことは心咲ちゃんの不用心さが招いたことなのよ。地下市場を荷物も持たないで、こっぽり下駄を鳴らして歩くなんて。どうぞどうぞ、私から全部持って行って下さい。おまけにあたしもどうぞって言ってるようなものよ」と私の額を指で突いた。


「沙織?」


「これで貸し一ね。私は貸し借りにはすっごくうるさいから、いつかきっかり返してもらうからね」


 私はもう一度沙織の名を呼んだ。


「それはわかったよ。ちゃんと返すから。それよりも」


「うん? なに? それよりも?」


「わからないんだけど」


「どうやって返せばいいのかってこと? それは考えておくから。大丈夫、大丈夫。心咲ちゃんの水着姿を印画に収めさせてなんて変なことは絶対に言わないから」


 違う。そういうことではなくて……。


「どうして、その兜鼠の二人は君の言葉で簡単に去って行ったんだい?」


 そう。私が訊ねたかったのはそういうこと。

 武清さんは続けた。


「追い剥ぎ中の凶悪な手配団が女の子の一言で、はい。わかりました。だなんて」


 そうそうそうそう。あり得ない。


「誰にでも強みと秘密があるでしょ? その強みと秘密が解決してくれたのよ」


「わからない」


 武清さんは首を振った。


「それはそうでしょ? 秘密なんだもの。手品師だって手品の種を絶対に教えないでしょ。あたしも同じ。あたしが二人を悪者鼠から救った。言えるのはそれだけ。結果、めでたしめでたしなんだから、それでいいんじゃない?」


 武清さんはそれ以上なにも訊ねなかった。私も武清さんがそうしたようにそれ以上沙織になにも訊かなかった。沙織が私たちを凶悪犯から救ってくれた。その方法は霞の中にあるとしても、こうやって無事にいられることには感謝しなければならない。あれ? そう。一つ大事な疑問を放っておいてしまっていた。


「どうして? どうして、武清さんがいるの?」


 武清さんは吐き出すのを忘れていたようにふうっと大きな溜息を吐くと私の頭に優しく拳骨を落とした。


「変だと思っていたんだ。昨日の夜心咲のところに行った時、玄関に大人びた着物や化粧品が散らばってて。あと、それにその下駄。あまりにも心咲らしくなくてね。ああ。これは、絶対になにか企んでるぞって思って、今朝親父に頼まれて勢田頭せたがしらさんの家に報せを届けに行った後、隠れて様子を覗っていたんだ。そうしたら、心咲じゃなくなった心咲がかたかた音を鳴らしながら家から出てきて。自分の目を疑ってしまったよ。それから、ずっと後をつけていたんだ。一番区方面に向かう遙米球に乗った時から悪い予感がしていたけど、まさか本当に地下市場に向かうだなんてね」


 こつり。

 もう一度頭に拳骨が触れた。


「ごめんなさい。亜紀さんと陽都が今日地下市場に行くって聞いて。私もどうして行きたくて、こっそり後をつけてきたの」


 私は正直に言った。


「見てたよ。風動船の後ろで二人を見てたことも、団子を食べながら二人が定食屋から出てくるのを待ってたことも全部知ってる」


「ごめんなさい」


「でも、まあ。今回のことはね」


 武清さんは私の肩に手を置いた。


「政嗣さんには言わないでおくよ」


 行くことを禁じられている一番区の地下市場にこっそりと忍び込んだだけでなく、凶悪な手配団の一味に襲われたというおまけまで付けてしまったのに、どうして?


「だって、言えないだろ? 心咲を助けようとして助けられなかっただなんて」


「ん?」


「心咲が男に襲われたのを見てすぐに飛び出したんだ。でも、気づいたら僕もここにいた。後ろからもう一人の男に頭を殴られたんだと、思う」


「たぶん、正解」


 沙織は親指を振った。


「良かったじゃない? やっぱり秘密が解決してくれるのよ」


 苦笑しながらも武清さんは沙織の仕草を真似た。そして、そんな武清さんの仕草に倣って私は人差し指を立てた。



     * * *



 驚いたことにここは欅屋の隣の元絵画店の地下だった。

 今の所有者である沙織の知人が個人的な寛ぎ場所として利用しているのだそう。

 部屋は随分と古かったけれど部屋全体に古美術品のような趣があり、確かにここならばゆっくりと静かな時を過ごせそうに思えた。柱に浮かぶ年輪も、その柱にかかる柱時計も、私が寝ていた彫り細工が施された木の寝台も、寝台の脇の真鍮の取手が付いた置台も、それぞれが格式のある宿の一室のように存在を強調しながらも見事に融和し一つの空間を演出していた。

 沙織は茶の若葉を発酵させて作ったコウ茶という茶を入れてくれた。味は渋みが強く私には合わなかったけれど、沙織から香る練香みたいな柑橘系の香りは胸を落ち着かせてくれた。武清さんは香りも味もどちらも気に入ったようで、沙織にどこで手に入れることができるのかと訊いていた。沙織はまた秘密という三言の言葉で問いを躱していた。


 柱時計が三時の鐘を鳴らしている時、沙織の携帯電声が虹の子夢の子を鳴らした。愉快な着信音も個性的だったけれど、耳をすっぽりと隠す蝸牛型の電声はそれ以上に個性的だった。

 会話の中に私の名前が登場したので、私は紅茶を啜りながら、沙織の電声の声に聞き耳を立てていた。電声から微かに漏れてくる声からすると相手は男の人のようだった。沙織は倒れていた私と武清さんを自分がここまで運んできたのだと電声の向こう側に伝えていた。

 電声を終えると、沙織は着物の襟元を合わせながらなんでもないように言った。



 心咲ちゃん、なんだか探されてるみたいだけど、と。

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