十九
「女の子が陽が落ちてから帰ってくるなんてよくないんじゃないかな?」
門樋の前で武清さんが待っていた。手には風呂敷包みがあり、武清さんはその包みを鈴でも振るように揺らした。
玄関を開けると、私は框の上に広がる買ってきた品々を紙袋の中に詰め戻し、両手を上に向けた。
「買物に行ってたんだ」
「うん。夏物が特売になってるって聞いたから、梢町の商店街に行ってきたんだ」
「ということは。あいざしの紫窓公演に遭遇していたりなんかして?」
私は親指を立てて振った。
「最高の思がけだったね。あのあいざしを生で見られるだなんて」
「武清さんもあいざしが好きなの?」
武清さんは陽炎の聴揺部分を口ずさんだ。まさか陽炎で返してくるなんて。
貴晴作の陽炎はその凝った編曲からあいざし愛好者の中でも玄人好みの曲として知られている。私も陽炎は嫌いではないけれど聴く頻度はそう高くはない。解くのに時間がかかる算出学の問題のように私の頭を疲れさせるからだ。
「あいざしの中じゃ僕はやっぱり陽炎だな。聴けば聴くほど好きになっていく。叢雨のような大衆的な曲だけではなくてあんなに凝った曲も作れるんだから、あいざしは本物だよ」
私は腰に手をあて力強く頷いた。そう。あいざしは本物だ。これまでの楽団とは一線を画す才能を持っている。歌詞も曲も編曲も歌唱力も演奏力も外見も全てに才能を感じられる天才的な楽団だ。と、私は心底よりも深い部分からそう思っている。
「それに、ここにいる心咲まで虜にしてるんだから、その魅力は語らずともだね」
「そうだよ」
私は胸を張って言った。
「この風呂敷の中身なんかじゃ心咲を振り向かせるのは難しいな、きっと」
武清さんは風呂敷の結びを緩めた。
「海老だ! 海老辛炒め!?」
「海老? さあ、どうだろう。この風呂敷はとても気紛れなんだ。その時の気分で包んでいる物を変えてしまうんだ。次に開いたときには磨き屋の石鹸が入ってるかもしれない」
武清さんは緩めた結びを再び締め、抱き寄せるように風呂敷包みを胸に引き寄せた。
「いいよ、もう。なんでもいいから。早く、早く」
私は武清さんの手を引き、座卓の前に座らせた。風呂敷包みの中身はもちろん石鹸なんかではなかった。海老は大振りで、見ているだけで口の中に唾が溢れた。
「あっ。ご飯もある!」
「ご飯なしの海老辛炒めなんて、伸びない遙米餅みたいなものだからね」
さすが武清さん。よくわかっている。昔もこうやって二人で海老辛炒めを食べたことがあった。武清さんと私の確かな共通点。それが海老好きで、海老料理の中でも特に海老辛炒めが好きだということ。
「いただきます!」
私は武清さんと声を揃え、重なり横たわる真っ赤な海老に箸を向けた。
武清さんはおじいちゃんから言伝を頼まれた武則さんに頼まれて来たのだと言った。おじいちゃんからの言伝は「明日も帰れない。帰るのは明後日の昼になる」だった。
武清さんが武則さんから聞いた話だと、共同で作業を行っている風測量士の一人が体調不良で休んだため仕事の進みがだいぶ遅れてしまっているとのことだった。そのことに対しておじいちゃんは「最近の若者の仕事にかける熱意はぬるすぎる」と怒っていたようだった。そして、その怒りの矛先は私にも向けられていた。
「二度も電話したのに出ないなんて、家の娘は一体どこをほっつき歩いてるんだか。とっくに日も暮れてるってのにな。だとよ。ありゃ、政嗣が帰ってきたら心咲ちゃんこってり絞られちまうな。はっはっはっは」
武清さんはおじいちゃんの真似をする武則さんの真似をして笑った。笑い声は余計だよと苦情を呈すると、武清さんは今度は控えめに笑った。
「そうやって私の不幸を楽しんでるんだから」
私は小さな反撃として最後の一匹を口の中に放った。最後の一匹も最高に美味しくて、一噛みする度に口の中に倖せが広がった。
武清さんは空になった折を重ね風呂敷に包むと、使った皿と箸を洗いに台所に立った。私がするからと言っても武清さんは手を振り私の申し出を聞き入れてくれなかった。
「もうすぐまた一人になるからね。ちょっとの間だからといって怠けてると、戻った時にどうしようもなく面倒に感じるんだ。習慣にしておけば、そう面倒に感じることもない。顔を洗って歯を磨くように当たり前のことの一つになる」
武清さんらしい言葉だったけれど、台所と武清さんはあまりにも不自然で全然調和していなかった。
