二十二

 

 戸だった壁の先には石畳の通りが延びていた。通りの左右には様々な店が雑然的にひしめいていた。


『歌観町地下市場へようこそ。掏摸にはご注意を。一番角町屋商工会』


 通りの端でひっそりと注意喚起する立て看板にはそう記してあった。

 地下市場? ここが? 私は改めて辺りを見回してみた。天井には管のように細く長い照明が無数に通され、その周りには送風管が蔦のように複雑に絡み合っていた。どの店先にも木の枝を模した石造りの灯籠があった。

 歌観町通りほどの賑わいはないものの通りはそれなりに人が行き来していた。

 皆大きな鞄を持ち、急かされているように忙しく商品を手に取っていた。その光景は想像していた地下市場の様子とはまったく違っていた。歌観町通りの方がもっと刺激的で現実離れしているように見えた。


 亜紀さんは通りに出てそう遠くない百々香という店にいると輝煌屋のおじさんは言っていた。けれど、進んで行くにつれ通りから生えるように路地が多くなり、その路地の中は互いに押しつぶそうとしているかのように店々がぎゅうぎゅうに詰まっていた。あちらこちらに立てられ、下げられた看板はもうどこの店のものなのかさっぱりわからなかった。そんな路地の一つから私が百々香を見つけられたのは、親切にも通りに一際目立つ大きな看板が掛かっていたからだった。


『夢香専門店 百々香 三十歩先二階』


 きっちり三十歩先にあったのは携帯電声屋で、そこから五歩歩いた先の建物の二階に百々香はあった。


『貴方の夢香探しをお手伝いします 百々香』


 二階にはそんな看板がかかっていた。ぎいぎいと螺旋を巻くように鳴る階段を上りながら私は初めの一言を考えていた。来ちゃった。ううん。これでは軽すぎる。二人がどこに行くのか気になって後をつけて来ちゃった。これかな。いや。二人をたまたま糸井蹄通りで見かけて、どこに行くのかと後をつけて来たんだ。これがいいかな。それからちょっと俯きがちに反省している様子を見せればなんとかなるだろう。ここまで来てしまったのだから追い返されることもないだろうし。私は一つ深呼吸をしてから店の戸を引いた。

 緊張していた分、体から力が抜け危うく転んでしまうところだった。店には亜紀さんも陽都もいなかった。いたのはたぶん店主だろうお姉さんだけだった。お姉さんは私と目がぶつかると優しく微笑み、さらりとした長い髪の毛を揺らした。亜紀さんと同じく、どこからどう見ても美人で品のある素敵なお姉さんだった。


「すみません。こちらに白い紫陽花柄の着物を着たお姉さんが来ませんでしたか?」


「白い紫陽花柄の着物?」


「はい。亜紀さんという人なのですが」


「亜紀さん? 由衣清よしいさやかさんのこと?」


「由衣清さん?」


「由衣清亜紀さんのことでしょう?」


 そういえばこれまで亜紀さんの名字を聞いたことがなかった。


「名字はわからないんですけど、あの、三番区の牧野帳公園の上にある夢殿の……」


 お姉さんは頷くと、「そうね。私の知っている由衣清亜紀さんも牧野帳公園を見下ろせる夢殿にいるわ」と柔らかい表情のままそう言った。


 由衣清。名前と同じく亜紀さんにぴったりの綺麗な名字だ。


「亜紀さん、どこに行ったのかわかりますか?」


 お姉さんが瞳を覗くように見つめてくるので、私は恥ずかしくて目を逃がした。


「ところで貴方はどなたなのかしら」


 なんて失礼極まりないことを。挨拶もせずに勝手に訊ねてしまっていた。私は居住まいを正し、自己紹介の作法に則り名を名乗った。


「え? 心咲ちゃん?」


 心咲ちゃん? 私のことを知っている? どうして? と、そう訊ねようとしたところ、お姉さんが答えを口にした。


「最近由衣清さんは心咲ちゃんの話ばかりするから。とても面白い子で一緒にいるだけで楽しくなるってね」


「そんなことは――――」


 私は口を覆った。

 お姉さんは亜紀さんから聞いて知っている。どうしよう。私が子供だっていうことも知っているということだ。


「どうしたの? あれ? なにかあるのかしら?」


 私が黙っていると、お姉さんは口に手を添え、私の方へと身を寄せた。


「正直に言いましょうね」


 お姉さんのあまりにも優しい笑顔に、私は地下市場がどんなところなのか気になっていたから、地下市場によく足を運んでいる亜紀さんの後をこっそりつけて来たと大体正直に言った。


「亜紀さんに頼んでも連れてきてもらえないことはわかっていたから」


 私は亜紀さんにそうしようと思っていたように俯き小声で言った。


「話で聞いていた以上ね、心咲ちゃん。あっ。いいのよ、別に。由衣清さんはわからないけれど、私は別に怒ったりなんかしないから。それよりも、すごいじゃない? 三番区から気づかれずに来たんでしょう? 由衣清さんは感が良い人だから、普通だったらすぐに見つかっちゃてるわよ。さすがね、心咲ちゃん。そんな心咲ちゃんに会えて嬉しいわ、本当に」


 そう言うと、お姉さんは細い指先を伸ばし、私の髪の毛を指でくるりと一巻きした。そして、「初めまして、心咲ちゃん。百々香の店主の園井直遊羅そのいすなおゆうらです。よろしくお願いします」と片手で前髪を押さえながら浅く一度、深く二度頭を下げた。


 遊羅さんはお茶とお菓子を用意すると言ってくれたのだけれど、私はとにかく亜紀さんと早く会いたいから、また次の機会にとお断りした。


「大丈夫よ、焦らなくても。由衣清さんは蒔璃野屋まりのやさんにいるから。練香を作ってるお店なんだけど、とっても人気があってね。毎日店の外にまで人が並んでいるのよ。まだお店の主人と話しもできていないんじゃないかしら」


