二十


 ゲロゲロゲコゲコと元気すぎる蛙時計を叩いて止めると、手早く風洗と食事を済ませ準備に取りかかった。

 私は躊躇うことなく白粉を顔に叩き、目張りを入れ、紅を引いた。仕上がりは思っていた以上に私らしくなく、その出来に私は鏡の中の私に人差し指を立てた。

 夏着物はまだ薄らと糊が効いていて、正直着心地はあまり良くなかった。それでも、帯紐を締め形を整えると、考えていたよりも良い感じに木槿が胸に咲いた。

 最後の仕上げにヒマワリを首筋に塗り込むと、私は誰もいない家に行ってきますと声をかけた。



 こっぽり下駄の歩きにくさには本当に困らされた。大人はどうしてこんなにも歩きにくくて、足が疲れる履き物をあえて選んで履くのだろう。もっと歩きやすくて機能性の良い履き物はたくさんあるのに。もしかすると、十九歳を迎えて大人になった瞬間にすっと足に馴染みすたすたと歩けるようになるのだろうか。私はそんな疑問と憶測を語り合わせながら、雨に濡れる地をびしゃりと打って歩いた。

 八時の遙米球に乗って、それから風動船に乗り換える。陽都は昨日そう言っていた。この付近で一番区方面へと向かう遙米球乗り場は一つしかない。糸井蹄いといひづめ通りと綾埜上あやのかみ通りがぶつかる交差地点。帷町とばりまち五丁目乗り場。

 本当ならば東屋から笹乃坂通りを下って行きたいところだけれど、万が一二人に遭遇してしまったらそこで全てが終わってしまう。私は竹の坂通りを過ぎ、牧野帳公園の遊歩道へと足を進めた。

 牧野帳公園から見上げるトオキョオもなかなかに素敵だった。頭上を行くドグたちはやっぱり今日も忙しそうで、トオキョオ駅はいつもと同じくドグたちを吸い込んだり吐き出したりしていた。

 遊歩道の半ばに差し掛かった時、花球はなたま売りのお姉さんに「お姉さん」と呼び止められた。振り返っても後ろには誰もいなかった。お姉さんに目を向けると、もう一度「お姉さん」と呼びかけられた。


白峰水仙はくほうすいせんの花球いかがでしょうか。観賞用にも贈り物にもぴったりですよ」


 私は緊張でうるさい胸の音を押さえつけるように着物の襟元に手を添えた。


「また今度」


 私は恭しく頭を下げた。


 お姉さん。私が? こっぽり下駄が軽く低く感じられた。お姉さん? 私は目深帽を脱ぎ、亜紀さんが時々するように髪の毛をかき上げ後ろに流した。



 二人の姿を見つけたのは遙米球乗り場の看板の下だった。私は目深帽を深く被り直し、唐傘の柄を高い位置で握った。亜紀さんはいつもの紫陽花柄の白い着物を着て、手に紫色の大巾着を提げていた。陽都は昨日見たままの姿で、大人に見せようと工夫した様子はまったくなかった。内隠しから提げ時計を取り出し時刻を確認すると、陽都から聞いていた予定時間よりも十分早かった。私は唐傘から目だけを覗かせ、ゆっくりと二人が並ぶ遙米球乗り場へと近づいた。

 亜紀さんが遙米球に収まったのを確認してから私は列の後ろに並び、四人の待客越しに陽都に声をかけた。


「心咲!?」


 陽都は私と目がぶつかると、時間を盗まれたように口をあんぐりと開け固まった。

 一体どうしたというのか。その理由について訊ねたくてもそんな余裕はなかった。陽都が乗る遙米球がぷくりと蓋を開けた。


「風動船、何時?」


 陽都は口を開けたままの表情で遙米球に片足を入れ、「八時二十分」と早口で言った。そして、私の無言の承知に忙しい瞬きで応えると、遙米球に収まり流れて行った。

 風動船乗り場までは二十分くらいしかかからない。待客が四人いても余裕を持って二人と同じ風動船に乗ることができる。私は鞄から乗球券を取り出し、扇子代わりに扇ぎながら自分の番が来るのを待った。



『風が繋げる。風で繋がる。風動船が貴方を運ぶ』


 半年前と謳い文句が変わっていた。半年前は『風が運ぶ。貴方のことをどこまでも。移動には早くて優しい風動船』だった。なぜ私がこの謳い文句を記憶しているのかというと、一月前まで居間の壁にその謳い文句が記された宣伝紙が貼ってあったからだ。半年前、おじいちゃんと一緒に時任町の雪賀祭に行った時に風動船乗り場で配っていた宣伝紙だ。

 風動船は相原の至宝。そう評するほどおじいちゃんは風動船が大好きだ。おじいちゃんが言うには三角のおにぎりを真ん中で割ったようなあの形がとにかく素晴らしいらしい。私としては形よりも透き通った未来的な船体の方が魅力的なのだけれど。

 そして、謳い文句だけでなく乗船券の色と形も変わっていた。藍色から常盤色に、角形から丸形に。ここ半年の間になんだか色々と変更があったようだった。私の記憶にないだけで、乗船券売り場の看板や乗船券を売るお姉さんの制服も変わっていたのかもしれない。

 二人は最前列の真ん中に座っていた。夏休みのせいか家族連れが多く、あちらこちらから賑やかな声が上がっていた。私は一番後ろの端に腰を下ろし、遠目に二人の後ろ姿を眺めていた。陽都は頭を下げては上げ、時折隣の亜紀さんを見て、また頭を下げてを繰り返していた。『相原見聞録』に風動船の様子を記しているのだろう。

 龍の咆哮のような低く大きな音を立て風動船が出航すると、陽都は側の子供たちと同じく座席から腰を浮かし、座席の前に取り付けられた手摺りを両手で握りしめていた。きっと、迫り来る景色に目を奪われ、胸を打たれているのだろう。私はそんな陽都の様子を筆記帳に記しながら、なんて乗り心地の悪い風動船だろうと思っていた。ただ単にこの風動船が旧型だったからのか、座席は硬くて、送風装置はうるさく、天井は汚れで曇っていた。これまでの数少ない乗船経験の中でも一番最悪な乗り心地だった。

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