十八


『時綿売り切れました。次回入荷は明後日になります』


 さすが綾埜町の工房の新作。きっと、お店に並んだと同時に羽根が生えたように売れていったのだろう。亜紀さんは帳場で椅子にもたれ休んでいた。


「もう売り切れちゃったんだね」


 亜紀さんは鍵盤を打つように掌をひらひらとさせた。


「待茜も星影も次の日にも少しは残ってたんだけどね。これもトオキョオのお陰ね。トオキョオ観測ついでに立ち寄った人も多かったから。今になってようやく落ち着いたって感じ。ここにお店を構えてから一番忙しかったわ」


 亜紀さんの夢殿が混雑しているところを見られなかったのはとても残念だった。


「ごめんなさい。手伝わなきゃならなかったのに」


「なにを言ってるの。仕事は大人の宝物なの。子供には渡せないわ。十九歳になってから同じ事を言ってくれるかしら? そうしたら遠慮なく手伝ってもらうから。それで、お二人さんはどこで楽しんでいたのかしら?」


 亜紀さんはにやりと唇の端を持ち上げた。


「あのね」


 口元に両手を添えると亜紀さんが耳を近づけてきた。月下美人のふわりとした甘い香りにくすぐられながら、私は梢町であいざしの紫窓公演に偶然遭遇したと囁いた。

 亜紀さんは椅子から飛び跳ねるように立ち上がると、私の手を取り振り回した。


「本当に!? 道哉はどうだった? あっ。叢雨も演奏した?」


 さっきまでの疲れ切っていた姿が嘘だったように、亜紀さんは目を煌めかせ私に顔を寄せた。

 私は硝子皿の下で目にしたあいざしの姿と耳にした生の演奏について話した。話をしているとあのときの胸が震えた瞬間が蘇ってきた。


「羨ましいな、本当に。まさに思がけね。陽都くんはどうだった? あいざし」


「ライブは初めてだったから、興奮したっていうか驚いたって感じです」


「ライブ?」


 亜紀さんの問いは私の問いでもあった。


「ライブっていうのは、ええと……。生演奏? のこと、かな」


 ふうん。


 亜紀さんと揃って鼻が鳴った。先に笑ったのは亜紀さんだった。


「あっ。そういえば、亜紀さん。ヒマワリって練香知ってる?」


「ヒマワリ?」


「うん。これなんだけね」


 私は内隠しからヒマワリを取り出し亜紀さんに渡した。


「綺麗。すごく手の込んだ入れ物ね。開けていい?」


 人差し指を立てると亜紀さんは硝子箱に指をかけた。麗かな気持ちにさせてくれる爽やかな香りが鼻をくすぐった。亜紀さんは真剣な面持ちで手で匂いを掬い、それから箱を鼻に近づけ目を閉じた。


「夕菅に水仙、九陽、薔薇、山吹、それと緋嬢草ひじようそう世鈴花せりんか。ううん。蝋梅も少し入ってるわね。全部黄色い花ね」


 嗅力、知覚。女の子が憧れる潜在能力。私も小さな頃はひっそりと自分の中にその能力が潜んでいるのではないかと期待したものだった。夏休みに入る前に学校の掲示板に貼られていた三年生の女の子のなりたい職業第一位も夢香販売者だったから、きっと今の小さな子たちにとってもその能力は憧れなのだろう。


「あと一つ。これ、……なにかしら。一番強い香りなんだけどね。初めての匂い」


「亜紀さんでもわからない匂いがあるの?」


「まだ出会ったことのない匂いならね」


 出会ったことのない匂いだなんて。こういう素敵な表現を使うから私みたいな女の子を虜にするんだ。


「だめ。やっぱりわからない」


 亜紀さんは硝子箱を閉じた。


「心咲、これどこで手に入れたの?」


「うん。ちょっと、色々あったんだ」


 私は沙織との出会いから別れまでを話した。自分で話をしていながら沙織が筆記帳を見つけてくれた件はやっぱりどこか作り話のようだった。


「黒い着物に黒い唐傘だなんて、なんか妖女みたいな子ね。その沙織ちゃんは」


 妖女みたな格好をしていただけで、実際はとてもお茶目で年上には全然見えない女の子だったと私は伝えた。


「でも、心咲の落とした筆記帳をあっという間に見つけちゃったんでしょ? しかも道に落ちてたとかじゃなくて、米屋にあったんでしょ?」


「うん」


「それで傷の手当てのお礼にこの練香をくれた、と。私の知らない香料が主になっているこの黄色の練香を」


「そう」


「そう。うん。そうね。妖女ね、その子は」


 陽都を見ると、陽都は見ようによっては名探偵兎介うすけのようにも見えなくもない難しそうな表情を返してきた。


「ねえ、亜紀さん。探し物をすぐに見つけられる能力って、あるのかな?」


 私の問いに亜紀さんはすっと顔を寄せとびきりの笑顔を浮かべた。


「あるわけないでしょ」


 そんな能力があったら世の中の困り事の半分くらいはなくなっているはずだ、と亜紀さんは続けた。

 言われてみればそのとおり。それならば、どうして?


「沙織はどうして筆記帳を見つけられたのかな」


 亜紀さんは呆れたように首を振り、ふっと短い溜息を吐いた。


「妖女ついに現る。黒い着物に黒い唐傘。貴方の願いを叶えましょう。その美貌と引き替えに。心咲ちゃん。妖女に出会った心咲ちゃん。私に少しその練香。黄色い綺麗なその練香。私に分けていただけませんか?」


 亜紀さんは雨の子鴉の子の歌詞を入れ替え歌った。歌で返す勇気は一欠片も持ち合わせていなかったので、私は黙って硝子箱を亜紀さんの方に押しやった。

 ありがとう、とまた歌で答えると、亜紀さんは帳場の後ろの棚から薬入れのような丸く小さな入れ物を取り出すと、紙切刃の先を使ってほんの少しヒマワリを削りそこに移した。


「今度専門家に訊ねてみるわ。この香料の秘密が分かれば沙織ちゃんについてもなにかわかるかもしれないし。それに、夢香を扱う私がこんな素敵な匂いを放っておくなんてそれは罪に等しいからね」


 きっ、と鋭い目で黄色の練香を見据える亜紀さんは格好良すぎて、素敵すぎた。

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