十七

 

 筆記帳がない。と、慌てたのは遙米球乗り場に着いた時だった。

 羽織をぱたぱたと揺らし掌で体を叩いてみても、鞄の中を覗いてもやっぱりどこにもなくて、私は下駄を踏みならしながら巻き付け棒のようにくるくると回った。


「どうしよう……」


 筆記帳は私の宝物。きっと、明日にはもっと大切な宝物になっているはず。どうしてそんな大切な物をなくしてしまったのか。自分の愚かさに泣きたくなった。

 霞朝広場を端から端まで歩き、あいざしが立っていた舞台の裏側まで探した。けれど筆記帳はどこにもなかった。


「ここにないんだったら、きっとあの買物をした店からここまで来る途中の道で落としたんだよ。ほら、心咲無我夢中って感じで走ってたじゃない」


「そうかな……」


「そうだよ。だって、ここにないんだから。行こう」


 陽都は釣り糸を引くように私の羽織の袖を引っ張った。



 あいざし、あいざしとあいざし熱の冷めない人たちで埋め尽くされた通りを私たちはうろうろ、きょろきょろと通行の妨げになりながら着物屋を目指して歩いた。着物屋に到着すると、今度は通りに建ち並ぶ店々の周辺を右側と左側に別れ霞朝広場へ戻るように探した。

 野菜屋の前に置かれた野菜でいっぱいの荷車の下を調べ、装身具店と本屋の間の隙間を覗き、家具屋の脇の階段の裏を探した。水で溢れた魚屋の水槽の脇も見たし、磨き屋の前で引札を配るお兄さんに筆記帳が落ちていなかったかと訊ねもした。それでもやっぱり筆記帳は見つからなかった。

 私は地に向けて長い溜息を吐いた。するとその拍子に紙袋を落としてしまい、買った品が吐き出されるように濡れた地に飛び出した。

 陰の心は厄難を誘うとはまさにこのこと。散らばった品を拾い集めていたところ、目の前で頬紅の入れ物が紅梅色の下駄の下敷きになった。ぱりっと、聞きようによっては小気味の良い音が響き、砕けた容器の破片がきらりと輝いた。厄難の連鎖。あまりの運のなさに乾いた笑い声が唇から漏れた。


「ごめんなさいっ! 前を見てなくて。ああ。どうしよう……」


 私は砕けた頬紅とその頬紅の色に似た下駄を見つめながら、どうしようは私の台詞でしょと罪なき地に訴えた。

 そんな私を濡れた地に髪の毛を擦り覗き込んできたのは、私と同じくらいの齢の女の子だった。眉も目元も頬も口元もしっかりと化粧が施され、着物からなのかそれとも彼女の体からなのかこれまで嗅いだことのない良い匂いがした。

 彼女に手を引かれ立ち上がると、彼女は着物の袂を手で押さえ頭を下げた。黒い唐傘に赤い蓮の刺繍が入った黒い着物。流れ落ちた髪の毛の隙間から見えた白峰磁のような首筋は黒一色の出で立ちによく映えていた。


「本当にごめんなさい」


「大丈夫……」


 心境的には全然大丈夫ではなかったけれど、私はそう口にした。


「あの、ごめんなさい。買って、新しい物を返したい、弁償したい……、と思うんですけど。あたし、今お金持ってなくて。帰りの風動船の分のお金しかないんです」


 彼女は髪の毛に手を入れ大きく頭を振った。


「嘘じゃないんです。鞄の中も見てもらって結構です。化粧道具しか入ってなくて」


 彼女は鞄の中から化粧品を取り出しては戻し、また取り出しては私に見せた。


「それはいいんですけど。それより、それ」


「これ? ですか? 練香です。見えないですよね? あの、これでよければ。あっ。これ非売品なんですよ。ヒマワリっていうんです」


 いや。そうではなくて。私の言葉を喉の奥に押し戻すように彼女はヒマワリという練香についての話を続けた。黄色い花のみから香りを抽出しているということ。彼女の友だちのおじいさんが手作りしているということ。一年に三本しか作られていないということ。金剛石のように輝く硝子箱も手作りだということ。緊張を緩める効果があるということ。陽の光に弱く、光を受けると香りが弱くなってしまうということ。

