十六


 霞朝広場は大変なことになっていた。

 誰も彼もが大声であいざしの楽団員の名を叫びながら硝子皿の下に駆け込み、少しでも舞台に近づこうと押し合いへし合いしていた。

 後ろから背中を押す人たちの力に手助けされ、気づけば私たちも硝子皿の下に入り込んでいた。

 舞台の上には楽器がすでに用意され、舞台の後ろには相都翳楽団と記された大きな横断幕が下がっていた。

 喧噪が嬌声に変わり、嬌声が悲鳴に変わった。道哉みちやは電映機で見るよりも色白で、女の子みたいに細くて、髪が長くて、格好良すぎた。私は、より大きくうねり出した人の波に揺られながら舞台を見つめていた。 

 続いて六弦琴の太隙と篠笛の貴晴、複合打楽器の知史ともふみ、そして最後に舞台に現れたのが低音五弦琴の柚乃だった。紫色の下地に金色の刺繍が施された長羽織。黒と白の縞模様の化矛雪駄。複雑に編み込まれた長い髪の毛。目尻の赤い目張りと黒い紅が特徴の化粧。細身だけれどしっかりとした体つき。足下に届きそうなくらい低い位置に構えた低音五弦琴。目の前にいるのは確かにあの柚乃だった。信じたくても信じられないその現実味のない光景は、まるでトオキョオのようだった。


 相都翳楽団紫窓公演。今日ここで会えた巡り合わせに感謝の気持ちを込めて――――


 道哉の言葉は千幻の世界へ誘う妖力の文句のように響いた。


 ――――叢雨


 哀愁的な六弦琴の旋律が響くと、天に向けた無数の掌で舞台は見えなくなった。大きな紙袋と唐傘が邪魔をしなければ、私も天に向けて掌を翳し、叢雨を受け止めたかった。

 道哉の透き通るような声は音盤で聴くより何倍も素敵で、胸を赤い印に変えられたように体の全てが蕩けそうだった。演奏だってもちろん素敵で、音盤では感じられない迫力に押し倒されてしまいそうだった。

 私は音と胸に震える体を懸命に揺らし一緒に歌った。

 叢雨に続いて、桜影ろうえい、心窓、君と人気の曲が立て続けに演奏された。人の波の揺れに合わせ、私は舞台に近づいては遠ざかった。曲を重ねる度に熱気は高まり、額から汗の大玉が次々と忙しそうに零れ、そのいくつかは目頭で弾け目に染みた。


――――もう七年前になるのか。トオキョオ観測にここ三番区に足を運んだのは。あのときの感動は今でもよく覚えてる。トオキョオは本当に創造力を刺激してくれる。眺めているだけで、こう閃くんだ。実を言うと、この夏もうすでに三回トオキョオ観測に来てるんだ。だから今日がこの夏四回目の三番区だ。太隙君と貴晴君にはトオキョオ病っていつもからかわれてるんだけど、みっちゃんは笑いもしねえで俺のことドグ乃って呼ぶんだよ。ドグ乃はねえよな。ドグにも俺にも失礼ってもんだ。


 柚乃がこの夏四回もトオキョオ観測に来てただなんて。もしかしたらあの東屋の人山の中に柚乃がいたのかもしれない。私は柚乃と同じ湿り気のある空気を吸いながら、同じ景色を眺めていたのかもしれない。これまでのトオキョオ観測を思い出すだけで胸がきゅっと締めつけられてちくりと痛んだ。


――――そんなここ三番区が見せてくれるトオキョオを想って一曲作ったんだ。しかも今日はこの曲を演奏するのにぴったりの雨だ。じゃ、俺たちの生まれたばかりの新曲を聞いてくれ。


 雫――――


 雫は哀愁感のあるゆったりとした律動の曲で、言葉少ない歌詞と繰り返される歌の旋律は水が紙に染みいるようにすっと胸に染みた。あまりの感動に胸が空っぽになって自分自身が遠く感じられた。それはまるで夢香の世界にいるかのような感覚だった。 

 それから確か……、想い、記憶、べに現世うつしょの順に演奏され、最後は煌めきだった、と思う。煌めきでは電映機で見たことのある振り付けが目の前で繰り広げられた。手巾しゅきん手折たおるが頭上でくるくると回され、道哉の合図に従って大勢の人間が地を蹴り飛んだ。もちろん、私も硝子皿を目指して必死に飛んだ。


 舞台からあいざしが去っても楽団員を呼ぶ声があちらこちらから聞こえた。

 あいざしが見せた一時の幻想から抜け出すにはしばらく時間を要した。ようやく我に返った私がまず初めに感じたのは恥ずかしさだった。


「ごめん、ね」


 気づけば陽都を手繰り寄せるように強く袖を引いていた。私はゆっくりと手を離し、人の波に揉まれ乱れた羽織の袂を直した。


「本当にすごかった。感動したよ」


 陽都は誰もいない舞台に向かってそう言った。


「うん。すごかったね」


 私は陽都の言葉をなぞり、遅れてやって来た胸の焦りを誤魔化した。

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