二十一

 

 あっちから来たかと思えば、そっちからもこっちからも。

 大小様々な風動船が立て続けに滑り込んでくる様に目が回った。さすがは、相原一の停車場。相原一と呼ばれるに相応しい忙しさだった。

 乗客の中には、私がそうしたかったように立ち上がってその様子に歓喜の声を上げている人もいた。私は、はしゃぎたくて仕方がない歌観知らずな自分を押さえつけ、目の前に広がる華やかな光景をじっと見つめていた。


 風動船を降りたその瞬間から二人の姿を見失いそうになった。歌観町通りの賑わいは、電映機で見ていたよりもずっとせかせかしていて、ずっと窮屈だった。立っているだけで誰かとぶつかりそうになって、すみませんと謝っている間にまた他の誰かとぶつかりそうになってしまう。特に通りに入ってすぐの待太郎の銅像の前は、この間の霞朝広場と同じくらいに人人人と人で溢れていた。これだけ人でいっぱいになっていると、待ち合わせ場所としての機能を失ってしまうのではないだろうか。そう考えていた私の目の前で、次々に誰かと誰かが手を合わせ歌観町通りの中へと消えていった。

 人の多さに加えて、密集する建物にも圧倒された。どの建物も通りを覆う屋根まで伸び、中には屋根を突き抜けている建物もあった。一つの建物の中には多くの店が入っていて、建物を装飾するように様々な形や大きさの看板が下がっていた。入っている店もまとまりがなく、薬店と呑処と装身具店と古書店が入っている建物もあれば、着物屋と文具屋、明見堂みょうけんどうに質屋が入っている建物もあった。そんな建物が通りを挟んでどこまでもずっと連なっていた。一番区の人たちはどうやって買物をする店を決めているのだろうか。私なら鉛筆一本買うのに何時間もかかってしまうだろう。そして、通りを左右に切り離すように通りの中央ではカルメチが往来していた。


 亜紀さんはそんな混み入った通りを水に浮かぶ油のようにすいすいと人波をすり抜け進んでいった。すぐに見失って、簡単にはぐれてしまいそうな足取りだった。私は人にぶつかりぶつかられながら必死に二人の後に続いた。


『一本目 中央水道前』


 二人が足を止めたのは、そう看板に記されたカルメチ乗り場だった。

 初めて目にしたカルメチは思っていたよりもずっと華奢で、古臭かった。手摺りは握ったら折れてしまいそうだったし、踏板はぺらぺらで頼りなかった。一番区のカルメチを象徴する黄色も電映機で見るよりもずっとくすんでいて、本来の鮮やかさと快活さを失っていた。本場四番区のカルメチも間近で見るとこんな感じなのだろうか。そうだとしたら、これまでのカルメチへの憧れはきれいさっぱり忘れてしまわなければならなくなってしまう。


 陽都は亜紀さんに乗り方を教えてもらっているようだった。陽都は興味津々といった様子で屈んだり、背伸びをしたりして流れるカルメチを眺めていた。トオキョオにもカルメチのような日常をほんの少し便利にするような乗り物があるのだろうか。涙型の踏板と捕まるための細い支柱が一本。私には逆さにした葉っぱのようにしか見えないのだけれど、陽都の目にはどう見えているのだろう。たぶん、私の考えでは辿り着けない面白い答えを口にしてくれるのだろう。亜紀さんが手摺りに手を回すと、陽都は飛び乗るように踏板に足を乗せた。


 初カルメチは見た目と同じく、思っていたほどの感動は与えてはくれなかった。運んでくれる分、混雑している通りを人を避けずに進めたのは良かったけれど、おっと胸を弾ませるようなところは一つもなかった。


『二本目 共同電力前』


 二人は二つ先のカルメチ乗り場で降りると、花屋と魚屋に挟まれた始帆味亭しほみていという定食屋に入った。陽都は私を探してくれたのか店の引き戸を閉じる前にきょろきょろと辺りを見回した。けれど、陽都の目が私の目とぶつかることはなかった。


『仕入れた分だけ提供しています。朝一番に二番区雲地町から仕入れた新鮮な魚介の味をどうぞ。魚金うおこがね』


 始帆味亭は隣の魚屋が経営する店のようだった。今日の一番のおすすめは鉋鮫の照焼丼で、看板の印画を見ているとくるるとお腹がなった。きっと二人はこのおすすめを食べているはずだ。白身の王様と呼ばれる鉋鮫の照焼を食べられるだなんて。羨ましすぎる。本当に。後で陽都が感想を口にしたらちくちくと苛めてあげよう。私は一人頷いた。