 彼女から漂う匂いで良い練香だということは十分に伝わる。けれど私が言いたいのはその練香についてではない。彼女が一呼吸置いたその隙に私は言葉を滑り込ませた。


「腕。血が出てる」


 肘の裏から手首にかけて弧を描くように傷ができていた。


「えっ?」


 彼女は袖をめくり自分の腕を見て、首を傾げ、もう一度逆に傾げ、それから大声を出して驚いた。


「なんで!? なんで傷ついてるの!?」


「大丈夫?」 


 大丈夫と心配された私がどうして同じ言葉で心配する側になっているのだろう。それにしてもこんなに大きな傷に気づかないだなんて。私は鞄の中から手巾を取り出し、彼女の真っ白な腕に際立つ赤い筋を隠すように押さえた。



    *  *  *



 彼女は龍の涙だけは嫌だと泣き真似をした。私はそんな彼女の懇願を払い除け、脱脂綿に龍の涙をたっぷり染み込ませ傷口に押しあてた。

 沁みる。痛い。ひりひりする。舞台の撤去作業の声と音に加わるように彼女は大声で喚いた。

 子供じゃないんだからと窘めると彼女は救いの手を陽都に求めた。


「彼氏さん。助けて。これ以上は無理。彼女さんに止めてって言ってください。お願いしまっ。あっ。いったあい!」


「彼氏じゃないから」


 私は新しい脱脂綿にさっきよりも多めに龍の涙を染み込ませた。


「沁みる! 本当に、もう無理! 痛いって!」


「潔く、観念しなさい」


「妖鬼!」


 妖鬼でも、悪鬼でも、邪叉童子でもなんでも結構。被害者でありながらも薬屋にまで駆けて、加害者の傷の手当てをしている私は、妖鬼は妖鬼でも親切で優しいお人好しな妖鬼だ。私はにんまりと笑い龍の涙を振って見せた。

 龍の涙に続き、焚知蔀膏たちしとみこうの臭いにも彼女はうるさく騒いだ。陽都も彼女に荷担するように顔を背け、「沢庵嫌いなんだ」と男らしくない言葉を口にした。私はたっぷりと焚知蔀膏を彼女の傷口に塗り込み、おまけに陽都の頬にその指先を擦りつけてあげた。二人とも顔をしかめ、鼻を抓み、私に苦情の言葉を投げつけてきた。私はそんな二人に構わず、仕上げにと彼女の腕を包帯でぐるぐるに巻いてあげた。


 二本柳沙織。十七歳。

 私が驚いたのは初めて聞く珍しい名字ではなく彼女の齢だった。失礼ながら全然年上には見えないと言うと、彼女はそんなこと言われたのは初めてだと言った。


「心咲ちゃんはよく年上に見られるでしょ? あたしの方こそびっくりしちゃったよ、年下だなんて。三歳くらい上だと思ってた」


 そんなことを言われたのはまったく初めてだった。


 陽都はやっぱり美成陽都と栄を抜かして自己紹介したので、私は素早く投げ込むように「美成栄陽都」と訂正した。沙織はそんな私たちの不自然さを気にかけず、「はるくんね」と陽都に微笑みかけた。