 ヒマワリだ、きっと。私は遊羅さんにお店の場所を訊いた。


「ちょっと難しい場所にあるから、地図を記してあげる」


 遊羅さんは二回記すのを失敗して、「あれえ?」と可愛らしい声を漏らした。三度目に成功すると今度は「成功です」と女の子のように首を傾け微笑んだ。


 遊羅さんが記してくれた地図を見ると、確かに説明を受けただけでは辿り着けなさそうだった。さっきの通りを真っ直ぐ進んで三本目の路地を左に入り、その路地の突き当たりを右に曲がって、曲がってすぐの路地にまた入り、その路地にある『望月』という鏡専門店の脇にある細い道を進んだ先の建物の三階。

 礼を言い、地図を胸の隠しにしまうと、遊羅さんは「ちょっと待ってね」と電声を耳にあてた。


「こんにちは。お久しぶりです、百々香の園井直です。忙しいところ申し訳ありませんが、今そちらに由衣清さんはいらっしゃいますでしょうか。はい。ええ。そうです。三番区の夢殿の。ええ。はい。あっ、いえ。代わらなくても伝えて頂ければ結構です。はい。もうまもなくそちらに由衣清さんの客人が訪れますと、これだけお伝えできますでしょうか。ええ。ありがとうございます。それではお忙しいところを失礼致しました」


 遊羅さんは電声を終えると親指を立てて振った。


「念のためにね。またすれ違ったら大変でしょう。心咲ちゃん。今度はゆっくりと遊びに来てね。私も機会があれば由衣清さんの夢殿に遊びに行くから。その時はたくさんお話ししましょうね」


 夢香を扱う人というのは皆こうなのだろうか。優しくて、素敵という言葉が似つかわしい美人なのだろうか。私は可愛らしく胸の前で小さく手を振る遊羅さんに頭を下げ百々香を後にした。



 よく見ると、地下市場の建物は歌観町通りの建物と違い、一つの建物に種類の違う店が入っていることは少なかった。ほとんどが同じ種類の店か、または建物全てが一つの店となっていた。専門店と名の付く店も多く、爪鑢の専門店や外灯照明の専門店など他では見られない店もあった。そうした専門店の中でも私の興味を惹いたのは御伽屋という菓子屋だった。店先には硝子の小箱が何十と並べられ、その箱の中には見たことも聞いたこともない菓子が詰まっていた。地獄絵巻、雪花の記憶、霧時雨、送風羹そうふうかん、鰹飴、巳六の鍵、寒天家具。どれもこれも一つ摘まんで味わってみたくなる菓子ばかりだった。


 遊羅さんの地図に従って、路地の突き当たりを右に折れ、中程まで進んだ時だった。セシイヒの前で蹲っている男の人がいた。お腹が痛むのか、お腹を押さえ地に話しかけるように呻いていた。武清さんくらいの年の頃で、屈んでいても大きいとわかるお兄さんだった。

 私は立ち止まり大丈夫かと声をかけた。


「誰か呼んできましょうか」


 私はお兄さんを助ける術を持ち合わせていない。残念なことに側には人がいないけれど、通りの向こう側では忙しそうに人たちが行き交っていた。


 お兄さんは手を振り、全然大丈夫そうではない様子で「大丈夫だ」と言った。


「あの、やっぱり誰か呼んできます」


 私はお兄さんに小さく頭を下げた。


「待って。待って……、くれ。すぐ、すぐそこの、薬屋のところの路地。その先にある店で知り合いが、待ってるんだ」


「それじゃ、その人を連れてきます。そこの薬を曲がった先ですね。なんというお店ですか?」


 欅屋という酒屋だとお兄さんは言った。私はこっぽり下駄をがたがたと鳴らし薬屋を曲がった。その先の路地は路地というにも狭く、前から人が歩いてきたら壁に背をつけて避けなければならないほどだった。路地には欅屋一軒しかないようだった。その他の店は、引き戸が閉じられ元店だった建物としてそこに在るだけだった。欅屋の看板は袋小路になっている通りの先の壁に張り付けられていた。これも一つのお洒落なのか、それとも主人がただの面倒くさがり屋なのか、看板は右半分が壁から剥がれ浮いていた。欅屋も隣やその隣の建物と同じく今はやっていないように見えた。引き戸は閉じているし、二階の窓には木が打ち付けられていた。隠れ家的な店なのだろうか。私は遠慮がちに戸を二度叩いた。


「はいはい」


 返事は店の中からではなく後ろから聞こえた。振り返るとさっきのお兄さんだった。もう具合が良くなったというのだろうか。

 いや、そんなわけがない。

 私は欅屋だった建物から離れ辺りを見回した。抜け道なんてどこにもなく、やっぱり完全な袋小路だった。


「ありがとう。お姉さん。ちゃんと、ここまで来てくれて」


 そう。ちゃんとここまでこうしてやって来た私は誉められるに値する正直者でお人好しの歌観知らずだ。逃げられそうな場所など空以外にどこにもない。だから、私は一か八かお兄さんの脇を駆け抜けようとした。


「お姉さん。どうしたの?」


 お兄さんの肩にぶつかりながらも逃げきれた、と思ったその瞬間、首の後ろに鈍い衝撃が走った。


――――おい! 


     なにしてんだよ――――


 声が頭の中をぐるぐると回るように木霊し、墨色の日除が降りるようにすっと視界が暗くなっていった。

 地面に倒れてしまったのだろう。白なのか、灰色なのか元の色がわからないほどに汚れた化矛雪駄が目の前にあった。化矛雪駄が地を離れたのを最後に私の視界は閉ざされた。

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