 二人が出てくるのを待つ間、あたりの店を覗き歩いていたところ、桃色の兎のかぶり物をしたお兄さんに話しかけられた。


「すぐそこに開店した天日茶房です。よろしかったらこちらどうぞ」


 差し出された紙を受け取ると、杏子入りの遙米餅と胡麻団子が半額になる割引券だった。思がけ! 私は礼を言い、早速三軒先で桃色の旗を揺らす茶屋へと向かった。

 お店は硝子張りの煉瓦造りで、私の知っている茶屋の雰囲気はまったくなかった。さっきのお兄さんと同じく、店の人たちも皆桃色の兎の被り物をして働いていた。

 杏入りの遙米餅と胡麻団子、それに柑霧莉を一本買い、店の前の長椅子で包みを広げた。お店と同じく、遙米餅も遙米餅らしくない洒落た味がした。それに引き換え胡麻団子は胡麻の味がとても濃く、昔ながらの茶屋の味を思い出させた。そんな新旧の味が織りなす調和は、柑霧莉の渋くて甘い味にさらりと流されていった。

 食べている間も兎の被り物をしたお兄さんは店の前を通る人たちに声をかけていた。一番区の人たちはとにかくお洒落で、おじいちゃんやおばあちゃんでも若者が着るような着物や羽織を当たり前のように着ていた。その中でもやっぱり気になり目を惹かれたのは、私と同じ女子学生たちだった。皆びっくりするくらい着物の裾が短くて、惜しげもなく脚を露わにしていた。中には太股が見えるくらい短くしている子もいて、その破廉恥とも取れるお洒落感覚には脱帽させられた。三番区でそんな格好をしていたら、変わり者扱いされるどころか年配の人たちにこぴっどく叱られてしまうことだろう。女の子が腕や脚を出すだけではしたないと考える人たちはたくさんいる。私のおじいちゃんだってそう。私が脚を膝まで出して歩いてなんかいたら、絶対に怒る。着物の丈を直すまで外に出してもらえない。それは、たぶんではなく、間違いなく。

 そして流行りなのだろうか。女子学生をはじめ若い人たちの多くが似たような小さな鞄を背負っていた。単色の物から柄物まで色や模様は様々だったけれど、形はどれも真四角で、鞄の右下に陰影がついた『弦』という刺繍があった。それはこれまでに一度も見たことがない銘柄だった。たぶん、一ヶ月後には三番区でも見かけるようになるのだろう。まあ、遅れて同級生たちのほとんどが背負うようになっても私は買わないけれど。真四角の鞄なんて、全然可愛くないから。

 報せ鼓の音も三番区とは違っていた。報せ鼓といえばお腹に響くような太く伸びのある音。それが当たり前だと思っていた。二番区でもそれは同じだった。十一回打たれた報せ鼓の音は軽くて高くて、間隔が短かった。一番区だけなのか、歌観町だけなのか。相原一の歓楽街はなにもかもが私の知っている相原とは違っているようだった。


 亜紀さんと陽都が店から出てきたのは、天日茶房の側の足風洗場で足を吹かせている時だった。店の中に身を隠そうにも店の入り口は割引券を持った人たちで塞がれていて、私は通りに背中を向け二人が過ぎるのを待った。ゆっくり五つ数え振り返ると、二人の姿は人混みのどこかへと隠れてしまっていた。私は行き交う人々の中に足を踏み入れ二人の姿を必死に探した。ここで見失うわけにはいかない。そんな私の稀少なやる気が神通力を与えてくれたのか、人混みの隙間から二人の姿を見つけることができた。二人は通りの反対側を歩いていた。

 二人に追いついたのは海野幸電気うんのみゆきでんきの前だった。電映機でよく目にしてはいたものの実際に壁一面の巨大な電映機を目にすると、そのあまりの迫力につい驚きの声を漏らしてしまった。

 そんな私とは違って、亜紀さんも陽都も少し足を止めただけでまたすぐに歩き出した。陽都だってもう少し見ていたかったはずだ。さすがのトオキョオにだってこれほど大きな電映機はないだろう。本当に、もう。急くなら先ずは見よとはまさにこのことなのに。私は鼻から不満の息を吐きながら二人の後を追った。