「使ってる練香、白雨はくうでしょ?」


 沙織はすっと陽都の首筋に鼻を寄せた。その突然の大胆な行動に胸がどきりとして、つい驚きの声をあげてしまいそうになった。


「会った時から気になってたの。白雨なんて珍しいなって。まだ手に入れることできるんだ」


「白雨? なんの話?」


 陽都は首を傾げた。


「うん? 白雨じゃないの?」


 白雨? 練香? 陽都からは全然匂いなんて感じられない。となると……。


「夢殿の匂い? かな?」


 亜紀さんの夢殿は亜紀さんらしい素敵な香りに満たされている。様々な夢香が手を繋ぐように爽やかで優しい匂いを広げている。


「夢殿? うんん。白雨の匂いに似た夢香なんてあったかな。ああ、でも、やっぱり白雨の匂いなんだけどな。おかしいな」


 沙織は人差し指を唇で挟み、眉間に皺を寄せた。けれど、そんな難しい表情を見せたのも束の間で、

「家、夢殿やってるの?」と長い睫毛をぱちぱちと揺らした。


「そうじゃないけど、色々事情があって今一時的に夢殿で暮らしてるの」


 私の言葉のどこかに笑わせる要素があっただろうか。沙織は塞いだ両手の中に笑い声を響かせた。


「心咲ちゃん。二人は恋人じゃないんならどういう関係なの? 恋標?」


「違う。友だち」


「本当に? 本当に、本当?」


 沙織は片目を細め陽都を見た。


 陽都は大きく頷いた。沙織は怪しい笑みを浮かべたものの、私が目を細めるとそれ以上恋という言葉を口にしなかった。


「二人とも三番区の人なんだよね?」


 そうだと答えると、沙織は自分は一番区からやって来たのだと言った。


「人に会う用事があってね。それで、用事も終わってこのまま帰るのももったいないなと思ってぶらぶらしていたとこだったの。いいよね、こういう商店街」


「一番区の人から見たら三番区の商店街なんて退屈でしかないでしょ」


「全然!」


 沙織は包帯の巻かれた手を振り回した。


「新鮮ですっごく楽しいよ。一番区とはまったく違うんだもん」


「なにもなさすぎて新鮮ってことでしょ」


「そうじゃないよ。建物も通りも公園も全部個性があって見てて飽きないよ。一番区だけじゃなくて、その他の区とも全然違う独自の雰囲気があるよ、三番区は。そうそう。私ね、今日が初めての三番区なの。三番区だけは来たことなくて。風動船降りた時からもう浮かれちゃってて」


 雰囲気が違うと言われてみれば、以前暮らしていた二番区とは確かに違った雰囲気がある。家の造りも違うし、通りに連なる店の並び方も違う。二番区の商店街は通りを挟んで左右に店が並んでいるのではなく中央にある大きな噴水を囲むように円形に広がっていた。どの店も店自体が看板だというように色彩豊かだった。赤い色の魚屋さん、青い色の野菜屋さん、黄色の果実屋さんだとか子供の頃そんな風に覚えていた。


「心咲ちゃんたちは買物中だったんだよね?」


「買物は、もう終わったんだけど……」


 思い出したらまた胸が重くなった。そう。ここでこうやって時間を消費している余裕はない。


「探し物をしてたんだ。筆記帳をなくしちゃって。今からまた探しに行かないと」


「探し物? 筆記帳? どこでなくしたの?」


 沙織はまた長い付け睫毛を団扇のように忙しく揺らした。


「わからない。たぶん、着物屋からこの広場までのどっかだと思うんだけど」


「どこに入れてたの? 鞄?」


「着物の隠し」


「着物の隠しじゃ掏摸じゃないね。今一番区は掏摸がすごいから」


「走ってるときに落としちゃったんだと思う。たぶん」


「走ってたってことは、あれだ。あいざしだ。すごかったもんね。あたし、あっちの端っこの椅子に座ってたんだけど、あっという間に人だらけになったよ。心咲ちゃん、あいざし好きなんだ」


 好きだと言うと、沙織は「あたしは嫌いなんだ」と人の胸に水をかけるようなことを言った。だから、私はまた目を細めて睨めつけてあげた。


「ごめん。悪意があって言ったわけじゃないんだよ。ただ……。うん。そうね。嫌いっていうか苦手? って感じ。なんか格好つけすぎてる感じがして。特にあの唄い手と低音五弦琴」