「ちょっとの間って、武清さんいつまでいられるの?」
「今月いっぱいだよ。今回の休みは急遽決まったんだ。ちょっと上司に色々あってね」
「ええ!? それじゃ、あと五日しかないじゃない」
「そうだね。日で考えると残り五日ってことになるね」
「日で考えるとって、それ、どういうこと?」
「僕はね、何事も時間で考えるようにしているんだ。日で考えるとたった五日ということになるかもしれないけれど、時間で考えたら百二十時間もある。百二十時間っていうのはけっして短くはない時間だよ。それだけあればある程度の物事ならある程度解決できるし、心と体を休めるにしても十分な時間だよ。ただね。そうだね。百二十時間後にまた心咲と離れることを考えると、胸が穴だらけになるほど寂しくなってしまうけどね」
一日を二十四時間で考えるなんて、それはやはり職業柄というか、武清さんが持つ能力によるものなのだろうか。分析、推測。歴史研究家はこの二つの能力に秀でている。その浮かんだ疑問を訊ねてみると、武清さんはどうなんだろうと首を傾けた。
「でも、心咲も分析持ってるよね? それに洞察に、把握も」
「あるにはあるってだけだよ。全然高くないし。洞察も把握も似たようなものだし」
強いて言うならば把握が多少高いだけで、分析、洞察に関しては平均を少し上回る程度だ。誰かに羨ましがられるような能力だとは全然言えない。
「そんなことないさ。三才はそう多くない。三才だっていうだけで胸を張れる」
「私が憧れるのは能力の数じゃなくて、能力の高さだよ。武清さんとか亜紀さんみたいな」
「大丈夫。能力さえ持っていれば、高めることは後からでもできる。実際に僕も学校を卒業する前の能力検査の結果よりも、二年前に受けた能力検査の方が良い結果が出てるしね。能力を人よりも多く持っているということはそれだけ多くの可能性を秘めているってことなんだよ。だから」
「努力が大切、でしょ?」
「ちょっと違う。努力がとても大切」
武清さんは眼鏡の山を指で持ち上げた。
私は逃げるように天井を見つめた。
「そうそう。武清さん」
私はぽんと掌を打った。もしかすると武清さんなら、なにか別の答えをくれるかもしれない。私は亜紀さんに一蹴された問いを持ち出した。
「探し物をね、すぐに見つけられるような、なんかそんな能力ってあるかな?」
「探し物を? すぐに見つけられる? 能力?」
武清さんは私の言葉がまるで暗号であるかのように、不思議そうな表情で私の言葉を繰り返した。
「だよね。あるわけないよね」
「あれ? 知らないの?」
「ん?」
知らないの? 思わぬ言葉に私は目をぱちくりさせた。
「誰でも知ってる有名な職業主が持ってる能力だよ。どんな物でも、とは言い切れないけど、まあ大体ど
んな物でも見つけられるんじゃないかな。そういう使い方をすれば」
「ええ? なにその職業って」
「驚く心咲に驚かされるよ。本当にわからないんだ」
私は頷いた。全然わからない。
武清さんはこれから演説でもするかのように一つ咳払いをしてから言った。
薫だよ。
* * *
薫になるためには学校を卒業してから約五年間特別な訓練を受けなければならない。一才の場合は能力が発揮されるまで時間がかかることが多く、訓練を受けなかったら一生能力が開花しない場合もある。武清さんの話だと一昔前はそうした宝の持ち腐れになってしまうことも少なくなかったそうだ。
沙織は十七歳だといった。それが嘘だったとしても二十三歳以上として見るのは無理がある。二十三歳といえば亜紀さんや武清さんと一歳しか変わらない齢。沙織が亜紀さんの一歳下? あり得ない。それならば沙織はどうやって筆記帳を見つけたのだろうか。偶然ではない。足取りに迷いはなかったし、米屋で訊ねたときの口調も断定的だった。なぜ? どうして? 沙織のことを考えれば考えるほどそうかもしれないと違うかもしれないという推測がせめぎ合い、頭の中は答えに辿り着けない考えでいっぱいになった。
私はそんな無駄に忙しい頭の中を零にするために、ヒマワリをほんの少し指に取り首筋に馴染ませた。ヒマワリの香りは頭の中をすっきりと片付け、私を夢のないの眠りの場へと連れて行ってくれた。
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