 海野幸電気を過ぎ二つ目の路地を二人は曲がった。路地の中も所狭しと店が並び、通りが狭くなった分雑然としていた。

 亜紀さんが戸を引いたのは輝煌屋きこうやという磨き屋だった。輝煌屋は建物の一階と二階を利用していて、その上には風動船模型の店と揉み屋と絵画用品店が重なっていた。建てられてから日が浅いのか、それとも改修を終えたばかりなのか、他の周りの建物と比べると新しく、白い漆喰の壁にはひび割れどころか欠け一つも見当たらなかった。

 私は輝煌屋の斜迎えの硝子細工屋の前で、きらきらと七色に輝く硝子の鳥籠に見惚れながら二人が出てくるのを待っていた。

 十分が過ぎ、二十分、三十分が過ぎても二人は出て来なかった。一体なにをしているのだろう。店を覗いてみたくても鉢合わせになったら元も子もないし。もう少しだけ待ってみよう。もう少しだけ。もう少しだけ。そう焦る胸に言い聞かせているうちに一時間が経った。私はおそるおそる輝煌屋の戸を引いた。

 四方の壁際だけでなく天井からも石鹸が吊され、照明の光を受けた石鹸の輝きで店そのものが宝石のように輝いていた。


 釜波かまなみ石鹸。白百合石鹸。龍魅たつみ石鹸。邂逅石鹸。


 どの石鹸も初めて目にするものばかりで、私が知っている星空石鹸や藤貴ふじたか石鹸はどこにも見当たらなかった。商品の前には説明紙があり、どの説明紙も屑入れから拾ったように皺が寄り、説明は簡潔すぎた。


『釜波石鹸 鉄製全般』『白百合石鹸 着物など』『龍魅石鹸 下駄雪駄』『邂逅石鹸 白くしたい柔らかいもの』


 店には店主と思しき顎に長い髭を蓄えたおじさん一人だけしかいなかった。上階にいるのだろうか。二階へと続く階段へと足を向けると、「なんの用事?」と声をかけられた。声には苛立ちが滲み、言葉は投げつけるようだった。目つきは鋭く、口はへの字にきつく結ばれていた。


「人とはぐれて、しまって。ここのお店に入ったような、そんな気がして……」


 私はしどろもどろになりながら少しだけ正直に言った。


「どんな?」


「ええと……」


「ええと? ええとって人?」 


「いえ。あの、白い」


「白い?」


「人じゃなくて……」


「わかってるよ」


 怖い。どうして怒られるのだろう。泣きたくなってしまう。


「白い、紫陽花柄の着物を着た女の人と、格子柄の羽織の……」


「白い紫陽花柄の?」


 私は床に向かって頷いた。


「亜紀ちゃんか? 夢殿の」


 亜紀ちゃん? そうだと私は言った。


「三番区の、牧野帳公園のところの夢殿の亜紀さんです」


「なんだよ。まったく。そうならそうと初めから言えよな。珍しく連れがいると思ったらもう一人いたのか。連れがはぐれてどうすんだ! 商売はな、売るだけが仕事じゃねえんだぞ! 仕入れなんてどうでもいいって考えてんじゃねえのか?」


 私は首を振った。どうして私が……。


「黙ってねえでちゃんと返事しろ! 商売やる人間なら返事くらいちゃんとできるようにしろ!」


「はい」


「声が小せえよ!」


「はいっ!」


 私は涙を零さないようにぐっときつく唇を噛んだ。


「んじゃ、こっちだ。来い」


 髭のおじさんは階段の下の押戸を突き飛ばすように乱暴に開けた。戸の先の部屋は橙色の提げ行灯が天井から一つ下がっていただけでがらんとしていた。


「いつもの百々香ももかだから。わかるだろ? わからなくなったら誰かに聞けよ。まっ、通りからそんなに離れてねえから、才能なきゃ迷えねえけどな」


 髭のおじさんが壁の押鋲を押すと、ぎりぎりと音を立て床の半面がめくれ上がり地下へと続く階段が現れた。ももか? 通りに出てすぐ? 


「ぼさっとしてんじゃねえよ。はぐれてんだろ? ほら。さっさと行かねえと。はぐれっぱなしになるだろ。まったく、最近の若え奴は」


 何かを訊ねられる雰囲気も、考える余裕もなかった。私は追い立てられた羊のように階段を駆け下りた。


 三、四階分は下っただろうか。下った先には鉄製の押戸があり、押戸は見た目どおり重すぎた。私は体全体を使って、隙間から体を滑らすようにすり抜けた。後ろでがちゃりと硬く重い音が鳴った。閉じた戸には取っ手がどこにもなかった。外側からはどうやっても開けられない不親切な造りになっているようだった。ここからは戻ることができない。自分の置かれている状況がますますわからなくなった。

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