 私の胸を水浸しにしたいのか、それとも私の眼光を鍛えてくれているのか。沙織は嬉しそうに笑って言った。


「まあ、いいよ。とにかく、私は筆記帳を探さなきゃならないから。もう行くね。傷、家に帰ったらちゃんとまた龍の涙で拭いて焚知蔀膏塗ってね」


「ちょっと待ってよ、心咲ちゃん」


 椅子から立ち上がろうとしたところ、沙織に着物の背を引かれた。


「急いでるんだよ」


 これ以上は時間を潰せない。こうしている間にも誰かが屑入れの中に放り投げているかもしれないし。


「まあまあ。待って待って。探し物は急く心じゃ見つからないよ」


「悠長にしてたって見つからないでしょ」


「焦らない。焦らない。心咲ちゃんじゃきっと見つけられないよ。頬紅のお礼にあたしが探してあげる」


 沙織は椅子から跳ねるように立ち上がり私の両肩に手を置いた。

 そして、すっと私の耳元に唇を寄せ囁いた。


 あたしね。探し物の専門家なの、と。



    *  *  *



 沙織はその勇敢なお洒落感覚を見せつけるように堂々とした足取りで通りを進んで行った。私はヒマワリの清々しい上品な香りに誘われるように沙織の後ろで下駄を鳴らした。

 沙織が足を止めたのは着物屋から二軒先の米屋の前だった。さっきもこの辺りは探してみた。改めて見回してみてもやっぱり筆記帳はどこにも見当たらなかった。

 沙織は米屋の暖簾をかき分け店に入ると、開口一番「筆記帳の落とし物、ありませんか?」と店のおばさんに声をかけた。


「筆記帳?」


 驚くのも無理はない。突然そんなことを言われてもなにがなんだかというところだろう。私は沙織の足りない言葉に説明を加えようと沙織の隣に並んだ。


「ああ。あなたのなの。店の前を通りかかった人が届けてくれたんだよ。ほら、これでしょ? ちょっと泥で汚れちゃったみたいだけど」


 そうです、と沙織は筆記帳を受け取りおばさんに礼を言った。


 店を出ると沙織は私の手に筆記帳を乗せた。その赤い覆いの筆記帳は間違いなく私の物だった。


「どうして、ここにあるってわかったの?」


「どうして? って、さっき言ったじゃない。あたしは探し物の専門家なんだって」


「でも、どうやって……」


 沙織は尖らせた赤い唇に人差し指を立てた。


「誰にだって強みと秘密があるでしょう? あっ。そうそう。筆記帳は頬紅の分ね。そしてこれが、傷の手当ての分ってことでどう?」」


 沙織は鞄の中からヒマワリを取り出し、口づけでもするように私の鼻先に触れた。


「大丈夫。筆記帳が戻って来ただけで十分だから」


「恩には礼で。恩を二つ受けたら、礼もきちんと二つ返す。そうしなさいって小さな頃から叩き込まれてるの。断らないで。今までずっとそうやって来たんだから。はい」


 金剛石を思わせる硝子箱はやっぱり素敵だった。


「これで足りるかしら?」


「本当に、いいの?」


「いいのってことは足りてるってことでいいんだよね。ありがとう心咲ちゃん。はるくんもね。出会えて良かったよ。それじゃ、ここでさよならね。あたしもそろそろ行かなくちゃ。もうすぐ風動船の時間だから」


 沙織はにこりと微笑むと胸の前で小さく手を振った。

 赤い蓮の花はあっという間に人混みの中に消えていった。


 なんだか夢を見ていたようだった。黒い羽織も唐傘も、紅梅色の下駄も。沙織の全てが夢の中で出会う見知らぬ女の子のように曖昧に思えた。

 私は沙織の存在を確かめるように手の中の硝子箱をゆっくりと開いた。あまりにも素敵すぎるその香りは、現実から少し逸れてしまった感覚をより遠ざけた。

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